第1話-14
執事に片付けを任せデイヴィットは執務室へ戻った。先ほどまで動かしていたチェス盤を見つめ、デイヴィットは窓の外へ視線を向ける。サンセットヒルシティの騒がしくも何とも平和な風景が流れている。デイヴィットはふっと物思いにふけた。
──この日の朝、デイヴィットは不思議な夢を見た。そこは荒野。誰も居ない平原。ずっと遠くにある大きな石の門は恒星への道を閉ざしている。デイヴィットは随分と久しぶりに地獄に降り立っていた。
門番候補たちが見る共通の景色。
彼女は振り返り海のように深い青い瞳をデイヴィットに向けた。
その花の蕾のような唇が薄く開いて笑みをこぼし、デイヴィット、と紡ぐ。
デイヴィット、大好きよ。
朝日が昇り、星空と乙女は光に飲まれて消えてしまった。
──本当に一瞬の夢だった。でもそれで十分だった。デイヴィットの脳裏には、いつか美しく成長したエヴァンジェリンの姿が焼き付いていた。
デイヴィットには分かっていた。これは九歳の少女に向ける感情ではない。
欲しい。
ただそう思った。
あの笑顔を、自分に向ける愛情を、銀の髪を。全て欲しい。
この世に生を受けて七十年強、たくさんの恋人と出会った。時には駆け引きをしながら、時には殺し合うように。身体を求めて、激しく絡み合って。けれど、終ぞ一生を共に過ごそうと思える者は現れなかった。男も女も、あれほど求め合ったのに。
森で目覚めて小鳥の
(子供に向けていい感情じゃない)
だから、彼女があの歳になるまでは父親の振りをしよう。彼女に対しては無害な男を演じよう。そう決意すると背後にレイの気配がして、青年はクスリと微笑んだ。
「ほら、俺よりよっぽど一途じゃない」
「うるせえな」
「ダメだよ兄弟。そこは素直にならないと」
デイヴィットがつい、いつものクセでタバコを手に取る。彼は自らの手を見てタバコに火をつけるのをやめ、袋に残った数本と共にゴミ箱へ放った。
「まず禁煙からだな」
レイの気配は消えていた。
デイヴィットは深呼吸を一つ。表情を整えると執務室から廊下へ出た。やがて初めてリップクリームを塗ったエヴァが駆け寄り、デイヴィットは父親の顔をした。九年後への恋慕を押し込めて、魔王は、今はまだ
またいく日か過ぎた夕暮れ。ハドリー・ヘイデンはデイヴィットからの急な貸し切り予約に大層驚いて常連の到着を今か今かと待ち侘びていた。グラスを磨く手は集中力を欠いていて、危なっかしい手元を見た伴侶のサム・サリー・シャロンはカウンターの向こうからツイと夫の手を取った。
「んっ?」
「手元が疎かよ」
「あ、ああ。悪い」
「猫ちゃんがそんなにそわそわするなんて珍しい。ねえ?」
シャロンが振り向いた先にはレイ・ランドルフ・ローランドがバーテンダーらしい制服姿で丸テーブルを磨いていた。
「少なくとも叔父さんが怒られる心配はないよ」
「な、何でわかった!?」
「エスパーだから」
冗談を真顔で言い放ったレイは布巾を手にカウンターを越え水場へ向かった。ハドリーは表情筋が固いながらも困惑した様子で義理の甥の背を指さした。
「な、なんかレイも変だよな?」
「あの子の場合デイヴィットと通じているから訪問する内容がわかっちゃってるんじゃない? 候補同士ってそうなのよね昔から。会話してる様子もないのに通じ合ってるような……」
「サム、そこまでだよ」
「あらごめんなさい。
珍しく笑顔を貼り付けず真顔でいるレイは新しい布巾を数枚カウンターへ持ってきた。レイが振り向くのと、入り口の扉がベルを鳴らしたのはほぼ同時だった。
「よぉ!」
デイヴィットは大層嬉しそうに入店した。その左腕には銀髪の少女が乗っていて、執事のスティーヴも登場すると三人は目を丸くした。
「い、いらっしゃいませ……」
「いらっしゃいました。じゃ、降ろすぞエヴァ」
デイヴィットは九歳になる少女を床に下ろし、カウンターの向こうにいたバーテンダーと見習いを手招いた。
三人が揃って少女の前に立つとエヴァは不安そうに彼らを見上げた。デイヴィットは三人の前に立つとまずシャロンを手で示す。
「この人はサム・サリー・シャロン。俺のはとこ。俺のおじいちゃんと彼女のおじいちゃんが兄弟だからはとこって言う間柄なんだ」
エヴァは歌姫を見上げると華やかな水色のワンピースの裾を両手で摘んで持ち上げた。
「……エヴァンジェリン・エリン・エリノアと申します。よろしくお願いします」
淑女の挨拶に対し、シャロンもドレスの裾を持って同じように優雅な振る舞いを見せる。
「どうかシャロンと呼んでちょうだい」
「は、はい」
「で、こっちのおじさんがハドリー・ヘイデン」
デイヴィットはハドリーの肩に手を置いてニンマリ少女に微笑んだ。
「ハドリーはシャロンの奥さん。このバーの店主で俺とシャロンのお気に入り」
エヴァはスカートを摘んでまたお辞儀をする。
「よろしくお願いします」
「お、おお。どうぞよろしく」
「で、彼が」
デイヴィットがレイに近寄って肩を抱いてもレイはとても子どもに向けるものではない冷たい視線をエヴァに向けていた。
「俺と同じ元、門番候補。レイ・ランドルフ・ローランド。シャロンの姉さんの息子。甥っ子だ」
エヴァはレイの人の顔に別のものが被って見えた。青い炎を揺らすままの悪魔の姿。青年はデイヴィットとは違いその煌々とした輝きを隠しもしなかった。エヴァは“これは人からずっと遠いものだ”と畏怖し、ついお辞儀がぎこちないものになってしまう。
「まあ見抜いてると思うけど、千里眼。俺はデイヴィットと違ってさほど人間に興味ないから」
レイは悪魔の表情で嫌味に笑うと演技かかった動作で右腕を大きく動かしお辞儀をした。
「どうぞお手柔らかに」
「……こちらこそ」
レイはエヴァから興味をなくすと魂の兄弟であるデイヴィットに顔を向けた。
「挨拶なら先に言ってよ。
「いないのか? いつも一緒だろ?」
「今日たまたま出掛けてるんだよ」
「ふうん、どこに?」
デイヴィットがエヴァを抱えそれぞれを所定の位置に促す。ハドリーはレイと共にカウンターへ戻り軽食の準備を始めた。
「こっちに来て新しく知り合った子と映画行くって」
「で、お前はバイト?」
「そう。誰かさんのおかげで」
「おいおい俺のせいか?」
レイは“お前のせいだよ”と言いたげにニヤリとエヴァに笑いかけて、営業スマイルを作った。
「ご注文は?」
「そうだなぁ。エヴァ何が食べたい?」
「ん? んー……」
メニューには食べ物の記載がほとんどなく、本日の店主おまかせの文字を指差す。
「おまかせ?」
「ハドリー叔父さんがお客の食べたそうなもの作ってくれるんだよ」
「じゃあ、おまかせします」
「かしこまりました。お飲み物は?」
「ノンアルコールで適当に頼むわ。爺やは?」
デイヴィットがメニューを手渡すとスティーヴはふっと微笑む。
「私もアルコールは控えておきます。食事はお嬢様と同じものを」
「お嬢様?」
「エヴァのこと」
「ああ、まあ確かに魔王の娘だけど」
「娘!?」
ハドリーが驚いたのを見てデイヴィットは屈託なく笑った。
「色々あってよ」
「お前が子供相手にニコニコしてる段階で妙だとは思ったんだよ……。何があったんだ?」
「そうさなぁ……ひとまずコミックス一冊分の大騒動だった、とか?」
「盛りだくさんじゃねえか」
「事件が落ち着いたんで癒しのバーに顔出したってところ」
「癒し、ねぇ」
「ご
エヴァンジェリンは目の前にタンブラーグラスで出された赤いカクテルをまじまじと観察し、手に取った。大人たちもそれぞれグラスが行き渡ると手にして軽く掲げる。
「俺の娘に、かんぱーい」
「デイヴィット家族が増えておめでとー」
「新しい家族に乾杯」
「小さなお嬢さんに乾杯」
それぞれに笑顔を向けられ、エヴァンジェリンはこれが顔合わせであり歓迎会なのだと気付いてやっと微笑む。
「歓迎会、ありがとう」
デイヴィットの笑顔を見ながらエヴァはカクテルに口をつけた。爽やかなグレープフルーツの香り、甘いシロップ。
「ん! 甘い!」
「それはシャーリーテンプルって言うんだ」
「シャーリー? 女の子の名前?」
「昔の女優の名前よ」
「そうなんだ!」
エヴァンジェリンは次々出される色鮮やかなカクテルや食事に目を輝かせた。
少女が満腹になり飲み物のペースが落ち、ゆったりする頃シャロンはバーの壁際にある小さな円形のステージに立った。
「歌姫さまが歌ってくれるってよ」
「わぁ!」
「あら、でもその前にもう一人のお嬢様を紹介しないといけないみたい」
シャロンが優雅に示した先には黒髪の若い乙女がこそりと立っていた。
「あ、お帰りアンジェラ」
「た、ただいま……」
レイが右手を差し出すとアンジェラ・エヴァンズは素っ気ないシャツとパンツルックを気にしながら店内に足を踏み入れ、レイと共にエヴァの前に立った。黒髪はストレートでさらりと流れ、ややキツい印象を持たせながらも目元は涼しい。レイと似て非なる赤い瞳は柘榴のように鮮やかだ。
「彼女は俺の恋人。アンジェラ」
「よろしくお願いします」
「よろしくどうも……。この子は?」
「デイヴィットの養女でエヴァンジェリン」
「そうか。ああ、こんばんは」
アンジェラが会釈するとデイヴィットは柔らかく微笑む。
「こんばんは
レイはカウンター席に恋人を招いて座らせた。
「何か飲む?」
「ああ、うん。アルコール以外で……」
「ノンアルのカシスオレンジとかどう?」
「じゃあそれで」
「はぁい」
レイがアンジェラ相手にふんにゃり微笑み、エヴァは魔王の親戚も恋人にはああ言う表情をするのだなとそっと観察した。
「ねえデイヴィット」
「ん?」
「……どうして歓迎会はこの人たちなの?」
エヴァンジェリンは自分も両親がいながら孤児のようなものだったが、歓迎会というのはまず家族でするものだとは理解していた。デイヴィットの父と母は一体どうしたのだろう、と思って見つめると養父は彼女の頭の中を読んだかのように自嘲気味に口の端を上げる。
「俺の親父は随分前に死んで、母親とは長いこと揉めてる」
「あっ……」
「兄弟とは仲良いが、大人になってしばらく経つとなぁ……年中顔合わせる訳でもねえんだ。お互い会わない間にどうなってるか分からん」
「ん、そっか……」
「ほら、シャロンが歌うぞ」
「うん」
全員で拍手をするとシャロンは美しい喉を震わせた。
「わぁ……!」
エヴァはほとんど初めて、讃美歌以外の音楽に触れた。滑らかで激しく、強い歌声に少女はうっとりとして。やがて睡魔に負けるまで少女は歌や踊りを楽しげに眺めたり、全員と他愛のない話をした。
デイヴィットはすっかり寝入ったエヴァンジェリンを抱いて執事の会計を傍らで待つ。微笑むシャロンと目が合い、デイヴィットは肩をすくめた。
「お嬢さんはこれから連れてくるの?」
「時々な。母上や兄弟に預けるよりハドリーとお前んとこの方がずっと安全だから。いざとなったらレイもいるし」
「そう。じゃあ預かってあげる」
「助かるよ」
シャロンは寝入ったエヴァの髪にそっと口付け、ハドリーと並んで三人の見送りに入り口の前へ立った。
「直接帰るのか?」
「ああ、まあ。まだ養子縁組が正式に通ってなくてな」
「あら、もしかしてイザベル伯母さまに内緒? 危なっかしいわね」
「だから先に会いに来たんだよ。俺たちに何かあったらエヴァを頼む」
「物騒なこと言うなよ」
「そうよ、縁起でもない」
「念のためさ」
デイヴィットはハドリー夫婦より奥にいるレイとアンジェラに視線を向けた。憂いを帯びたデイヴィットの視線を受け、レイは作り笑顔をやめた。
「レイもよろしく頼む」
「残念だけどその女に優しくはできない。俺の
デイヴィットはニッと笑った。
「そこは心配しなくていい。俺が育てる」
「自分の嫁を育てる奴がこの二十一世紀にいる?」
「いるんだよなぁここに。じゃ、またな」
サンセットヒルシティ。そこは太陽が落ち、人と出会った場所。この街の古き太陽の化身は黒い髪を揺らしながら今日も己が支配する街を練り歩く。
金曜日、日が沈めばまた彼はチョコバーを大量に買うだろう。そして、橋の下や街の外れに住む者たちに顔を出しに行く。その姿はさながらサン・ニコラウスのようであった。
──『黒炎の王と星を視る娘』第1話・完
次作:第2話『星の子どもたち』
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