和解には不向きな朝

2ka

和解には不向きな朝

 さむい。

 床につけた足から、お尻から、どんどん体温が逃げてゆく。

 あたしは体をぶるりと震わせて、けれど表情だけはツンと澄まして、何でもない風を装い続ける。ここだけはなんとしても持ちこたえなくちゃ。

 あたしがさむくてたまらないことが気づかれてしまえば、それは彼につけ入る隙を与えたのと同じことになってしまう。

 そんなのはダメ。きっと頭の弱い女と思われてしまう。

 さむさに負けて、なし崩しに仲直りなんて絶対にダメ。きっと扱いやすい女と思われてしまう。

 そんなのは、あたしのプライドが許さない。

 ああ、でも、やっぱり台所の床になんて座り込むんじゃなかった。

 すずめの声だけはさわやかなのに、早朝の気温は冷え込む一方なんだもの。


 ◆


 ねむい。

 すずめがやかましくて、もうそんな時間かとさすがにげんなりした。

 たぶん俺はどこかで諦めて眠るべきだった。いい大人として、それが理性的な態度だったんだと思う。

 でも、どんなときでも理性優先でいられるわけじゃないのが人間だ。たとえ社会人五年目の大人の男だったとしても。

 だってしょうがないじゃないか。彼女は俺のせいで拗ねてるのに、その彼女をほったらかして俺だけベッドでぬくぬく眠れるわけがないだろ?

 彼女は俺のことで嫉妬してるっていうのに、どうして俺が理性的でいられる?

「ユキエさん」

 何度目かわからない俺の猫なで声はきっぱり無視された。本当にとりつく島がない。

 そろそろ泣きたくなってきた。


 ◆


 そんな風に優しく呼んでもダメ。

 けれど、あたしの体はとても正直で、ついその声にピクリと反応してしまう。

 ダメダメ。ちょっと優しい声で呼ばれたくらいで振り返っては、ちょろい女と思われてしまう。

 ――ちゃんと考えて。

 あたしがこうしてそっぽを向いている理由に、あなたは気づかなかったんだから。

 あの女に教えてもらったんでしょう? あたし、ちゃんと知ってるんだから。

 だから、あたしの機嫌がどうすれば直るのか、今度は自分で考えて。

 早くしないと、あたしは凍ってしまいそう。それは心がって意味なのだけど、先に体が凍えてしまいそうだった。冷えきった手のひらなんて痛いくらい。ああもう、泣きそう。

 最低なことは重なってゆくもので、さむさで頭がいっぱいになりかけていたあたしは、近づいていた彼の気配に気づくのが遅れた。

「ユキエさん」

 はっとして、伸びてきた手を振り払ったら力加減ができなくて、あたしは彼の手を思い切り引っ掻いてしまった。

 わずかな血のにおいに、あたしはますます泣きたくなった。


 ◆


「って!」

 引っ込めた手の甲を見ると、きれいな直線が三本走っていた。みるみる血が滲んできた傷に呆然とする。こんなふうに容赦なく引っ掻かれたのは初めてだ。

「ユキエさん……」

 そんなに怒ってるのか。


「ユキエさん、嫉妬してるんだと思う」

 私が言うのもなんなんだけど、と前置きしてから彼女は言った。

「嫉妬? おまえに?」

「そう」

 いや、大真面目に頷かれても。

「そうって、だって……」

 そんなわけないだろう。だって、

「猫だぞ?」

「だから?」

「だからって」

「すっごくきれいな黒い毛並みの美人よ」

 それはそうかもしれないけど。

「結構年寄りだぞ?」

「あら」

 生真面目だが穏やかな彼女の黒い瞳に、初めて鋭い光がさした。

「年齢で女性を差別するの?」

「そういうわけじゃ……」

 どう考えても彼女の主張はおかしい。それなのにどうして俺がこんなにしどろもどろにならなくちゃならないんだ?

 ユキエさんは人間でいうなら還暦オーバーのおばあちゃん猫で、俺とのつき合いは相当長い。大切な家族だ。俺はユキエさんを愛していると言っても過言ではない。しかし――。

 一方、彼女は俺の正式な婚約者。もちろん人間だ。

「ばかにしてるでしょ」

「してないよ」

「うそ」

「ほんとだって。でも……」

 人間と猫だ。同じ土俵で比べるものじゃないだろう?

「どうしたらユキエさんとおまえのあいだに嫉妬なんて関係が成立するんだ?」

「あら」

 彼女は目をまん丸にして俺を見つめた。

「知らなかったの?」

「何が」

「恋愛に関して、女は敵を選ばないの」

 彼女は理知的な瞳で、理性的な口調で、堂々言い切った。

「ユキエさんとは仲良くしたいけれど、でも、あなたに関してだけは、私、引くわけにはいかないの」

 そういうわけだから、ユキエさんのご機嫌取りはあなた一人でやってね。

 ぽかんとする俺にそう言い残して、彼女は自分でタクシーをよんでさっさと帰って行った。


 そして、俺は彼女の言っていたことが正しかったのだと思い知った。

 ユキエさんはまったく俺を相手にしてくれなくなった。そばによらせてくれないので、好物の魚肉ソーセージをあげることも、お得意のマッサージをしてあげることもできない。

 女がこれほどまでに断固拒絶を示す理由は、やっぱり嫉妬なんだろうと思う。

 光栄なこと、なのかもしれない。男冥利に尽きる、のかもしれない。けれど俺はごめんだ。こんなに困るのなら嫉妬なんてしてほしくない。

 本当に、本当にどうすればいいんだ?

「頼むよ、ユキエさん……」

 我ながら心底情けない声が、冷たい台所に響いた。


 ◆


 そんな哀れっぽい声を出してもダメ。

 さあ、ちゃんと、考えて。

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