第13話
暑い夏の日。煩い蝉の声が部屋の響く。クーラーも扇風機もついていない蒸し暑い部屋で、母親が鬼の形相で自分を見ている。手を振り上げ、自分を殴る。身体に鈍い痛みが走る。奥には線香と写真立てが見える。写真立ての中には一人の男の子が笑って写っていた。それを覆い隠すように母親の顔が重なる。母親は何かを叫びながら、自分を殴っていた。
『お前が死ねば良かったのに!』
自分に向けて大きく手を振り上げる。母親は何故か泣いていた。その憎しみの顔の中で、涙を流していた。手が自分の視界を覆う。そして━━━━━━━━━━━━━━━
「あっ?!」
鷲島は勢いよく目を覚ます。目を覚ました後、しばらく自分がいる状況を理解出来ずにいた。真っ白な無機質な天井、清潔感のあるベットや枕、自分の頭に巻かれた包帯。そして驚いた顔でこちらを見る看護師。鷲島は数十秒の思考停止の後、ゆっくりと氷が溶けるような感覚に襲われようやく自分の状況を理解した。同時にここに来る前に何が起きたのかも。窓を見ると眩しい太陽の光が差し込んでいた。
「尼崎・・・尼崎は・・・っ」
立ち上がろうと身体を動かすが、全身に鈍い痛みが走る。幸い骨折まではしていないようだったが、安静にしていなければならないのは明白だった。それでも身体を動かそうとする鷲島を静止するように隣から肩に手を置かれる。隣を見ると佐々川がいた。
「佐々川さん・・・・・・」
「鷲島、落ち着け・・・と言いたいところだが、やられた」
言葉の意味を理解するのにまた数秒の時間を有したが、すぐに佐々川の言わんとしていることが理解出来た。
「石井楓さんは・・・尼崎は?捕まえたんですよね?あの後!追って捕まえられたんですよね?!」
鷲島は佐々川の肩を掴む。痛みが走るのもお構い無しに力を込める。それを見ていた看護師が慌てて止めようとするが、佐々川が看護師を手で制す。まるで鷲島の気持ちを受け止めるかのように。佐々川は何も言わずに手に持っていたテレビのリモコンの電源ボタンを押す。斜め前のテレビがニュース番組を映し出す。
『速報です。現在、埼玉県熊谷市で起きている連続殺人事件の新たな被害者が出ました。被害者は熊谷市に住む主婦の石井楓さん、三十五歳です。今までの被害者と同様にバラバラにされていたことから同一人物の犯行と思われます・・・それにしても警察がマークしていたにも関わらず新たな被害者が出てしまいました』
『今回は警察の失態だと思いますよ。話によれば既に石井楓さんが狙われるであろうことも分かっていたそうじゃないですか。それにも関わらず犯人を取り逃がし、石井楓の殺害を許してしまった。警察の信頼はもう地の底より深く落ちましたね』
その後もキャスターやコメンテーターが延々と何かを話していたが、鷲島にはその殆どの会話が入ってこなかった。頭に残るのは石井楓の殺害と犯人を取り逃がしたこと。鷲島は肩を震わせる。
「どうして・・・あそこまで追い詰めたはずだったのに・・・・・・」
「・・・あの後、すぐに捜査員が車を追った。だが車は公園に乗り捨てられ、石井楓と犯人はいなかった」
「いない?車だけを残して?そんな・・・あんな短時間でそんなことが・・・・・・」
鷲島は考える。そうなると犯人は、イヌ男は単独犯ではなく、複数犯なのではないか。今までの犯行手口のリスクの高さや臓器を食べる異常行動からサイコパス的犯罪者による単独犯行、と勝手に決めつけていたが短時間で車を乗り捨て、警察の手が届かないところに石井楓を運び出して朝までに殺害する。そんなことが一人でできるとは思えない。
「そうだ。今回の犯行で我々警察は犯人・・・イヌ男を複数犯とみて捜査することにした」
「っ!ならすぐに行きましょう!犯人は・・・尼崎はまだ近くにいる!もう追い詰められる!だから・・・」
そう話す鷲島を佐々川は黙ってみる。そして静かに話す。
「鷲島、お前は安静にしていろ。そんな身体で犯人を追い詰められるとでも思ってるのか?」
「なに言ってるんです・・・?俺は・・・この手で・・・逃したんですよ。あの時、あの車を最後まで追っていれば・・・あの車に乗っていた石井楓さんを・・・尼崎を・・・」
鷲島は擦り傷だらけの手を見る。もう痛みなど感じなかった。絶望からか感覚が麻痺しているのかもしれない。鷲島を見て佐々川は何も言うことなく立ち上がり、部屋を後にしようとする。去り際に佐々川が鷲島に言う。
「犯人は必ず捕まえる。お前は安静にしていろ・・・・・・お前自身がその必要があると思うならな」
鷲島は佐々川を見る。それ以上は言うことなく部屋を出ていく。鷲島はまだ長々と話しているコメンテーターが映るテレビを消す。ベットから降りるとまだ痛みはあるが、歩けないほどではなかった。看護師が慌てて鷲島に駆け寄ってくるが、鷲島はもう大丈夫です、と言い病院を出る。その間にも数人の医師や看護師に止められたが、その制止を一切聞かずに歩く。道行く人々の声が耳に入る。
『怖いよね。警察早く捕まえてくれないかな』
『警察なんて当てにならないじゃないか』
『でも殺された人って虐待加害者なんでしょ?』
『そんな人いなくなっても別に・・・・・・』
鷲島はその言葉を聞いて心臓の音が高まるのを感じる。
『誰も困らないよな。逆に殺されて助かった人もいるだろ』
鷲島は意識などしていなかった。気付けばそう話していた男の胸倉を掴んでいた。
「な?!なんだよあんた!離せよ!」
「ふざけるな・・・殺されて当然の奴なんているわけないだろ・・・・・・人を傷つける奴が殺されて当然なら・・・死んだ人を貶したお前が殺されても文句は言えないよな?」
血走った目で睨む鷲島を見て男は短く悲鳴を挙げて倒れ込む。鷲島は息を荒くして男を見る。男は怯え、周りの人達も野次馬の様に見ているが、鷲島はそれを気にせずに男を一瞥してその場を立ち去る。警察署に戻りながら頭の中で多くの情報が錯綜する。虐待、虐待を無くす会、阿比留、尼崎。それら全てを繋ごうとしても、何故かスッキリしなかった。まだ何か見落としているのではないか。何か、とても重要な事を。
『見た目に騙されるなって事ですよ』
カフェの佐東の言葉が浮かぶ。見た目に騙されるな。人の皮を被っている殺人鬼は誰か。メビウスの輪の様に抜け道のない道を彷徨っている感覚に襲われる。そんな感覚をスマホの着信が一気にかき消した。スマホの画面には見たことの無い電話番号が表示されていた。鷲島はゆっくりと電話に出る。
「もしもし・・・」
「鷲島亮さんですね?熊谷市児童相談所の水崎と申します」
「児童相談所・・・?」
鷲島はかけ間違いでは無いか、と言い返そうになるがその隙も与えず水崎と言う男が話す。
「あなたの奥様、鷲島千聖さんが息子さんに暴力・・・虐待の疑いがある為、こちらで保護しています。すぐに来ていただけますか?」
「は?」
鷲島は何を言われているのか理解できなかった。残っているのは妻の名前と虐待という言葉のみ。まだ事故の影響で頭が整理出来ていないだけかもしれない。本当は分かっているはずなのに鷲島は現実を受け入れたくなかった。何も考えずにただ動く人形の様に無機質な動きで児童相談所に向かう。
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