彼岸花

如月姫蝶

第1話 花街

 京都の祇園には、昔ながらの花街が息衝いている。

 月が花街を照らす時分、花街もまた、夜空を照らすような輝きを放つのだ。

 お座敷に現れた舞妓たちは、はんなりとした風情で挨拶した。

蒼早登あおさとどす。よろしゅうおたのもうします」

 青い振袖の娘が顔をあげ、花簪が揺らめいた瞬間、沢村さわむらは、眼底までビリリと痺れた。


「沢村先生は、精神科のお医者様なんどすか?」

「ああ」

 どこかぶっきらぼうな言い方になってしまった。そのうえ、蒼早登が酌をしてくれるというのに、それを受ける仕草も我ながらぎこちない。

 沢村は、そんなこんなの全てを、芸妓舞妓を招いてのお座敷遊びなど生まれて初めてであるということのせいにしてしまいたかった。どう見ても十代の小娘に、理性を剥ぎ取られそうになっているなどと悟られては不味かろう。

「精神科いうたら……そや、カウンセリングとかしていただけるんどすか?」

「そうだね、まずはしっかりと患者さんの話を聞く。そうしないと、治療方針も見えてこないからね」

 最終的に新薬を処方すれば、今夜のスポンサーは大喜びだろうが……

 今夜の宴は、大手製薬会社が、最近発売した薬剤の使用感について地元の臨床医から聞き取りたいという名目で開催された。要は接待である。

 大学病院の勤務医であっても、祇園の一流の花街での遊びには、なかなか縁が無い。まず花代が非常に高くつく上に、一見さんお断り等、古来のルールも健在だからだ。

 花街は、客に関する守秘義務を負うが、そもそも客を厳選するのである。

「うち……いっぺん、沢村先生にカウンセリングしていただきたいわぁ」

 蒼早登は、上目遣いに囁いた。その瞳は、ぼんぼりの灯火のように、奥ゆかしくも熱く揺らめいていた。

「うちら舞妓は、芸事を披露して、お客様に夢を見ていただくんが仕事どす。そやけど、ええ夢をと思えば思うほど、悩むこともあるんどすえ?」

 蒼早登の声は甘い。そして、彼女の胸元からも、柑橘を思わせる甘やかな匂いが立ち昇っていた。


 彬樹ひできが古書店巡りから帰宅すると、晩春の風に顔をくすぐられた。

 年若い内妻である弥生やよいが、まだまだ日も高いというのに、彼よりも先に戻り、マンションのベランダに出ているようだった。

 今日は、楽しみにしていた小学校の同窓会に出席したはずなのだが……

 ほんの半月ほど前、少しばかり風が強かった日に、近所の桜の古木から舞い上がった花吹雪を、ベランダで白魚のような手でつかまえていた弥生は美しかった。

 しかし、彬樹が「ただいま」とベランダを覗くと、弥生は、「お帰りやす」と応じながらも、目元を指で拭ったのだった。

「随分と早かったんだな……待人来らずだったのか?」

 弥生はコクリと頷いた。

「へえ、そうなんどす。急にキャンセルしはったんやって。やっぱり、お医者様いうんは、えらいお忙しいんやろなあ……」

 弥生が小学生の頃に虐められていたという話は、彬樹も聞き及んでいた。母子家庭に生まれ育ち、母は美貌のスナック経営者。そうした因子が子供たちよりもむしろその親たちを刺激したらしい。

 どうあれ、弥生は、母の勧めもあって、後に祇園で舞妓としてデビューした。だからこそ、彬樹は、彼女を見初める機会を得ることができたのだ。

 ところで、小学生時代の虐めに関しては、同級生の中でただ一人だけ、弥生を庇ってくれた子がいたという。当時から大変な優等生で、今では医師なのだそうだ。更にいうなら、既婚であるらしい。

 その子のことを語る時、弥生は、初恋を懐かしむように頬を染めるから、彬樹にしてみれば少々妬ましい。ただ、年の離れた内夫と二人で暮らす日々の中で、初恋の相手と旧交を温める機会くらいはあってもいいだろうとも思っていたのだ。

 その人物と再会するためだけに、いわば敵陣へと乗り込む内妻が、どこか眩しくもあった。

「うちは、ほんまに会いたかったのに……」

 出掛けた時の凛とした風情とは一変して、弥生は、彬樹の胸に顔を埋めた。

「そうだ、今夜は……寿司でもつまみに行くか?」

 そんな慰めの言葉しか思い付かない自分に、彬樹は苦笑した。

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