真里先輩

「樋口さん、Dの頭のシンバルはもう少し大きくいただいてもいいですか?皆の目印になるので。」


『はい。」


確かに、D前にちょっと演奏が崩れかけていた。それなら、Dの頭でしっかり修正できたほうがいいだろう。


「ありがとうございます。では、全員でCからお願いいたします。」


3、4の合図で全員Cから演奏する。


曲目は、J-POPのメドレーで、曲から曲にだんだん移り変わっていく大事な場面だ。


アマチュアの団体で、しかもそこまでレベルの高いバンドではないようなので、こう言う場面を完璧には作れないようだ。


それでも、指導者として指揮台にいる人も団員一人一人も持っている技術をフルに使って少しでもいい演奏をしようとしている。そんな印象を受けた。


演奏のレベルは決して高くはないが、その姿勢には共感できる。


いい団体だと思う。


団員の方も、初めて賛助出演する俺にも感じよく接してくれた。


ドラムセットは真ん中に配置する団体のようで、真里先輩は俺から見て右の方で、鍵盤類が配置されているあたりにいた。


鍵盤打楽器は太鼓類よりも客席側に置かれているので、先輩とのコンタクトは取りやすかった。


今日も、前回の合奏も、概ねいい反応を見せてくださった。


「いいですね、樋口さん、ありがとうございます!皆さん、Dの頭で戻ってきやすくなったかと思いますが、ここは全員技術的に難しい箇所なので、樋口さんに頼り過ぎずに、しっかり練習していきましょう。」


よし、いい手応えだ。


「では、次の曲行きましょう」


ポップスの練習は終わりのようだ。


次は、コンクールの課題曲にもなったマーチを練習するようだ。


この曲は、俺の出番はない。


同じく降り番の真里先輩と一緒に合奏場を出た。


「お疲れ!バランス的にもかなり良くなったね!」


出て早々、テンション高めに言われた。


どうやら本当によかったみたいだ。


『ありがとうございます!そう言っていただけて安心しました。』


なんとなく、2人で自販機の方に向かって歩いていた。


「んん、本当、樋口くんにお願いしてよかったよ!好きなの選んで!」


『あ、ありがとうございます!』


そう言ってコーラを選んだ。


先輩はミルクティを飲むらしい。


「樋口君さ、またここの団体一緒に乗らない?まぁ、私のところに依頼があればだけど」


ありがたい。本当に。


『もちろんです。クビになってなければですけど。』


俺的には笑いを取りにいったのだが、先輩はやけに真剣だった。


「よかった。」


よかった?まだ依頼も来てないのに…?


何が…


「あのさ、樋口君は、やっぱり演奏家になりたいの?」


『そう、ですね。なれるかどうかはわかりませんけど。』


「そっか。彼女さんも、同じように演奏家を目指しているのかな?」


やけに真剣な表情だった。一体何が言いたいんだ…?


『そうですね。将来のことは、まだちゃんと話したことないですけど。』


…少し張り詰めた空気。なんだ?


「いいね!2人とも同じ方向を見ていられるって、実はすごいことだよ!」


やけに明るく言う。


「でも、将来のことは、ちゃんと話したほうがいいよ?すれ違いになる前にね」


そうか…先輩、何かあったんだな。


『何か、あったんですか?』


少し迷ったが、聞いてみることにした。


「うん、彼と、ちょっとね。」


これ以上聞くのはやめよう。話すようなら聞くけど、後輩の俺がどうこう言えることではない。


『そう、ですか。』


これでお互いに黙った。なんとも居心地が悪い空気だけが流れていく。


「樋口君は、大人だね。」


なぜ?w


『そんなことないです。本当に大人なら、もっと気の利いたことを言えてるはずですから』


先輩はクスッと笑って立ち上がった。


「今日、この後は?」



『帰るだけです。』


「じゃ、お茶しよ!練習に出てくれたお礼にごちそうするから!」


『ありがとうございます。』


ちょうど練習が休憩に入ったようで、合奏場のドアが開いた。


指導者の竹島さんが出て来て、俺たちの前まで歩いてきた。


「今日もありがとうございました。2部の曲は、今日はもうやらないので、お二人は上がってしまって大丈夫ですよ」


2人でありがとうございましたと言って合奏場に入った。


「ありがとうございました!来週はいよいよ本番です。よろしくお願い致します」


団長や、打楽器の方々が揃って挨拶にきてくださった。


いい人達だな。本当に。おかげで気持ちよく帰れそうだ。




挨拶も一通り済んだので、先輩と一緒に合奏を行なっていた市民会館を出た。


「この辺だと、楽団の人に会いそうだから、駅の方まで行こう。」


そう言って先輩はスタスタと歩いていく。


まるで、俺に反対させないように。もっと言えば、断るタイミングをなくすために。


『先輩』


呼び止めた。先輩の焦り方が異常だったから。


「ん?」


振り返る。俺が歩くのをやめたのは、1秒にも満たないくらいなのに、先輩は少し離れていた。


数歩、こちらに戻ってくる。


『どうしたんですか?そんなに慌てて』


すると、びっくりしたように、目を大きくする。


ただでさえ二重でぱっちりとした目が、すごく大きくなる。


「え?ごめん、そんなに慌ててるつもりはなかったんだけど」


いやいや、めっちゃ慌てたじゃないですかw


『何か、急ぐ理由があるんですか?お忙しいなら、別日に改めても僕は大丈夫ですよ?』


すると、先輩は困ったような、少し照れたような顔をした。


そうですよ、落ち着きましょうよ。


「ごめん、急ぐ理由はなかった。ゆっくり行こう。」


ええ、そうしましょう。






結果、駅前にあった、大手チェーンの喫茶店に入った。


「樋口君ってさ、大人っぽいって、よく言われない?」


先輩はさっきまでの延長で話をしているようだった。


『まぁ、言われなくはないですけど、本質は子供ですよ。』


これは本心だった。俺のことを大人っぽいと思う人は、俺の表面しか見ていない。


「そうなの?でも、落ち着いてるよね。少なくとも、落ち着いてるように見える。」


返答に困ったので、少し黙っていた。


「まぁ、それはいいんだけどさ。」


一瞬また気まずい空気になりかけたが、今度は先輩が話しを続けた。


「私も、もう4年生だし、大人にならなきゃなって思うんだけどさ…。」


「演奏活動をフリーランスで続けるって、やっぱり世間一般見たらただのフリーターになっちゃうんだよね」


あぁ、そういう話か。これは他人事じゃない。俺達も、いずれ悩む日が来る。


「彼氏は、全然違う大学で、音楽もやってなくてさ。同い年だから、もう就職も決まってるんだ。」


あぁ、少し話の道筋が見えてきた…?


「でね、この間、なんか言いにくそうに話し始めたから、しばらく黙って聞いてたんだけど…」


「結論から言えば、私は卒業後どうするつもりなんだって言われてね…」


「私は、まだ音楽続けたいし、すこしずつ演奏も指導もお仕事もらえてるから、このまま続けたいって言ったの。」


うん。なるほど。


「そしたら、彼氏が、言い方悪いけどそれはフリーターだろっていうの。」


「それに、卒業して数年経って、仕事が落ち着いたら結婚したいって。その時まだフリーターだったら困るなんて言われてさ。なんか、何て答えたらいいのかわからなくてさ。」


なるほど…。難しい問題だけど、避けては通れないよな。


卒業、就職、結婚…。これは、おおよそ誰もが通る道で、避けては通れないと思う。


特に、家庭を持ちたいと思っている人は…。


そこには、“音楽をやっているから”なんてなんの言い訳にもならない。


なにをやっていようが、どんな生き方をしていようが、年齢は変えられない。


だからこそ、結婚したいから音楽をやめても、決して間違いじゃない。


大事なのは…


『大事なのは、先輩の意思だと思います。』


真っ直ぐに目を見ていった。真剣に、言ってるんです。悩んでいる先輩に、小手先だけの言葉なんて言えない。


「樋口君…」


『すみません、僕も、何が正解かはわかりません。確かに、彼の言うことも間違いではないと思います。でも、それだけが正解じゃないとも思います。例えオケや吹奏楽団に所属していなくても、音楽で生計を立てている人は沢山いますし、結婚している人だっています。きっとそこに至るまでに、当人同士で話し合って結論を出したんだと思うんですよね。だから、先輩も、彼のことが本気で好きなら、ご自身の意思は曲げずに話された方がいいと思います。』


「結果…別れることになったとしても…?」


『お互い譲らずに、どうしても辞めるか別れるかになった時に、また考えてみてはどうですか?先輩が、どこまで本気で演奏したいのかが伝わったら、彼の考えもかわるかもしれないですよ。』


無責任なことを言ってるのはわかっている。でも、こう言うことは、当人同士で直接話すしかないと思う。


結果、別れることになったとしても。


そんなこと、言えないけど。


ここでちゃんと話さなかったら、どう転んでも後悔することになると思う。


だから、はっきりと自分の意思を伝えた方がいい。


そうじゃないと…俺とさぎりのようになる。


そうは、なってほしくなかった。


『すみません、偉そうなことばかり言ってしまって。』


「んん、ありがと。」


先輩はそう言ったまましばらく黙っていた。





「樋口君」


ん?


『はい』


「よかったら、また付き合ってよ。」


まぁ、お茶くらいならいいか。


『はい。いつでも。』


そう言って笑いかけた。


先輩も、少し表情が緩んだようだ。


「正直、こんなにストレートに自分の考えを話してくれると思わなかった。でも、おかげ私も、真剣に向き合えそうだよ」


表情は暗いままだったが、その目には確かに力があった。


『そうですか。本当、偉そうにすみません。』


「だから、それはいいって!今度はご飯奢るから!ちゃんと答えが出たら連絡するよ!」


普段のさっぱりとして明るい先輩が戻ってきた。


カラ元気かもしれないが、暗く落ち込んでいるよりはいいだろうと思った。


先輩、ありがとうございます。


俺も、1年だからなんて言ってられない。ちゃんと、将来のこと考えてみますね。

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