05:妖魔


「ん……」


 いつの間にか眠りに落ちていた私は、何かが擦れるような音で目を覚ました。

 額の上に乗せられていた濡れタオルは、私の体温を吸い上げてぬるくなっている。時計が無いのでわからないけれど、どのくらい眠っていたのだろうか?


 何度か瞬きを繰り返してから、そっと上体を起こしてみると、身体の重さはずいぶんマシになっている気がした。


 ……ズリ。


 また、何かが擦れる音がする。それは恐らく私の背後からで、もしかするとタオルを変えにきてくれた真紅しんくさんかもしれない。

 起こさないように気を使って、声をかけずにいるのだろう。


「あの、真紅さん。タオルを……」


 そう思って振り返った私は、予想もしていなかった光景に動きを止めてしまう。

 私の目の前にいたのは、くすんだ紫色をした、あまりにも大きな大きな――蛇。


「うーん、良くないね」


「へっ? きゃああッ……!!!!」


 その蛇が何か言葉を喋ったような気がする。

 そう考えるよりも早く、蛇は大きな口で器用に私をくわえて、自分の背中へと放り投げたのだ。

 そのまま動き出したかと思うと、蛇は私を連れて屋敷を飛び出してしまった。


「ちょっと、どこに連れて行くの……!?」


 咄嗟に背中にしがみついたのはいいが、結構な速度で進んでいくので飛び降りることができない。

 何が目的なのかもわからないし、そもそもこの蛇は一体どこからやってきたというのだろうか?

 蛇は何かを喋っているものの、風を切る音でその言葉を聞き取れないまま、私は連れ去られてしまった。




「よし、と。この辺でいいかな」


 屋敷からどのくらい離れたのかはわからないけれど、蛇がようやく動きを止めてくれた。

 乱暴に振り落とされるかと思いきや、今度は器用に動く尻尾を私の胴体に巻き付けて、地面へと降ろしてくれる。

 扱い方を見る限り、乱暴な蛇というわけではないらしい。


「あ、ありがとう。あの……」


 思わずお礼を言ってしまったものの、私は誘拐されたのだ。話し合いになんて応じてくれるのだろうか?

 そんな私の目の前で、巨大な蛇は突如として紫色の煙に包まれていく。

 それからすぐに晴れた煙の中から姿を現したのは、あの蛇ではなく見知らぬ青年だった。


「えっ……え!? 蛇が人間になった……?」


 紫色の髪と金色の瞳。蛇のように裸ではなく、黒を基調とした着物をきちんと身に着けている。デザインは甚兵衛に近い。

 人間らしくはあるけれど、彼もまた不思議なオーラを纏っているように見えた。おそらく、白緑びゃくろくたちと同じあやかしなのだろう。


「身体、軽くなったでしょ?」


「え? あ……そういえば」


 混乱する私をよそに向けられる問いに、寝起きにはまだ残っていた不調が消えていることに気がつく。

 布団から起き上がった時には、全快とは言い切れなかったのに。今なら全力疾走だってできる気がする。


妖都ようとの環境に慣れるまでっていうのもあるけど、白緑の力は特に強いから。傍にいると、身体が回復するまでに時間かかっちゃうんだよね」


「そうなんだ。あの、あなたは白緑の知り合いなの?」


「ん~、まあそんなトコかな。あ、僕は紫土しどっていうんだ。ヨロシク!」


「私は依織っていいます。ええと、紫土くん」


 白緑やあけさんは大人の男性という感じだったけれど、紫土くんは気さくな雰囲気のせいだろうか? 接しやすい、同年代のような空気感がある。


 さらわれてきたとはいえ、彼から敵意や悪意は感じられない。

 話を聞く限りではあるが、私の体調のことを知ってあの屋敷から連れ出してくれたのだろう。どういう経緯で情報を得たのかは不明だけれど。


「紫土くんも、あやかしなんだよね?」


「そ。依織ちゃんもさっき見た通り、蛇のあやかし。あそこまで大きい姿は力を使うから、あんまりならないんだけどね」


「私のために、あの姿になってくれたってこと? ……ありがとう」


 あやかしの力のことはよくわからないけれど、紫土くんは私を運ぶために、たくさんの力を使ったのかもしれない。

 説明も無しに連れ出すやり方はともかく、私はまず感謝を伝えることにする。

 すると、紫土くんは驚いた様子で自分の身体を見下ろした。


「! うわ、人間の情ってすごいね。力が充電されてく感じ」


「充電……今ので、できてるの?」


「うん、僕の方こそお礼言わなきゃ。ありがと!」


「どういたしまして?」


 私が与えられる力のことも、まるで理解しきれてはいない。けれど、紫土くんに感謝の気持ちを向けたことで、それが力を与えることになったらしい。

 妖都と、そしてあやかしというものは、とても不思議だ。


「でも、私戻らなきゃ。黙って出てきちゃったから、真紅さんたちの迷惑になってるかも」


「なら、僕が送っていくよ。依織ちゃんの体調も回復したみたいだし、もう屋敷に戻っても平気だと思う」


「ウユーン」


「えっ、豆狸?」


 お言葉に甘えて屋敷へ戻ろうとした時、どこからともなく豆狸の鳴き声が聞こえる。

 周囲に視線を巡らせてみると、木の上に数匹の豆狸が固まっているのが見えた。


「どうしてあんなところに……あっ!」


 何かに怯えている様子の豆狸たちの視線の先では、獣のような生き物が唸り声を上げている。

 あれもあやかしなのだろうか? だけど、明らかに敵意をもって豆狸たちを襲おうとしているようだ。

 豆狸は低級のあやかしだと聞かされている。自分たちで戦うことはできないのだろう。あのままでは、豆狸たちが危ない。


「あの子たち、助けなきゃ……!」


「僕が行く、依織ちゃんはここにいて」


 同じように気がついたらしい紫土くんが、私よりも先に動き出す。

 特別な力を持ったあやかしを相手に、人間の私ができることはない。そう思って、彼の動きを見守ることにしたのだけれど。


「あっ」


 木の下で豆狸たちを威嚇していたあやかしは、腰元に装備していた鎖鎌を使って紫土くんが追い払ってくれた。

 そのまま彼が木の傍から離れた時、狭い枝の上で密着していた豆狸の一匹が、落ちそうになっているのが目に入る。

 すぐ後ろは崖になっていて、あんな小さな身体で落下すれば怪我では済まないかもしれない。


 そう考えた私は、考えるよりも先に地面を蹴ってめいっぱいに両腕を伸ばす。

 直後、私の掌は小さな衝撃を受け止めていて、どうにか間に合ったのだと胸を撫で下ろし――かけたのに。


「わっ……!?」


「依織ちゃん!!!!」


 走り出した勢いを止めることができず、私の身体はそのまま崖の方へ向かって傾く。

 こんなにも高い場所から落ちたら、どのくらい痛いのだろうか?

 一瞬だけ視界に入った崖下の光景は、それだけで気絶してしまいそうなほどに恐ろしいものだった。


 朱さんのように、空を飛ぶことができたなら。それが叶わないことは知っているからこそ、せめて豆狸だけは守らなければと、小さな毛玉を胸元に抱え込む。


「ッ……え……?」


 地面に叩き付けられる衝撃を覚悟した私は、奇妙な浮遊感に恐る恐る目を開ける。

 飛べないはずの私の身体は、どういうわけだか宙に浮いていた。そして、目の前には綺麗な白銀の毛並み。


「まったく、お前は一体なにをやっているんだ?」


「白緑……!?」


 私の身体を抱き留めていたのは、この場にはいないはずの白緑だった。

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