31:二つの世界


 ずっと白緑びゃくろくの温かい腕の中に包まれていたかったけれど、時間は残されていない。

 私の決めたことに、あけさんも藍白あいしろも反対することはなかった。


 私たちは屋敷を出て、人間の世界に向かうために崩壊しかけている門のところへ向かう。

 戦い続けている紫土しどくんたちと入れ替わり、朱さんと藍白が妖魔を引き受けることとなった。

 戻ってきた淡紅あわべには、すっかりボロボロになっている。紫黒しこくさんとの戦いで小刀を失っていることもあって、戦闘手段が限られていたのだろう。


「依織……! 戻ってきたってことは、門を閉じる方法が見つかったのかしら?」


「うん、もう大丈夫。時間を稼いでくれてありがとう」


「あいつら、次々に湧いて出てくるよ。どれだけ倒してもキリがない」


「それで、その方法って? アタシたちにできることはある?」


 淡紅の問いかけを受けて、繋がれた白緑の手に力がこもったのがわかる。

 私からもその手を握り返すと、白緑は普段の調子を崩さずに口を開いた。


「俺と依織で門を閉じる。その間、もう少し時間を稼げるか? 妖魔に邪魔をされたくない」


「それは構わないけど、依織ちゃんとって……危なくないの?」


「平気だよ、私は向こうの世界で白緑の手伝いをするだけだから」


「向こうの世界で……? だって、門を閉じるんでしょ? 依織はどうなるのよ?」


 言葉を選んだつもりだけれど、さすがに淡紅は鋭い。

 本当は黙って向かうつもりだった私は、白緑にそうしたように、彼女に向けて笑顔を作る。


「閉じたらもう戻れない。私は、自分の世界に帰るんだ。だから……みんなとは、ここでお別れ」


「なんだよ、それ……依織ちゃん、冗談だよね?」


「私がやらなきゃいけないことなの。門を閉じれば、みんなを守ることができる」


「…………いや」


「淡紅……? わっ!?」


 ぽつりと音の漏れた淡紅の方を見ると、直後に薄い桃色が私の視界を埋め尽くす。

 細い腕のどこからそんな力が出てくるのかと思うほど、強い力で抱き締められていた。


「嫌、嫌よ……ッ、絶対に嫌!! どうして依織が元の世界に帰らなきゃならないの!? 白緑と結婚するんでしょ!? 人間の世界になんか帰らせないわ!!」


「無理だよ、他に方法がないの」


「嫌ったら嫌!! アタシの言うこと聞かないなら絶交してやるから!!」


「淡紅、ダメだよ。依織ちゃんを困らせたら……」


「触らないで!! アンタは依織がいなくなってもいいわけ!?」


「そうじゃないよ、僕だって嫌に決まってる……! だけど……白緑は受け入れてる」


 気の強い印象のある淡紅が、まるで幼い子どものように癇癪かんしゃくを起して涙を流している。私と離れたくないと思ってくれているから。

 胸が引き裂かれるように痛いのに、嬉しいと感じてしまうのはおかしなことだろうか?


 私から引き離そうとする紫土くんに対して、淡紅はその肩や胸元を叩いて怒りをぶつけている。そうして最後には、紫土くんの胸で泣き崩れてしまった。


「ごめんね、淡紅……絶交は、できればしないでくれると嬉しいけど」


「バカ依織……! 絶交なんか、するわけないじゃない……!!」


 声を上げて泣き続ける淡紅に、後ろ髪を引かれる思いがする。けれど、別れを惜しんでいる時間はないのだ。

 時間をかけること。それは、白緑の命を削る行為にも等しい。


「ありがとう、淡紅。紫土くんも。二人と友達になれて、本当に楽しかった」


「僕もだよ、依織ちゃん。もっといっぱい、話したいことあったけど……っ」


「ふえ……アタシだって、大好きよ依織!!」


「うん、私も大好き……!」


 つられて泣きそうになっている紫土くんと淡紅に背を向けて、私は門の前に立つ。

 一人一人に言葉を伝えられたらいいのだけど、崩れかけた門はもう猶予をくれるつもりはないらしい。


「白緑、ありがとう。朱さんたちにも、ありがとうって伝えてほしい」


「ああ、必ず伝える」


「それじゃあ、行くね」


 最後まで、私の手を離そうとしない白緑。

 先延ばしにすればするほど離れがたくなる気がして、手を引こうとしたのだけれど。


「ッ、依織……!」


 強い力に引き戻された私は、白緑の口付けを受けていた。

 私の姿だけを映し取る、淡い緑色の瞳。私の大好きな色。


「愛している、永遠に」


「私も……愛してる」


 今度こそ私は、彼の温もりを手放して巨大な門を潜り抜けた。


 門を抜けて降り立った先には、神社の中にそびえ立つ大樹がある。

 見覚えのあるはずの大樹。その幹や葉もまた毒に侵されたように黒く染まりつつあり、こちらの世界にも影響が出ていることがわかる。

 見上げた空には分厚い雷雲もかかっていて、それはとても異様な光景だった。


 どういう仕組みかはわからないが、身に着けていた着物は私服に変化している。私が初めて妖都に呼ばれた時に着ていた服だ。

 しかし、今はそんなことに気を取られている場合ではない。

 私は屋敷を出る際に、白緑から渡されていた妖具ようぐを取り出す。無くなってしまっているかと焦ったけれど、ポケットの中に収められていた。


 白緑色の数珠の形をしたそれを手首に嵌めて、確かめるように黒い大樹へ触れてみる。

 すると、数珠から漏れ出す淡い光が大樹の周りを包み込み始めた。これは、私の中から溢れる力なのだと直感的に感じ取る。


「お願い、門を閉じて……!」


 私はありったけの力を込めるつもりで、大樹に強く願う。もう二度と、あの門が開いてしまうことのないように。

 光はやがて輪のような形になって、収束していく。輪郭が見えてきたかと思うと、そこには立派な注連縄が巻き付けられていた。


「で、きた……?」


 その注連縄に吸い込まれるように、大樹を染めていた黒が消えていく。

 ハッとして見上げると、空間を裂くように開かれていた門が、少しずつ閉じられていくのが見えた。二つの世界の分断に成功したのだ。


 門の先にある妖都には、もう手が届くことはない。

 そこにはこちらを見下ろす淡紅たちの姿があったけれど、見えない壁ができているようで、声も聞こえなかった。


「みんな、ありがとう……さよなら」


 たくさんの幸せを貰ったのだから、悲しくはない。あの場所にいる大切な人たちを、私の力で守ることができたのだ。

 淡紅と紫土くんが泣いているのが見えたけれど、できれば笑っていてほしい。だって、これが最後になってしまうんだから。


(白緑……)


 閉じていく門の向こうに見つけた白緑の姿を、目に焼き付けておきたい。

 私の声ももう届かないのだろうけど。最後に覚えていてもらうなら、私も笑顔がいい。

 そうして私は、閉じていく亀裂の向こうの彼らを、笑顔で見送ったのだった。


 やがて、空から大きな雨粒が落下してくる。これまで降り出さなかったのが不思議なほど、真っ黒な雨雲だ。遠くでは雷も鳴り始めている。

 頬を直撃した雨粒が冷たいと感じた時、私は夢から覚めたような感覚に陥った。


(私、どうしてこんなところにいるんだっけ……?)


 今朝のニュースでは、雨の予報だなんて言っていただろうか?

 傘も持ってきていないので、早く帰らなければいけない。ここから自宅までが遠くないのが幸いだろう。走ればきっと、それほど濡れることはない。


 真夏とはいえ、冷たい雨に打たれ続ければ風邪をひいてしまうかもしれない。

 心配などされないことはわかってるけれど、しんどい思いはしなくて済むに越したことはないのだから。


 自分のことを待つ者などいない自宅に向かって、私は一人走り出した。

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