疑似自殺快楽薬
屈折誰何
疑似自殺快楽薬
「快楽とは重力なのです。富、名誉、情欲、破壊、創造。我々がそれらに魅せられるのはちょうどリンゴが地面に落下するようなものです。そして、その快楽が大きければ大きいほど人はそれに吸い寄せられます。これは自然の摂理なのです。幸せになりたいという願いほど素朴なものはないでしょう。さて、この国の自殺者数は年々増加しています。なぜか?人生に絶望した人間が増えたからいう回答では不十分です。結論からいうと自殺こそ人が感じることが出来る最も大きな快楽だからです。あなたは見たことがありませんか?首に牽引ロープを括って台を蹴飛ばした瞬間の顔を、屋上の柵を跳び越え体を束縛するものが何もなくなった瞬間の顔を、轟音響かせる電車に無謀な戦を挑みにかかる瞬間の顔を、はたまた己に火をくべて全身が爛れていくさまを見つめる瞬間の顔を。それはそれは耽美で全宇宙の幸福をその顔面に宿しているといっても過言ではありません。自殺とは自身の死の完全な支配であるとともに死への絶対的な服従でもあります。支配の快楽と服従の快楽という究極的な幸福を一挙に得ることが出来る自殺こそ、この世で最も大きな快楽なのです。自殺者が増えているのはその事実に気づく人が増えただけに過ぎません。しかしここに問題があります。そう、自殺したら死んでしまうのです!あぁ嘆かわしい。失礼。これは至極当然ですがしかし大問題です。せっかく授かった無限の快楽とはとどの詰まり無です。先の事実はもうすでに隠蔽不可能であり加速度的に人口に膾炙していくでしょう。私がこうして会見しているのもある種の諦めです。しかし国としては自殺者の数が増えられたら当然困ります。そこで私、庵野鱒二主導の下政府で秘密裏に開発を進めた新薬がついに!ついに!あまたの治験と審査を終え、今日正式に承認されました!服用するだけで自殺と同等の快楽を得れ、しかも中毒性もございません!今日人類は神に成り代わったのです!一般名は......」
日中の雨は止み、雲一つない闇が地上の街の灯と鮮やかな対比を描く某市。5時間ずれの定時を終えてビルを出た彼女だったが、その足は軽かった。前を歩く飲み会帰りの大学生らが水面に映った自社ビルを木端微塵に破壊していく。若さとはかくあるべしと心の中でつぶやくと彼女も彼らに続いてその破壊に加担した。
あの会見から約1ヶ月。市井では『疑似自殺快楽薬』と呼ばれたそれは話題にならないはずがなかった。多くの人が自殺に憧れ、同時に死を恐れていたからだ。彼女もまたそんな1人だった。薬は開発コストから品薄に次ぐ品薄で処方は異例の抽選方式が取られていた。しかし高齢者や病人に優先的に処方されているという噂も回っており、「弱者偏重」であるとして批判も上がっている。
薬を手に入れられたのは私が弱者だからだろうか?
歩きながらふとそんなことを彼女は思った。「弱者」と聞いて彼女が思い浮かべるのは母親の渋い顔だ。
「早く結婚しないと弱者になるからね。」
たまに顔を出すと二言目にはこれだ。老婆心からだろうということが余計彼女の神経に触れた。結婚した自分はもう弱者ではないのだと自身に言い聞かせているようで、最近はもはや哀れみすら感じていた。結婚願望がないことで勝手に弱者のレッテルを貼られるのは甚だ心外だったが、世間体的にはやはりそういうものなのだろうか。一般意志という人間の残酷な部分だけを煮詰めた暴力装置である社会に彼女はほとほと嫌気が差していた。しかし、と彼女は考える。自分に弱者の烙印を押したがために憎んでいた社会から、その弱者であるがゆえにこうして薬を与えられているとは何たる皮肉だろうか。
噂が本当のまま嘘だったらいいのに。
そう彼女は思った。
駅がいつもより人で溢れているのを見て、今日が金曜日だったことを思い出す。休日出勤を繰り返していると曜日感覚が鈍ってくる。
「実は第2子が生まれまして。自分イクメン目指してるんで。来週から育休失礼するっす。」
「えーおめでとうございます!」
「いやー君のおかげで他の男性社員も育休が取りやすくなってるんだよ。会社のためにも今回も是非取ってくれ。」
人の出生を呪うのは罰当たりだが、代わりに休日返上する自分に感謝の一言もなしかよ。と先月のやり取りを思い出して少し感情に陰が差したが、薬という名の希望の光で振り払う。ただ、それでも人混みが生み出す負のエネルギーは強く彼女を苦しめた。彼女は人混みが苦手だった。というのも、彼女は未知が嫌いだからだ。1人2人ならまだしも漠然とした他者となると己の知では計り知れない。結婚も常に未知なる他人との生活だと思えば、自然とその気も失せてくる。そしてそれは死も同じだった。死んだらどうなるのか自分は分かりっこない。そのことが彼女にとって恐怖の根源であり、自殺への憧れは死の支配への憧れからだった。電車がやってくる。
庵野博士はどの駅でその瞬間を見たのだろう?
乗っている時間はいつもより長く感じられた。改札を出て家路を急ぐ。これから彼女は神に挑む。自然の摂理に抗うのだ。政治にはついぞ興味がなく、むしろその類いの人間を軽蔑すらしていた彼女だったが、そんな彼女にも思想があった。それは支配こそ人間の幸福であるというものであった。服従の快楽とは支配の欲求を抑圧された人間がおこす性的倒錯で、精神異常としか考えられなかった。薬を求める人の数がこの思想を固めた。皆欲しいのは死の支配だけであり、死への服従なんぞいらないのだ。彼女にとって快楽とは被支配的な重力ではなく、未知という人間の生活に憑いてまわる重力に抗うイカロスの翼だった。これまで多くの支配者たちが太陽を目指し墜ちてきたのは究極的な支配、すなわち死の支配ができなかったからだ。自分はこれから死を支配する。そう思うとさっきの憂鬱が嘘のように消えていった。自分の家が見えてくる。期待という感情を抱いたのはいつぶりだろう。
玄関を開け、はやる気持ちを抑えて洗面所に向かう。世紀の一瞬を前に体を清めなくては。化粧を落としいつもより丁寧にシャワーを浴び、スキンケアを万遍なく行う。経済、美、居住という名の生命維持、こうしている今もありとあらゆる支配を私は受けている。でもそれとももうおさらばだ。神棚のようにテーブルに鎮座したそれは見るも無惨なほど小さく、無機的で「弱者的」だった。これが宇宙を貫く楔となるのだ。生きたまま自殺する。死の支配と服従の対立から服従だけを消し去る。庵野博士はこの薬を自殺と同等としたけれど、とんでもない、この薬は断然自殺以上だ。これまで何度死にたいと思ったか。その度にどれほど死の恐怖に怯えなければならなかったか。地獄のような半生も振り返ると懐かしい。これから生きる自分は死を支配した自分だ。支配してしまえば恐るるに足らず。結婚をせがむ母も、さも自分が社会の正義の側に立っていると疑わない同僚も、ヤリサーのバカどもも、官僚も、学者も、資本主義も社会主義も、中学でいじめてきたあいつもあいつもあいつも。みーんな死を支配することなんかできなかった。私は違う。ざまあみろ。死ね!
彼女は勢いよく薬を飲み込んだ。
薬の効果が出るのは1~2時間後だという。ただ何となく体が軽くなった気がした。体が思考を放棄していくのを感じる。体内の異物にリソースを割いているからだろうか。死そのものもそうだが、こうして秒読みの死を待つという行為もまたリアルだ。実際死ぬときもこうして思考を放棄していくのだろうか。10分。20分。30分。40分。ああ気持ちいい。50分。60分。70分。80分。そろそろだろうか。それとももう効いているのだろうか。この浮遊感は何だろう。とても息苦しいのに暖かい。一呼吸一呼吸が生命の賛美歌だ。視界にもやがかかる。楽しい。息苦しい。呼吸が血管と連動して吸う度に流れが速くなるのを感じる。たのしい。全身を地母神に優しく抱かれているみたいだ。くるしい。ここは子宮の中だろうか。生命の螺旋を一気に駆け上がる。他が一に、多が一に、そして一が無に。あおいい。あらゆる事物が叙情詩となって表れる、あらゆる感情が叙事詩となって現れる。kかshu。脳の回転がどんどん速くなる。目の前のテーブルがあらゆる次元を移す。幾兆の細胞一つひとつが、原子が、素粒子が、その全ての動きが把握できる。ああこれが死の感覚か。なんと素晴らしいのだろう。癖になってしまいそうだ。花が芽吹くように今私は生まれている。死にながら生まれている!鼓動と思考が重なって死を捉え、支配している!
あ
2週間後、彼女は近隣住民によって自宅で発見された。心臓麻痺だった。
この国の自殺者数は減少の兆しを見せています。
疑似自殺快楽薬 屈折誰何 @kussetsu_suika
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