第4話

「だるー。なんでおれの身体ってこんなにヤワいんだよ?」


 イライラと吐き出しても、一向に身体は楽にならない。


 こういうときは眠った方が楽だと、遠夜は知っている。


 呼吸が荒くなってきたのを感じ取って、さっさと眠った方がいいと目を閉じた。


 自分の身の回りのことすら、なにもできない義兄のことが気掛かりだったけれど。


 完全に遠夜が眠ってから樹が顔をみせた。


 準備はとっくにできていたが、遠夜が眠るのを待っていたのである。


 彼は人がいるとどういうわけか、絶対に眠らないので。


 そっとその額に手を当てる。


 かなりの高熱だ。


 高熱も荒い。


「本当によく似ているね。顔立ちなんて全然違うのに。笑顔とか、そっくりだよ、きみは。それに人がいると絶対に眠らないところもね」


 やるせなく笑う。


 あの頃は自分が唯一の例外だった。


 自分が傍にいるときは、彼も警戒せずに眠ったものだ。


 無防備に自分を委ねて。


 それを思えば遠夜に、完全には受け入れられていないということか。


「そういえば紫苑もこのくらいの歳の頃は、毎日のように高熱を出して寝込んでいたっけ」


 クスクスと笑う。


 そういうときに傍に行くと、大抵ごねられた。


 外に出て遊びたい、と。


 彼に拒絶されたのは、あのときだけだ。


 彼が自分の出生の秘密を知ったとき。


 その悲劇を知ったとき。


 初めてひとりにしてくれと拒絶された。


 今思い出しても苦い思い出だ。


「きみが紫苑ならいいのにね」


(それともぼくは違う方が嬉しいんだろうか。きみが紫苑なら、この日常は変わってしまうから)


「星は今も彼の頭上に輝いているんだろうか。きみは……だれ?」


 問いかけても答えは返ってこない。


 遠夜と出逢って両親に万が一のことがあったとき、引き取ってほしいと言われたとき、樹は初めて彼の寝顔をみた。


 一瞬の邂逅だった。


 でも、あのときの彼が忘れられない。


 まだ10歳の幼い子供。


 すやすやと眠る寝顔をみながら、説明を受けていて、ふっと彼が目を開けた。


『起こしてしまったかい? まだ真夜中だよ。ゆっくりおやすみ、遠夜』


 そういって額に口付けたのは、まだ年若い遠夜の父だった。


 夢うつつの黒い瞳が傍で呆然と突っ立っている樹に向けられたのは、その次の瞬間だった。


 そうして。


『せーや?』


 心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えるほどの衝撃を受けた。


 どうして彼が樹をその名で呼んだのか、未だにわからない。


 ただ懐かしそうに見上げて笑った。


 ここは安全。


 寝顔にはそう書いてあるようにみえた。


 意味を問おうとして、樹は彼が完全に眠ってしまったのを知った。


 言い知れない不安を覚えている樹を振り向いて彼は言った。


『頼めるね、樹? 惺夜であるきみにしか頼めないんだ』


『わかりました。一門を敵に回しても、彼は護りますから。惺夜の名にかけて』


『ありがとう。これでやっと安心できるよ。この子はひとりじゃない。そう信じられるからね』


 何故、彼が樹に頼んだのか。


 その理由は聞いていたが、樹が引き受けたのは、彼の思惑とは違うところに理由があった。


 遠夜が樹を「惺夜」と呼んだからだ。


 あの瞬間に抱いた疑問の答えを知りたい。


 そうしてそのときがきて引き取った遠夜は、予想以上に紫苑に似ていた。


 気性などは瓜二つで、時々ハッとして息を飲むことがある。


 それに幼い頃の紫苑を思わせるように身体も弱い。


 でも、どうやってこの疑問に答えを得るのか。


 それは樹にもわからなかった。


「ぼくだってもう惺夜ではないのに」


 それでもこの手に絡みついているのは半身の絆なのだろうか。


 魂の半身。


 今きみはどこにいる?


 あの日、きみを失って得た喪失感が今も胸を苛む。


 逢いたい。


 逢うのが怖い。


 時はだれにたいしても平等に流れるのに。


 きみだけは笑顔のまま。


 ぼくが憧れた無邪気な笑顔。


「紫苑」


 ささやく声が途切れる。


 遠夜の看病をしなければと、意識を切り替えて樹は動き始めた。





 その日、ふたりが暮らすマンションを見上げるふたつの影があった。


「見事な結界だね、大地」


 そう言って海里が振り返る。


 後ろに控えていた大地が無表情に首肯した。


「セキュリティだけなら突破するのはたやすいけど、この結界を破るとなると……ちょっと厄介だね」


「おまえにもできないのか、海里?」


「まあ正直に言えばできない相談じゃないね」


 そこまで言って海里は軽く肩を竦める。


「今の皇子はかつてのお力のすべてを取り戻されたわけじゃないしね。ぼくが過去視で知った力を今も保持されていたら、できるかどうかは、微妙な線だったと思うけど」


「それほどスゴいのか? 惺夜さまのお力は」


 純粋な驚愕の声に海里が笑う。


「そりゃあ皇帝を守護することを宿命付けられた守護者だからね。一度お手合わせ願いたいなとは思っているんだけど、それにはもうすこし鍛練を積んで腕をあげないとね」


「おまえにそこまで言わせるというのもスゴいな。だが、俺には陛下の力が1番強く感じられる」


「あのねえ、大地。陛下と守護者であられる翠すいさまや惺夜さまとでは、力の質からして違うんだよ? 比べる方がどうかしてるよ」


 呆れ顔の兄に大地はこめかみなど掻いている。


「それにしてもおまえは士官学校始まって以来の天才で、その力も守護者しか受け継げない魔術だ。その強さも当代の守護者、翠さまに絶賛されるほどだった。それでも、か?」


 それでもそういう言い方をするのかと、大地は問うている。


「正直に言えばね、今すぐにでも突破しようと思えばできるよ、ぼくには」


 彼が張っている結界は、地球の者に対して有効なもので、故郷を同じくする海里たちは対象外なのである。


 だから、海里ほどの実力者なら、覚醒前の守護者の結界は破れる。


 それはたしかだ。


 だが。


「でもね、大地。それをやった場合、惺夜皇子がぼくらを警戒しないと思う?」


 いくら故郷の者が介入するとは思っていなかったとはいえ、惺夜自身はこれが有効だと判断して張った結界なのだ。


 それを簡単に無効化したら、事情説明をする前に、思いっきり誤解され警戒されかねない。


 本当に地球人たちも厄介なことをしてくれたものだ。


 過去の出来事のおかげで、惺夜の人をみる目がよけいに厳しくなっていて、やたらと警戒心が強くなっているのだから。


 おまけに今は火種ともいえる宝物を抱え込んでいる状態で、よけいに近づく者に対して警戒が強くなっている。


 これについても恨みたくなっている海里なのである。


 おかげでこの15年、気を張った生活を続けていて、海里にしてみれば、毎日が緊張の連続だったのだから。


 兄の言い分も尤もで、17年かけても惺夜に近づけなかった大地は難しい顔になる。


 まあこれが大地の地顔だという説も少なからずあるのだが。


「腕の火傷は癒えたか、海里?」


 すこしだけ感情を覗かせて、そう問うてきた弟に、海里が破顔してみせた。


「2年もかければ治癒は完璧に終わってるよ。みるかい?」


 そう言って両腕を差し出して、長袖のシャツの袖をあげてみせる。


 2年前はたしかにそこにあった火傷のむごい痕が消えていて、大地もホッと安堵した。


 もしかして海里の力でも癒せないのではないかと不安だったので。


 もちろん再会してからは、大地も精霊召還の力で癒しを行って、なんとか消そうと努力したが。


「あのひどい痕が消えていてホッとした」


 本心からホッとしているらしい弟に、それでも海里は笑ってみせた。


 心からの笑みで。


「もし消えなかったとしても、ぼくはあの傷を誇りに思ったよ」


 海里の気持ちは同じ近衛としてよくわかる。


「あの傷はね、大地。ぼくがお護りするべき御方を、命懸けで助け出したという名誉の負傷だよ。近衛士官にとっては誇りだよ」


「そうだな」


 大地が海里の立場でもそう思っただろう。


 任務を果たすために得た傷痕なら、きっと生涯誇りに思った。


 それが近衛士官だ。


 炎上し燃え上がる車の中で、水の精霊や炎の精霊、思い付くかぎりの精霊に助力をこうて、業火の中から気絶した少年を助け出した。


 だが、火の勢いはあまりに強く、海里はひどい火傷を両腕に負ってしまったのだ。


 それだけで済んだのは不幸中の幸いだ。


 あの事故はあまりに凄まじかったので。


 風を利用して慌ててそこから飛び去ったすぐ後で、車は業火に包まれたまま爆発した。


 本当に間一髪だったのである。


 しかも精霊たちに護られた彼の君にはケガひとつなかった。


 それは海里の誇りだ。


 海里と大地が護衛に選ばれた理由は、その力とふたりが残した実績にあった。


 兄の海里は本来なら皇帝を守護するべき守護者にしか受け継ぐことのできない魔術の持ち主で、弟の大地は精霊召還の力を持っていた。


 精霊召還は普通の皇族が受け継ぐ力。


 魔術は精霊召還のさらに強大な力で、精霊を意のままに従わせ、その力を自らのものとして発揮できる力。


 精霊召還は皇族ならだれにでも使える力だが、魔術は代々、皇帝を守護するべく定められた守護者だけが受け継ぐ力。


 海里や大地は皇族の血はいっさい引いていない。


 なのにそんな力を得て、どちらも現役の守護者や、皇帝が認めるほどの強さ。


 その上に剣術、体術、馬術、槍術などに優れ、海里に関しては弓や銃などの扱いにも長けている。


 そういったことから、史上最強の近衛士官と言われていた。


 今ではだれでも知っていることだが、ふたりはその稀有な素質と力を見込まれ、スカウトされ当時の軍人の最高峰にいた将軍に養子として引き取られたという経緯がある。


 そうして当然のごとく近衛士官になるために、士官学校に入学させられ、初任務としてこれを受けた。


 任務をこなすようになって、ふたりは自分たちにこの道を用意してくれた義父に感謝していた。


 自分に合った生き方はこれだと自信をもてたので。


「どうにかして近づけないものかな」


 不安そうに見上げる兄に大地は問うてみた。


「焦る理由でもあるのか、海里?」


「おふたりが再会されてもう2年になるけど、そのあいだに何度、倒れられたと思う?」


 振り向いた兄の一言に、大地は答えられなかった。


「それに陛下に指摘された猶予の時は、人間でいう15、6。まだ余裕があると大地はそう思う?」


「たしかに限界だとは思うが」


「2年前にね。初めてあの方を抱き上げたとき、あまりに軽くて驚いたんだよ、ぼくは」


 それほどとは思っていなかったので、大地は答えるべき言葉がなかった。


「羽毛みたいに軽かった。猶予の時なんてもうないよ。それだけお身体に負荷を受けているということだからね」


 本音を言うならもっと早くに近づきたかったのである。


 だが、彼らの警戒が強かったのと、生まれついた境遇が悪すぎて、どうにも近づく術が見つからず、今日まできてしまった。


 どちらもがとてつもなく厄介な境遇に生まれついている。


 そのせいで惺夜は人間不信ぎみだ。


 おまけに表面的にはそんな素振りなどみせないあの方も、周囲に対していつも一線を引いていた。


 つまりどちらもが周囲に対して警戒しているのだ。


 これではどんな理由を用意しても近づくのは難しい。


 特に記憶のある惺夜はともかくとして、なんの自覚も記憶もない「彼」が納得しないだろうと思われた。


 そうして様子をみて2年が過ぎて、事態はのっぴきならないところまできてしまっていた。


 今はとにかく近くにいて、彼が受ける負担を軽減して、すこしでも体力をつけることを優先しなければならない。


 それなのにどちらもが自宅にこもりっきりで、どうやっても近づけなかった。


 近づく隙がない。


 唯一の例外が買い出しで、このときは外に出るのだが、厄介なことに常にふたり一緒。


 おまけに周囲に対して油断なく警戒網を張っている。


 これは主に惺夜に言えることだが。


 うかつに近づけば敵視されそうで行動に出られなかった。


 本当に厄介な境遇に生まれたものである。


 まあ惺夜が警戒する気持ちもわからないわけではないのだが。


「それにしても地球人っていうのは、すこし被害妄想がすぎないと思わない、大地?」


「というと?」


「どうしてあの方が追われないといけないわけ?」


「海里」


「昔はその力の恩恵で護られていたくせに、時代が変わって常識が変わったからって、今度は恐れて異端視する。許せないよ」


 温厚な兄にしては珍しく怒りをあらわにされて、大地は答える言葉がなかった。


 ただ似たような理由で異端、敬愛、畏怖。


 様々な呼び名の感情を向けられてきたふたりである。


 大地には人間たちの恐れの意味もよくわかった。


「結局、普通の人間にはすぎた力が恐ろしいということだろう」


「生み出す力だよ? 滅ぼす力なんかじゃないんだよ?」


「どちらでも同じことだろう。力そのものに善悪はない。それを決めるのは使う人間なんだから」


「それは違うね。あの方の力は悪い方向では発揮できない。そういう力なんだから」


「だが、それをこちらの人間に理解しろと求めるのは酷だ」


 元々、地球は大地たちの故郷とは世界の在り方が違う。


 あの方の力は、こちらでは神にも等しい。


 いや。


 故郷で世界の司を継がれるあの方は、正真正銘の神なのかもしれない。


 自分たちにとってはそれが当たり前で、こちらにとってはそれが畏怖だというだけのことだ。


 大地はそう思う。


 大地の言い分は理解できるし、ある意味でそれが世界の真理だと、海里にもわかっている。


 だが、どうしても心情的に同意できないのだった。


 何故ならそのために「彼」が味わってきた辛さと孤独、そして心の痛みを知っているから。


 傍らでそれらを見守ってきた海里には、どうしても「しかたがなかった」の一言で終わらせることができなかった。


「ぼくの言っていることが、ある意味で力に慣れた者の意見にすぎないと、無力な人々の恐れも理解していない傲慢だということもわかってるよ。それでもぼくはしかたがないの一言で片付けるつもりになれないよ」


 そこまで言って海里はうつむいた。


「大地は知らないから。理由も知らされず追われ続けてきたあの方が、どれほどの痛みと孤独を抱えてきたのか。そのためにどれほど自分を殺してきたのか、それを知らないから」


「そうだな。おまえはそれを命懸けで護ってきたんだ。今更、個人的な感情を入れずにいられないんだろうな。それはわかる。俺も惺夜さまの痛みを思うと一門を許せないし」


「そうだね。お可哀想だよね、惺夜さまも」


 海里の声にはしみじみとした響きがあった。


「動くしかないようだね」


「それがおまえの決断か?」


 弟の声に振り向いて海里は強く頷いた。


「限界だよ。それに惺夜さまにも真実をお伝えしたいしね。悩んでいらっしゃるようだから」


「それがおまえの決断なら従おう。俺は兄としてのおまえだけでなく、近衛士官として、上官としてのおまえを信じているからな」


「口下手な大地にしては今日はよく喋るね」


 照れくさそうに笑う海里には、それだけで優しい雰囲気が出ている。


 兄の柔らかい雰囲気に大地も照れて視線を外した。

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