星の継承者(仮)

第1話


 風が唸り声をあげて少年の身を包む。


 真空の刃のように、それは恐ろしい威力をもつ。


 敵対する青年の瞳に竜の姿が映った。


 細長い巨大な胴体を少年の身に巻き付けているようにみえる。


 それはそのまま風が竜の姿をとって、彼の意に従っている証拠でもあった。


 手の中で凝縮する力が、みるみる剣の形をなした。


 真空の竜を自らの意で操り、少年と対峙する青年の澄みきった黒い瞳をみつめる。


 今生の別れを惜しむような、それは悲しげでせっぱ詰まった瞳だった。


 地上の者にはなす術のない空中戦。


 空に浮かぶそれぞれの大将に、戦いを中止した者たちが、じっと視線を注いでいた。


 ひとつの時代に終止符が打たれようとしていることを、だれもが感じ取っていた。


 この決戦でどちらかの大将が討たれることを、だれもが覚悟したのだ。


 そしてそれは長く続いた大戦の終焉でもある。


 人の子と魔性の者たちの、それぞれの生存権をかけた戦いについに幕がおりる。


 ある意味でそれは一方的な決着だったかもしれない。


 空中で対峙する敵軍の将に抵抗する気配は微塵もない。


 ただ討たれるのを覚悟した静かな瞳があるばかり。


 青年の覚悟を読み取った少年の一瞬のちゅうちょ。


 それを断ち切るように敵軍の将たる青年は、彼に向かって両腕を広げた。


 まるで抱き止めるために招くような動作だった。


 凪ぐことのない水面のような黒い瞳が、強い意志を宿しうながした。


(……来いっ!!)


 言葉にならなかったその想いを感じ取り、泣き出しそうな瞳を浮かべ少年は宙を駆ける。


 腕を広げ抱きしめるために待ち受ける人の腕の中へ。


 形のない純粋なる力で形成された剣が、体内を突き抜ける感触が、少年の腕に伝わった。


 温かな血が両腕に流れくる。


 今しも失われようとしている生命の炎。


 けれど彼の人は抱きしめた腕の力をゆるめようとはしなかった。


 すぐに感じ取れなくなる大切なぬくもりを、永遠に連れていくために。


 愛しさを自らの魂に刻み込むために。


 最期の力を振り絞り、青年は抱きしめる。


 それは体内の剣をさらに招く形になった。


 少年の手によるトドメを望むように。


 腕の中の少年の体はひどく震えていた。


 怯えて震えて子供のように泣いていた。


 それは初めてみる年相応の彼の素顔だった。


 剣から手を放すこともできずに、ガチガチに強ばった身体。


 ひどく震えてまっすぐに見返していた。


 あれほど望んだ瞳が、今こそ自分の目の前にある。


 その幸福に酔いしれて青年は微笑う。


「……愛しているよ、紫苑……」


 最期のささやきが彼に届いたのかどうか、青年は知らない。


 顔をグシャグシャにして、幼い子供そのままに泣きじゃくる彼を、ただ慰めたかった。


 泣かないでとささやいて、遠い昔のように笑ってほしかった。


「紫苑」


 決着を見届けた地上で、彼の半身が名を呼ぶのが聞こえた。


 焦がれ、焦がれた存在を運命で手に入れた半身たる守護者の声。


 どれほど彼を羨んだだろう。


 どれほど彼を妬んだだろう。


 自分の居場所を当然のように手に入れた彼を。


 半身たる守護者が継承者を手に入れるのは運命だと知っていた。


 だれにも引き裂けない、それが世の理であると。


 それでも奪われたとしか思えなかった。


 これ以上みたくなかった。


 彼が守護者と共に生きる姿を。


 自分の居場所を奪った守護者をみていたくなかった。


 死の刹那。


 ふと脳裏をよぎった。


 このまま彼を連れていけたら……道連れにできたなら、それはどれほどの幸福だろう?


 遠い昔を死によって取り戻すことができるのだから。


 力が抜けていく。


 生命の火が消えていく。


 それでも腕の中のかけがえのない宝を手離したくなかった。


「いやぁぁぁぁぁっ!!」


 地上で壮絶な悲鳴が上がった。


 それが妃の悲鳴であると青年は気づく。


 妃の悲鳴を聞いても、夫の死を嘆く妻に気づいても、彼の心は腕の中の少年にあった。


 あんなに愛してくれる妃の涙を知っても、愛しているのは腕の中の紫苑だった。


 それがどんなに残酷なことか知っていても。


 妃の涙より、今自分を手にかけた紫苑の涙に心が痛む。


『わたしはこの度の大戦で紫苑に討たれるだろう。もうその覚悟はできている』


 死が目前まできたとき、妃にそう言った。


『わたしにとってこの度の戦は死に場所を決めるためのもの。きみには残酷なことを告げていると思う。それでもわたしのことは忘れてほしい。わたしはこの生命を紫苑に手渡そう。それが彼の望みだから』


 愚かなことかもしれないが、このときは本気でそう信じていた。


 彼の望みは自分の死だと。


『わたしは最終局面で妃であるきみではなく、敵軍の将軍たる紫苑を選ぶ。けれどどうか紫苑を憎まないでほしい。敵討ちなど考えないでほしい。わたしは殺されるのではなく、彼の手にかかることを望んでいるのだから』


 戦いの前夜、そう告げたとき、妃は狂ったように泣いて否定した。


 受諾することをいやがって何度も泣いた。


 今それが現実となって妃の、これからの動向が気がかりだった。


 生命を放棄することさえ厭わないほど、魂で愛した少年に牙を剥かないか、それだけが。


「ごめん……なさい……」


 涙で途切れがちな声が聞こえたような気がした。


 それが青年の最期だった。





 抱きしめてくれていた腕から、不意に力が抜けたと思ったら、生命を失った肉体は落下をはじめていた。


(いやだっ。失いたくないっ)


 全身全霊で魂がそう叫んだ。


(ひとりにしないでっ。置いていかないでっ)


 心のどこかでずっと泣きじゃくる、あの日のままの幼い自分がいた。


 成長しそこなった子供が。


 なにも考えていなかった。

 追い求め焦がれる気持ちそのままに、すでに生きていない彼を追いかけて、地上へと落ちるその中で、泣きながら抱きしめた。


 周囲のことなどすべて忘れていた。


 惺夜の声が響くまでは。


「いけない、紫苑っ!! 風の竜がきみの制御から外れてしまうっ!!」


 天候を操ることさえ可能な風の竜。


 それは今紫苑の制御から離れ、命令系統を見失い、暴走をはじめていた。


 守護者の力は闘うための力。


 自然的に働きかける力など生まれつき持っていなかった。


 ハッとして視線を流した紫苑は、竜が暴走するその正面に見知った人物の姿を発見した。


 愕然とした表情で立ち尽くし、なす術もなくみている。


 自らに襲いくる大自然の脅威を。


 紫色の魔性の瞳を大きく見開き、どこかホッと安堵したような表情さえ浮かべ。


「星の継承者、紫苑が命ず。風の竜よ、我が掌中に戻れっ!!」


 無謀ともいえる絶対命令を紫苑が発した。


 聞きとめた瞬間、彼の守護者はすべての結果を悟り青ざめて叫んだ。


「やめるんだ、紫苑っ!! そんなことをしたらきみはっ……!!」


 泣き出しそうな惺夜の顔をみて、紫苑は晴れやかな笑みをみせた。


 なにもかも覚悟した瞳に惺夜は戦慄する。


 荒れ狂いなにもわからなくなった風の竜にとって、紫苑の命令は暴走の進路の変更でしかなかった。


 違った命を発し抑え込むこともできたはずである。


 しかしとっさに浮かばなかったのか。


 紫苑が選んだのはまさに最悪な方法だった。


 命令をやり直す時間的余裕はすでになかった。


 渦を巻く自然界の力。


 それは暴風雨のような激しさと恐ろしさでもって、紫苑に襲いかかった。


 紫苑の命令どおりすべての力を彼に集中させて戻ったのである。


 それは風の竜にとって、君主の制御ではありえない。


 荒れ狂い主人すら見極められぬ狂気の力は、絶対的な君主たる少年を屠ほふった。


 紫苑の全身が驚異的な自然界の力に引き裂かれ、止めどない血飛沫が飛んだ。


 自然界すべてを染める朱の色。


 紫苑の血が地上を、空を、森を木々を染めたとき、それらは不意に怯んだようにみえた。


 止めどなく流れ、失われていく血液。


 止められない生命の消滅。


 敵の将の遺体を抱いたまま、落下する紫苑を風の精霊が受け止めた。


 紫苑の死が免れることのない現実だと悟ったとき、自らの罪を知り世界中が恐怖と畏怖の念で震撼する。


 生命尽きようとするそのときも、敵の将を抱きしめて離さない紫苑を、守護者たる少年は呆然と見下ろしていた。


 震えながら跪き、己が半身たる少年を抱き起こす。


 それでも紫苑は地に横たわった彼の遺体の手は離さなかった。


 最期の力で握りしめたまま、うっすらと眼を開けた。


 血まみれの姿で、土気色の死相が浮かんだ顔色で、消えかかりそうな笑みを投げる。


 震えて声もかけられない守護者に。


(紫苑はもう助からない。ぼくの生命を賭して癒しても、彼の生命は救えない)


 守護者としての惺夜の力が、冷酷な事実を告げている。


「泣く……なよ、せ……や」


 消えかかりそうな紫苑の声が、なにか言ったような気はした。


 だが、動揺し動転した惺夜には届かない。


 最期の力で届けたささやきもまた。


「……ご、めん……」


 なんの謝罪だったのか。


 涙の浮かんだその一言で、なにを告げたかったのか。


 紫苑は語れないまま事切れた。


 瞳は閉ざされ、その瞳は二度と開かれることはない。


 奇しくも紫苑が手にかけた彼の望んだとおりの結果になった。


 人の子と魔性の生存権をかけた最後の大戦で、両軍の将は相討ちに近い形で、長き戦いの幕を閉じたのだった。




 今はもう遠い昔。


 語り部たちも語らない伝説。


 魔と神が実在していたというお伽噺。


 それが動き出すのは悠久の時が流れた後だった。

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