第42話 甘えたい
「………………」
それからどこにも寄り道せずに真っ直ぐにアパートへ帰宅した秋人。部屋のカーテンから透かす空は既に茜色に染まっており、夕日が沈むまでそう長くはないだろう。
小説を執筆する気分でも夕食の支度をする気分でもなかった秋人は、自らのベッドに横になりながらぼんやりと天井を見上げていた。部屋の中は電気をつけておらず、いつもならばあまり気にしないのだがより静けさと孤独さが強調されるような気がした。
「……文章が変わった、か」
頭の中で何度も反芻するのは、文芸サークルにて出会った阿久津の言葉。普段ならば文面越しでしか知ることの出来ない感想を直に聞いた秋人は、良くも悪くも様々な思いを抱いていた。
「それはそうだよなぁ……。だって、その選択をしたのは僕自身なんだから」
まさか阿久津がweb小説時代から知ってくれていたのはとても驚いたが、確かにそれならば文章が変わったと思うのも当然の話だ。
———小説を執筆するにあたり、どうしても避けて通れないのが人称。
書籍化する以前、小説投稿サイトにて執筆していた中学生の秋人は第一人称で物語を綴っていた。とあるきっかけで執筆を始めた秋人だったが、第一人称にしたこだわりなどは特にない。強いて言えば、主人公の抱える感情や思いを文章として前面に押し出せた方が格好良いと思ったからだろうか。
「懐かしい。最初の頃なんて、比喩表現ですら文字にするのが恥ずかしかったなぁ」
あの時のむず痒い感情を思い出して思わず口角を曲げてしまう秋人。現在では執筆する際に言葉を選ぶのに悩みこそすれ、羞恥心を抱くことはない。
そしてなんとか毎日執筆を継続してちらほらブクマや評価、コメントを多く寄せてくれる読者がどんどん増えてきたその頃。秋人はライトノベル出版社の編集部から書籍化の話を頂いた。当初秋人のペンネーム、萩月結のプロフィールには中学生と記載していなかったので、その事実を知った東堂からは大変驚かれたものだ。
それに未成年の場合、書籍化する為には保護者の同意が必要。当然父からは強く反対されたが、最終的には了承して貰った。
そうして編集者である東堂との打ち合わせの際に、秋人はある本心を打ち明けたのだった。
「物語を展開するにつれて、次第に一人称で執筆するのが息苦しくなったんだよね……。っていうか、あの時の僕流石に我儘すぎだったか……?」
これまで執筆を続けてきた『ワールド・セイヴァーズ』の全文を第一人称から第三人称へと変更、そして物語の展開はそのままに新たな話や設定を加筆・修正したいと申し出たのだ。
東堂は快く首を縦に降ってくれたものの、今振り返ってみればなんの実績もない青二才がいけしゃあしゃあと言えたものだと冷や汗ものである。
「阿久津さんが言ってたのは、きっとそれだ。東堂さんと何度も話し合いをして、改稿を重ねて大衆向けになった引き換えに……元々あった文章の熱やテンポが消失したんだ」
小説の執筆作業は謂わばライブなのだ。物語の世界に降り立って、その場限りでしか抱けない感情や思いを文字にして、文章にして、物語に推敲していく。特に秋人が書籍化するにあたり気をつけたのは会話の間と間、登場人物の感情の緩急、そして専門用語のバランスだ。
そうしてなんとか第三人称に不慣れながらも全体としてまとめ上げて東堂からOKを貰う秋人だったが、しかしその内心ではどうしても物足りなさが燻っており不完全燃焼だった。結局、東堂から窘められてそのまま書籍化されるのだが。
web小説にて執筆に慣れていくにつれ次第に感じていた、第一人称での表現の限界。反対の末に父から金銭を得る責任や覚悟を問い質され、思い切って理路整然としている第三人称への変更に踏み切った訳だが……これが未だ正解だったのか自分でもよくわからなくなる。
第三者には決して相談できない孤独な執筆作業。今では既に慣れたが、まるで辿り着く島が一つもない大海を、精一杯息継ぎをして泳いでいるかのようだ。
「……確かに、こっちにはこっちの事情があるけれど、目の前でああ言われちゃなぁ」
文章で読者を殺すという訳ではないが、色々と制限のある秋人なりにこれまでラノベを読んだことがない人にでも手に取って貰えるように道筋を立てながら、読んだ人がスッと飲み込めるような文章作りを意識している。
阿久津からしてみればweb小説時代を知っているからこその評価なのだろうが、メンタルが決して強くない秋人としては、どういう反応を示したら良いのかわからなかった。
「…………甘えたいな」
思わず秋人の口から洩れた弱音。途端に以前彼女に抱きしめられた時のことを脳裏に思い浮かべて頬を染めてしまうが、ぶんぶんと顔を横に振る。だがしかし、一度でも思い出してしまえば今日は一緒に食事を食べる約束など特にはしていないが、どうして会いたくなってしまったのも事実。
もしかして迷惑ではないだろうか、用事がないと良いなという思いが首をもたげつつ、勇気を出してスマホでメールに文章を打ち込むのだった。
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