さくら回廊

那智 風太郎

 Prologue

 深い深い夜のこと。

 気がつけば僕は咲き誇るしだれ桜の真下に立っていた。

 見上げると頭上はたおやかな枝が親骨となった巨きな笠で覆われていて、よく見ると不思議なことにその桜の花のひとひらひとひらがぼうっと微かな光を放っていた。

 その花弁は総じて白く、けれどほのかに桃色で血のように紅い重なりを浮かべるところもあり、じっと見つめているとそれはとてもやわらかで果敢はかない生物の血脈のようにも見える。

 枝のわずかなすきまに丸い月が浮かんでいた。

 さほど大きくもないその月は、けれど眩いほどに輝いて、ふと視線を下ろすと平らかな草原をどこまでも青白く染めていた。

 やがてどこからともなく一陣の風がやってきた。

 すると無数の花びらが舞い乱れ、まるで薄紅の雪のように地表にひらりひらりと落ちていく。

 僕は微かな思考も覚えずその幽玄な光景を眺めていた。


 不意に声が聞こえた。


「鳴海くん、だよね」


 振り向くとそこに真っ白なワンピースを着た髪の長い少女がいて、その黒目がちな瞳でどこか不安げに僕を見つめていた。

 たぶん高校生ぐらいだろうか。

 大学生の僕よりはいくぶん幼く見える。

 

「うん。……たぶんね」


 そう答えなければならないほどに僕の記憶は曖昧だった。 

 ここがどこなのか。

 いままで何をしていたのか、まるで憶えがなかった。

 そして自分の存在自体さえ、どこかあやふやに感じる。

 けれど少女はその僕の答えに胸を撫で下ろした様子で微笑んだ。


「来てくれたんだ。本当に」


 来てくれた?

 彼女とここで会う約束をしていたのだろうか。


 戸惑い、僕は訊ねる。


「君は誰だろう」


 そうたずねてみたものの、僕は心の中で密かに首を傾げていた。


 たぶん、僕は彼女のことを知っている。

 名前はおろか知り合った経緯も場所も覚えてはいないけれど、それでも彼女とはずいぶん近しい間柄であったような気がする。

 けれどそれ以上のことはなにも思い出せない。

 

 その問い掛けに彼女は顎を引き、それからスッと背を伸ばした。


「私はあずき。ごめんね。突然、召喚なんかして」


「ショウカン?」


 聞きなれない言葉に呆然とする僕に彼女は静かな笑みを向ける。


「そう、回廊に鳴海くんを呼び寄せたの」


「回廊……」


 訝しげに呟くとあずきが目線を誘った。


「ほら、あそこ。小さなつむじ風、見える?」


 顔を上げると折り重なる黒い樹枝のすきまにたしかに花びらがクルクルと小さな渦を巻いている場所がある。


「あれが回廊の入り口なの」


 そんな風に教えられても、つまりはどういうことなのかが僕にはさっぱり分からない。

 頭の中には濃密な靄がかかっていて、そのところどころに記憶らしき正体不明の影がポツリポツリとたたずんでいる。

 ただ、それだけだ。

 まるで自分が穏やかな海面に漂うクラゲにでもなったような気がして心が塞いだ。

 するとその途方に暮れる僕の手を突然あずきが握った。

 それは氷のように冷たい手だった。

 驚いた僕はその手元に目を遣り、それから彼女の細い腕をたどるようにしてその視線を上げる。


「大丈夫、回廊に行けば全部思い出すよ。そして私が鳴海くんを呼んだ理由も分かる」


 彼女はそう告げると柔らかな笑みをスッと消して唇を引き結んだ。

 するとそのとき地鳴りのような音が頭上に響いた。

 そして見上げるとすぐ真上に桜吹雪の渦が怪物の顎のように口を開けていた。

 薄紅の螺旋は喩えようもないほどに美しく、そして花びらが消えていくその深淵には黒く禍々しい闇が脈を打つように見え隠れしている。

 僕はふうっと長く細い息を吐いた。


「怖い?」


 疾風に髪を逆立てながらそう尋ねるあずきに僕は小さくうなずいた。

 すると耳もとに唇を寄せてあずきは囁く。


「大丈夫。心配ないよ。回廊は怖くない。でも……」


 彼女が僕の指先を握った。

 けれどその冷たい指先は震えていた。

 思わず彼女の手を強く握り返した。

 それから僕は自分の肩に掛かるあずきの前髪を見つめて心のままに訊いた。


「ねえ、僕は君のためになにができるだろう」


 するとその言葉に顔を上げた彼女は瞳を涙で潤ませ、それから激しく首を振った。


「違う。鳴海くんを呼んだのは、回廊に行かせるのは、私のためじゃなくて、そうじゃなくて……」


 刹那、暴風が僕たちを包んだ。

 次いで唐突に体がふわりと浮く。

 猛烈な風音にあずきの言葉は遮られ、握っていた手が振り解かれそうになった。

 見ると絡み合っている互いの指の向こうであずきが悲痛な眼差しを僕に向けていた。

 どうやら回廊に飲み込まれていくのは僕だけのようで、花びらで覆われた地面に立つ彼女は辛うじてまだ僕と繋がっている腕を精一杯伸ばして必死になにか叫んでいた。

 僕は彼女を離すまいと歯を食い縛り指先に力を込めた。

 けれどいくら抗おうとしても渦の凄まじい吸引の前には僕たちの力など所詮皆無に等しかった。

 ついに指先が引き剥がされた。

 その瞬間、景色がゆっくりと流れた。

 そして目に映ったあずきがやはり僕にはとてもいとおしく感じられた。

 彼女の姿が急速に遠去かっていく。

 僕は螺旋に激しく切り揉みにされ、やがてあの禍々しい波動を放つ暗黒へと吸い込まれていった。

 意識が途絶える前に僕の鼓膜が奇跡的にあずきの声を拾った。


「私を助けないで」


 それはたしかに彼女の叫び声だったと思う。

   

 

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