第18話





連続で滑るのはどう見てもキツそうだったので、俺達は早めに開けてもらったアリーナ内の売店で朝食を買い、サンドイッチを齧りながら少しだけ話をした。


スケートを続けるか迷った美鳥は、去年一年間はフランスでバレエ教室を開いている祖母の所にいたらしい。元々フィギュアスケートにバレエのレッスンは必須らしいが、一年間本格的にバレエだけに打ち込み、大会にも出場してみた結果……やっぱりフィギュアスケートが好きなのだと再確認して帰国してきたらしい。

美鳥がフランス系のクォーターである事を含め、家族のことを話してくれたので、お返しに俺からも両親の事を話したのだけれど……部屋に親父のCDもしっかりと並んでいたから予想はしていたが、とんでもない人にとんでもない事を頼んでしまったと盛大に取り乱し逆に疲弊させてしまったようだった。



それでもなんとか呼吸を整えた美鳥は、今再びリンクに立っている。

先程と同じようにプレーヤーとスピーカーを中央に置き、やはり先程と同じように俺の方に向き直った美鳥は深々と一礼する。

「……お願いします。」

小さな声が、かろうじて俺の耳に届いた。

もう一つのMidori。あいつはそう言った。

なんでそんなものが存在するのか、そもそも美鳥がなぜここにこうして居るのか。

その答えが、全てわかるんだろうか。

俺は先程と同じように胸の位置まである高さのフェンスに身を乗り出して、ゆっくりとプレーヤーのスイッチを押す美鳥を眺めていた。



一瞬の間を置いて流れだすピアノの音。軽快に跳ねる音に合わせて美鳥は軽やかに跳び、くるりと舞った。ピアノの音に完全にタイミングを合わせて。

ピアノが跳ねると美鳥も跳ねる。無邪気な子供のように氷上を駆け回るその姿は、そこに誰かの存在を感じさせた。

一人で滑っているはずなのに、美鳥を追いかける誰かの存在を。

なんだ、これ。

先程と全く同じ曲のはずなのに……情景が、見える。

その手をつかもうとも掴めない。するりと逃げていく。鬼ごっこでもしているような、そんな光景が目に浮かぶ。

その視線が、表情が、指先が、なびく髪の一本一本ですら、意図を持って伝えてくる。

そこにいる、二人の姿を。

時に手を取り、時に離れ。くるくると目まぐるしく変わっていく情景。

それは次第に不安を募らせ、軽やかだった音はいつの間にか重く苦しいものに変わっていく。

迷い、戸惑い、苦しみ、絶望、全てを抱えて氷上を彷徨うその姿に、思わず自らの胸を掴んだ。

ギリギリと胸を締め付けられる苦しみに思わず目を背けたくなったが、俺は拳を握りしめ耐える。

見届けるんだ。この光景の結末を。


音楽が速度を上げていく。

快速にアレグロ活発にビバーチェ急速にプレスト

不安な心を抱えて、美鳥も速度を上げていく。

そこで突然、美鳥が空に向かって手を伸ばした。速度を落とさず後ろ向きに滑りながら、まるで何かを求めるように。

そうして、空に向かって真っ直ぐに伸ばした手を己の胸に当て、ぎゅっと抱きしめるようにしてから、その場で左足を軸にくるりと回れば、リンクの空気が変わったのがわかった。

柔らかな空気の中、亜麻色の髪がふわりとゆれる。

ああ、見覚えがある。

そうか、あの時見た光景はそういう事だったのか。


一際大きく音が跳ねて、訪れる無音。

その瞬間、美鳥は背後にチラリと視線を移してから身体をひねり、



ふわりと飛んだ。



氷を離れた身体はくるりと空中で向きを変え、本当に空を飛んでいるかのようだった。

音を無くしたリンクに、己の息を飲む音だけが聞こえる。

真っ直ぐ、前に。軌跡は長い弧を描き、美鳥は後ろ向きに軽やかに着氷する。

胸が、熱い。

バクバクと激しく脈打つ心臓は、胸の奥底から熱いものを押し上げ、今にも溢れて飲み込まれそうになる。

なんなんだ、この感情は。

しん、としたリンクに優しい音が波紋のように広がりはじめる。

緩やかな音に合わせたスピンは、背を反らし天に手を伸ばしながら、なにかを願い、求めている。そんな気がした。

最後の和音がリンクに響く。

自らの身体を抱きしめるように動きを止めた美鳥の口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。



曲が終わり、世界が元通りに動き始めても俺はまだ目の前で起きたことから抜け出せなかった。

心臓がうるさい。

気を抜けば熱を持った目頭から何かがこぼれ落ちそうだった。

俺は、何を見せられた?

今のは一体なんだ。

頭が追いつかない。でも俺の耳も、早鐘を打つ心臓も確かに訴えてくるんだ。

Midoriを見た、と。耳ではなく、この目で。確かに見たのだと。


ゆっくりと美鳥がこちらに滑ってくるのが見える。肩で荒い呼吸を繰り返しながら、音響の回収もせずに真っ直ぐ俺の元に。フェンス越しに、縋るような亜麻色が俺に向けられる。

「…どう、だった?」

かろうじて聞こえた小さな声は今にも泣きそうだった。

どう、だった。なんて、

それは俺自身が聞きたい事だった。

「……悪い、…言葉が、出てこない……」

どう言い表せばいい。

この衝撃を、いまだにおさまらない心臓を、胸に込上げて俺の身体をぐちゃぐちゃに揺さぶるこの感情を。

俺の知っている言葉のどれを当てはめても表現出来ない。

綺麗とか、感動とかそんな言葉におさめられるものじゃないんだ。

「何を言っても、多分足りない。……ただ…今すげぇ泣きそう。」

正直に告げれば、亜麻色が丸く見開かれる。

「あの、どっちがよかった……?」

「そんなの比べるまでもない。どちらにするか悩んでるっていうなら、今の演技にするべきだ。」

今見た以上のものを、俺は知らない。

こんなの、悩む必要なんてどこにもない。

けれど、そんな俺の言葉に美鳥は今にも泣きそうな顔で笑った。

「よかった。……ちゃんと伝わった…」

「美鳥?」

その白い頬に、耐えきれなくなり溢れ出した一筋が伝う。

苦しそうに、それでも口の端に笑みを浮かべた亜麻色が、真っ直ぐこちらを見上げる。

「今の演技、ね。……実は、ほとんど得点にならないんだ。」

「な、」

それは、ガツンと後頭部を殴られたような衝撃だった。

美鳥の頬からまた一筋の涙がこぼれ落ちる。



ああ、ようやく見えてきた。

悲しく笑い頬を伝う、その涙の理由が。





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