2-4 打算と恋(2)
「殿下は、戦に勝つ気がないのですか?」
「そもそも勝てるわけがない。この国がどれだけ貧弱か、君も少しは知ってるだろ」
食べ損ねていた焼き菓子に手を伸ばして、アスディスは尋ねる。
ヨアヒムはアスディスの質問を不躾で理解がない人間の発言と受け止めたようで、苛立ちを忍ばせた様子で問い返した。
(この人はちゃんと自分の国のことをわかっているから、怒っているんだ)
改めてユルハイネン聖国の農村の様子を思い出したアスディスは、ヨアヒムが戦争に何の希望も見出していないのも当然かもしれないと思った。
「確かに荒れ地の農民の暮らしは、過酷に見えました」
さくさくと焼き菓子を食みながら、アスディスはユルハイネン聖国への認識を正直に語った。薄く伸ばした生地を巻いてきつね色に焼いたその菓子は、甘く軽い口当たりが悪くはない。
一方でヨアヒムは、菓子にもパンにも手を付けなかった。ヨアヒムは上部の尖ったアーチ状の窓から外を眺め、厳しい言葉で自国の状況を咎めた。
「この街の港では、民が必死に育てて収穫した穀物が外国へ売られていく。城壁の外には飢える民がいるのに、小麦を売って武器を買うなんて馬鹿のすることじゃないのか?」
苦悩に満ちたヨアヒムの視線の先には、高台の城から見下ろしたハーフェンの街と海がある。
売るものがなければ貿易はできず、ハーフェンという街では民から収奪した穀物を売った金で商品が買われる。
ヨアヒムは民の苦しみから目をそらさずに生きているからこそ、人々の犠牲の上に成り立っている王族としての自分の立場を憎んでいるようだった。
その国を想う生真面目さは、自分の国というものを持たずに海で生きてきたアスディスがまったく知らないものであった。彼の気持ちがわからず、遠く隔てられているからこそ、アスディスはヨアヒムに惹かれた。
「じゃあ武器を買うのは、やめますか?」
商品を売るという自分の役割を忘れて、アスディスはヨアヒムの意思を尊重する。
しかしヨアヒムは自分の考えを押し通せる人物ではないからこそ、アスディスの前に座っていた。
「父上が国王である限り、それもできない」
苦い表情で顔を伏せ、ヨアヒムは首を小さく横に振る。
ヨアヒムのその答えには、優れた為政者とは言えない父チャールトへの屈折した感情が込められていた。
民の苦境を知らずに戦争を続ける暗君である国王を口では批判していても、ただの王子でしかないヨアヒムには王を殺して成り代わる度胸はないのだ。
(でも私、この人に何かしてあげたいかもしれない)
気に入ったドレスを手に入れたくなるのと同じ感覚で、アスディスはヨアヒムの感謝の言葉が聞きたくなる。
だからアスディスは、あまり持ち合わせてはいない知恵を絞って、ヨアヒムに恩を売る方法を考えた。
「では私が、殿下の望みを少々叶えるために力をお貸ししましょうか」
「と、言うと?」
アスディスが無責任に手助けを申し出ると、ヨアヒムは伏せていた目を上げた。
綺麗な深紫色の瞳に見つめられて照れつつ、アスディスは売買する武器をまとめた冊子を開いて、思いついたことを説明した。
「例えば売買の契約書では、これらの商品の値段にこの値段より五割増の値段がついていたことにしましょう。でも実際の取引は、最初の値段ままで行います。そうすれば余ったお金の分、食料を売らずに民に残すことができませんか」
アスディスの提案は、裏金を作る手段を利用したものである。だからアスディスは、人を騙してごまかす方法は断られるかもしれないと思った。
しかしヨアヒムは、アスディスの思いつきを否定せずに受け止めた。
「確かにどちらにしろ負けるのなら、銃や火薬よりも穀物が多く残った方がいいかもしれないな」
大粒の宝石付きの指輪をはめたアスディスの手によって開かれた冊子を眺めて、ヨアヒムは考え込む。
そしてしばらく黙っていた後、ヨアヒムは静かな声でアスディスに尋ねた。
「その嘘、君が手伝ってくれるのか」
不正な書類で父親を騙すことは、個人の倫理に反する行為ではなかったらしく、ヨアヒムは真っ直ぐな眼差しをアスディスに向けている。
そうなると感謝の言葉以上のものが欲しくなって、アスディスは軽率に冗談を言った。
「はい。でもその代わりに、私に口づけをしてくださいって言ったらどうします」
アスディスはそこまで本気ではなかった。ただ好意が伝わって、返事がもらえればそれで良い気持ちの方が強かった。
しかしヨアヒムは民に対しては誠実である反面、恋愛については特にこだわりがないのか、簡単にテーブルに身を乗り出してアスディスの額に口づけをした。
「こんなことが、対価になるのだな」
淡いぬくもりをアスディスの額に残して、ヨアヒムが顔を近づけたままささやく。
それは意外な反応だったけれども、アスディスは嫌ではなかった。
だからアスディスは、今度は自分からヨアヒムのくちびるに口づけをした。短いけれども、熱を込めた口づけである。
「私があなたのことを、気に入ったから」
気づけばアスディスは、敬語を使うのをやめていた。
こうしてアスディスは望んだ通りに、ヨアヒムと過ごす時間を手に入れた。
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