第2章 恋人を泡にした人魚姫

2-1 海の大商人の娘

 北の大陸の沿岸の暗い海を、金の獅子の船首像のついた赤塗の船が一隻、穏やかな波にのって進んでいた。

 マストの頂から舵まで贅沢な彫刻が施されたその船は、灰色の曇天の空の下で鮮やかな緋色で目立っている。


 海の大商人オグニの娘であるアスディスは、その豪華絢爛な船の主として、船尾にある一番に上等な部屋の腰掛けに座って茶を飲んでいた。


「うん、美味しい。前回の商談の人は、お土産に良いお茶を持ってきてくれたね」


 ほどよい渋みの茶を飲み干して、アスディスは天井から赤い紐で吊ったトレイに載ったポットをとって二杯目を注ぐ。


「あの大砲は貴重なものでしたから、買えることが嬉しかったのでしょう」


 側に立つ侍女のダラも、自分の分のお茶を飲んで頷いた。


 二人が話している通り、手元の陶製の茶器の中に入っているのは、半月前に終わった商談の相手が持ってきた茶葉を淹れたものである。大商人である父親の商売を手伝っている関係で、アスディスは世界中の様々な品を手に入れられる立場にいた。


(この前はこの髪飾りももらったし、最近は良いものがよく手に入って嬉しい)


 アスディスはカップを手にしたまま窓を見て、贅沢に着飾った自分の姿をガラスに映した。


 今年で十八歳になるアスディスは、茶色の髪を編んで細かい青玉を散りばめた飾り櫛を挿し、裾を金モールで縁取った青い繻子織サテンのドレスで華やかに装っている。

 アスディスは背が高く、勝ち気そうな淡褐色の瞳をしていて、特別に美人というわけではない。しかし化粧や着ているものが優れているために、見目の良い淑女に見えた。


 そうした自分の装いが素晴らしいことを確認したアスディスは、窓に映る自分から視線を外し、ガラスの外の向こう岸を眺めた。


(あそこに見える土地は貧しいけれども、私は裕福で金持ちだ)


 静かに波打つ海を挟んで見えるのは、粗末な民家がまばらに建った、やせた灰色の大地である。北の大国であるユルハイネン聖国の領土であるその土地は、もともとが恵みの少ない寒冷地であるうえに、欲深い統治者に収奪されて荒れ果てていた。


 国を持たない一族に属するアスディスは、豊かに富の満ちた船の上と、自由な海で生きてきた。だから殺風景な土地に縛られて生きる北の大陸の住民の暮らしは、なぜ人が生きているのかわからないほどに気の毒に思える。


(でもああいう貧乏な人たちから税を取り立てて、その金で物を買う偉い人が私たちのお客さんなんだよね)


 寒々しい景色から慣れた船内に視線を映して、アスディスは温かな茶をもう一杯飲んだ。


 アスディスは王女でも聖女でもないが、王にも負けないほど豊かな暮らしをしている。

 なぜそれほどまでに裕福なのかと言うと、それは父オグニの稼業が武器商人だからである。


 火薬に大砲に、銃に刀剣。

 船にはたくさんの武器が積み込まれていて、アスディスは父オグニの指示に従いながらそれを売って世界中を巡っている。

 腕の良い武器職人からのみ仕入れた武器はどれも上質なものばかりで、アスディスは常に商品を高い値で売ることができた。


 良い価値があるものを通して、商売は広がる。

 人の命は大事だからこそ、それを奪う武器にも価値が生まれる。

 だから戦争は大勢の人から命を財産を奪うと同時に、莫大な富を生み出す。


 アスディスはそうした、人の血が流れることによって発展する文化の中に身を置いているのだ。


「このお菓子もいいけど、ちょっと果物も欲しいかも」


 アスディスはトレイに載っていたナッツ入りの薄焼き菓子を手に取りながら、ごく自然にわがままを言う。


「では船員に持ってこさせましょう」


 主人と同様によく食べる侍女のダラは、外の船員に指示を出すために部屋を出た。

 合理性を重視するダラは、動きやすい男物の服を着ているが、身体の女性らしさではアスディスに勝っている。


(確か食料庫には、りんごがまだたくさんあったはずだよね)


 部屋に一人残り、アスディスは食料庫にある果物のことを考えた。

 都市から都市を移動するアスディスの船には、いつも食料が豊富に積み込まれている。

 だからアスディスは、船の上でも飢えたことはまったくなかった。


 着たい服を着て、食べたい物を食べて、欲しい物を手に入れる。

 それが海の大商人オグニの娘、アスディスの人生だった。

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