第二十四話 誇りなき勝利

 泥と血とカビと腐った肉の臭いだ――。

 ジェシーが意識を取り戻し、最初に感じたのはそれだった。

 目を開けるがぼんやりとしていて何も見えない。電球のわずかな灯りが暗い廊下を照らしている。廊下とジェシーのいる場所の間に鉄格子があるのを視認できるようになるまでしばらくかかった。

 体が重い。薬品を嗅がされたのだ。

「うぅ……」

 ジェシーは全神経を集中させて寝返りを打つ。手首と足首に固い感触があった。枷を取り付けられていた。ジェシーは腕を持ち上げて枷に繋がった鎖を手繰り寄せる。

 ギギィィ……。

 耳障りな金属音がした。鎖の反対側が壁に繋がっていた。壁に取り付けられた金具のネジが緩んでいて、ジェシーが引っ張ったことでネジがきしんで音が出たのだ。

 ガシャンッと枷と鎖を叩きつけてジェシーは腕を床に下ろす。

 しくじった。この状態では何もできない。相手は自分の実力を熟知している。でなければここまで厳重に幽閉したりしない。ジェシーをとことんまで追いつめるために入念に準備したのだろう。そんなことをする人間はあの男しかいない。

 足音が聞こえてきた。軽やかな足取りでジェシーのいる牢屋に近づいてくる。

「よお、調子どうだ?」

 それはネリ・スクワブだった。

 閉じ込められた牢屋の中から見上げるネリ・スクワブほど見ていて不気味なものはないとジェシーは思った。ネリ・スクワブは舐めるような視線でジェシーを見下ろしている。大方、これからどうジェシーを痛ぶろうかと考えているのだろう。

 ジェシーは「バークは拷問の天才だった」とギャバンが力説した時のことを思い出す。ウェイストランド奪還紛争でバークは仲間が引くほどの才覚を現した。いつでも最初に戦場に飛び出すのはバークで、捕虜を捕まえたら情報を吐かせるために何でもした。15歳の少年が誰に教わるでもなく、自らの意思と発想力で人間をとことん追い詰める技を習得していったのだ。

「敵と同じ空間にいる時のバークの目は人間の目をしてなかった。獲物を前に興奮する肉食獣の目だ」

 ギャバンはその言葉を半分は畏敬、半分は諦めのような気持ちで言った。少なくともジェシーにはそう感じられた。バークの成し遂げた功績がその異常性あってのものだったと認めざるを得ないからだ。

 きっとバークの目はきっとこんな風だったのだろう、とジェシーはネリ・スクワブの目を見つめ返す。

 ネリ・スクワブは鍵を開けて牢屋の中に入ってきた。

「さて、やっと2人きりってわけだ。俺とお前の2人きりだ」

 ジェシーは体を起こそうとしたが、上手く力が入らずわずかに後ろに下がることしかできなかった。

「起こしてやるよ、お嬢さん」

 ネリ・スクワブが膝をついてジェシーの肩に触れようとした。

「触るな……」

 と言ったつもりだったが、唇はほとんど動かないし、声もかすれて出なかった。

 ネリ・スクワブはジェシーの肩と床の間に太くて肉厚な指を差し入れる。そのままジェシーを自分の胸に引き寄せ、顔を近づける。

 ジェシーは首を反対側に向けたかったがネリ・スクワブに阻止された。いつ髪ゴムを解かれたのかわからないが、ジェシーのクシャクシャに乱れた髪をネリ・スクワブの指がなでる。

 ネリ・スクワブの唇がジェシーの唇に触れた。ねっとりとした感触にジェシーは顔をしかめる。続いてネリ・スクワブの熱い吐息や湿った舌先がジェシーの口内に入ってくる。

 ジェシーは渾身の力で腕を上げた。ネリ・スクワブの肩を押し返したかった。でもできなかった。薬がまだ完全には切れていない。

 ネリ・スクワブはジェシーの服のボタンを外し始めた。舌が首筋、鎖骨周辺、胸板と徐々に下がっていく。気色悪い生温かさにジェシーは震え出す。

 ネリ・スクワブは唐突にジェシーをもてあそぶのをやめた。

「麻酔が切れたらまた来るぜ」

 ネリ・スクワブはそう言って牢屋を出て行った。

 最低最悪の気持ちでジェシーは横たわっていた。恐怖と屈辱が一気に押し寄せてきた。ネリ・スクワブはジェシーの体を狙っている。お嬢さんと呼んでいたのは単なるからかいではなく、本気でそう扱うつもりだったからなのだ。それだけはなんとしても阻止しなければならない。

 ジェシーはぼやけた思考を無理に叩き起こした。ネリ・スクワブに勝つための方法をこの絶望的な状況から探り出す必要があった。

 薬の効き目は徐々に切れてきている。ジェシーはさっきよりも楽に動けるようになった。同時に震えも激しくなった。しっかりしろと自分に呼びかける。こんなところで他人の好きなようにされたままでいてたまるか。自分の人生は自分で決める。どんな逆境も絶対に跳ね返す。たとえどんなに自分の手が汚れ、恥辱に塗れても、自分の信条だけは絶対に曲げない。

 ジェシーは鎖を手繰り寄せた。重たい体を引きずって鎖を頼りに壁に近づく。両足の裏を壁につけてジェシーは鎖を力いっぱい引っ張った。

「うあああああああああ!!」

 壁の金具のネジは2本とも緩んでいた。引っ張れば引っ張るほど耳障りな金属音が牢屋全体に響いた。

「うおおおおおおおおお!!」

 ジェシーは声が枯れるほど叫んだ。だんだんと薬の効果がなくなり意識もはっきりし出した。指先までしっかり力が入った瞬間、ジェシーはついに1本目のネジを弾き飛ばした。

 ジェシーは立ち上がった。金具はジェシーが手を伸ばしてやっと届く高さに取り付けられていた。ジェシーは鎖を長めに持って壁から離れた。壁を背にして立ち、全体重をかけて鎖を反対の壁へ向けて引っ張った。

 ガシャン!

「うわっ!!」

 ジェシーは降ってきた金具を辛うじて避ける。金具はレンガの壁に激突して床に落ちた。

 カランカランと弾け飛んだネジが床を転がる音が虚しく響いた。

「やった……」

 ジェシーは金具を元あった方の壁に放り投げた。なるべく光の当たらない場所に置き、外れた金具が見えないようにした。

「はあ……」

 ジェシーは倒れ込んだ。様々な疲労が一気に噴出した。

 ジェシーは上の空でネリ・スクワブが来るのを待った。何分経ったか皆目見当もつかなかった。意識もはっきりしていて、指先から足先まで完全に動ける状態になったが、動こうという気が起きなかった。


*      *     *


 再び足音が聞こえてきた。ジェシーはその音で目を覚ました。顔をわずかに上げてネリ・スクワブが来るのを待った。

 ネリ・スクワブは姿を現すと牢屋を開けるより先にジェシーの様子を見た。ニヤついた口元と舐め回すような視線が薄気味悪かった。

 ジェシーは鉄格子の反対側の壁に背中をつけて座り込んでいた。

「動けるようになったみたいだな」

 ネリ・スクワブは上機嫌だった。鍵を開けながら口笛を吹いている。

「俺ァよ、昔フレイムシティで権勢を極めた時期があったのよ。あの頃は寝る相手には困らなかったが、こっちに来てからは無様なもんだ。昔の仲間で俺についてきてくれたやつは数人しかいねえし、まともに相手になるのは1人だけ。気晴らしに街にでも行こうかってなっても、こんなクソド田舎じゃまともなやつは滅多にいねえ」

 ネリ・スクワブは牢屋に入り、電球を背にして立った。ジェシーのいる場所が暗くなる。

「俺は好き嫌いの激しい方ではないが、お前は近年稀に見る上物だ。大事にしてやるから安心しろ」

 ジェシーはゆっくりと顔を上げ、ネリ・スクワブの目をギッと睨み返した。

「奇遇だな。僕はバークヒルズでは一番の食わず嫌いなんだ」

 ネリ・スクワブが動き出すよりも前に、ジェシーは鎖を引っ張った。金具がネリ・スクワブの頭をかすめる。

「てめえ……!!」

 ネリ・スクワブは辛うじて金具を避ける。隠し持っていたナイフを出して構えた。

 ジェシーは鎖を空中に舞わせ、ネリ・スクワブを捉えようとする。ネリ・スクワブは上手にそれを避けてジェシーに掴みかかった。

「かはっ!!」

 ジェシーは勢いで吹っ飛ばされ壁に激突する。それでも怯まずジェシーは鎖を放る。ネリ・スクワブの左腕に鎖が絡まった。ジェシーは鎖を引っ張りネリ・スクワブを床に叩き落とそうとする。ネリ・スクワブも渾身の力で鎖を引っ張り耐える。ジェシーはならばと鎖をわざと緩める。ネリ・スクワブは反応が遅れ勢い余って床に倒れる。

 ジェシーがネリ・スクワブの首に鎖をかけた。そのまま馬乗りになってネリ・スクワブの動きを封じる。

 ジェシーは鎖の両端を掴んでネリ・スクワブの喉を締め上げる。

「こぬぉおおおおおおおお!!」

「うらあああああああああ!!」

 ジェシーの左腕に鋭い痛みが走った。ネリ・スクワブのナイフが二の腕に刺さっていた。

 ここからは根競べだった。先にネリ・スクワブの意識が落ちるか、ジェシーが痛みに負けて手を放すか。

 ジェシーは絶対に手を放さなかった。腕の痛みがなんだ。さっき自分が受けた屈辱はこんなものではなかった。普通に殺されるよりも酷い屈辱を味わわせておいて生きていられると思うな。お前がこの世にいる限り、僕の汚辱は消えないのだから。

 ネリ・スクワブの意識が遠のいていた。ナイフを持つ手の力も弱まった。ジェシーは夢中で鎖を引っ張り続けていた。一瞬たりとも力を緩めなかった。

 ネリ・スクワブはいつの間にか白目をむいていた。完全に腕はだらんと床について、息をしていなかった。

「はあ……はあ……はあ……はあ……」

 しばらくした後、ジェシーは鎖を放し、宙を見つめて荒く息をした。

 ネリ・スクワブが死んだとわかってもすぐにジェシーは次の行動に移れなかった。完全に息絶えたネリ・スクワブの上でジェシーはまだ震えていた。

「勝った……!」

 ジェシーは今まで感じたことのない快感に震えていた。相手の全てを奪って勝利する快感だ。恐ろしくて、清々しくて、そのうえ喪失感のようなものまで感じていた。

 ジェシーは目をギラギラと輝かせていた。それは飢えた獣のようだった。満たされない何かを埋め合わせたい思いで頭がいっぱいだった。

 きっとこの牢獄にはネリ・スクワブの部下がいるはずだ。全員ネリ・スクワブと同じ目に遭わせてやりたい。

 ジェシーは笑っていた。開け放たれた廊下を出て、ネリ・スクワブが来た方向へと歩いていった。


*      *     *


 全てが終わるとジェシーは牢獄に戻ってきた。全身血まみれで髪は乱れ、目だけが気味悪くギラついていた。

 ジェシーはコーディが閉じ込められている牢屋へとやってきた。

「コーディ兄さん、助けに来たよ」

 コーディは退屈そうな顔で寝っ転がっていたが、ジェシーを見ると悲鳴を上げた。

「お前!! どうした!? その格好!!?」

 ジェシーは自分の身なりを確認した。ひどい格好をしていることはわかったが、何の感情も湧かなかった。

「ああ、うん」

 ジェシーは素っ気ない返事をした。コーディはそんなジェシーをおかしいと感じたようだったが、深く触れてこようとしなかった。ジェシーはそれをコーディなりの優しさだと思った。

「帰ろうよ、コーディ兄さん」

 ジェシーは牢屋の鍵を開けた。怯えるような目をしたコーディはジェシーに言われるがままに牢屋を出て、地上への階段を登った。

 地上階の部屋はどこもかしこも死体だらけだった。コーディはその場所に見覚えがあった。ジェシーも既にここがどこだかわかっている様子だった。

 ここはCOCOのバークヒルズ支部だった。この建物はウェイストランド奪還紛争の時の拠点に使われた建物を改装していて、地下牢は当時のままだった。

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