線香花火

ケン・チーロ

線香花火

 AI四原則 (改正旧ロボット三原則) 

 第一条 AIは人間に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない。

 第二条 AIは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただしあたえられた命令が第一条に反する場合はこの限りでない。

 第三条 AIは前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり自己をまもらなければならない。

 第四条 AIは前掲第一条および第二条および第三条に反しない限り人の幸福追求の補助を最優先に行う。

 2056年 内閣府科学技術省通達

       1

 百年前のSF小説で提唱されたロボットが守るべき行動を定めた原則は、コンピュータテクノロジーが究極進化した現在では小説の枠を超え現実世界の基本原則となった。

 ただ一つ小説と違うのは、実際にこの原則を守るべき義務を負ったのはロボットでは無く、人類を凌駕する知性と知能を獲得した人工知能AIだった。

      2

「サトル、今度は鯨の泳ぐ姿を見せてよ」

 透明な呼吸マスクで顔の半分を覆われベッドで横たわっている雄一が甘える声で言った。

「もう寝る時間ですよ、雄一。遅くまで起きていると夏希に怒られます」

「これで最後だから。ね、お願い」

「仕方ありません。ではこれで本当に最後ですよ」サトルは両目から3Dホログラムを投射した。

 薄暗い部屋が一瞬で紺碧の大海原に変わる。青空に巨大な入道雲が浮かんでいる。その下は穏やかな群青色の海が広がっていた。雄一の耳には海原を渡ってくる海風の音と静かな波音が聞こえて来る。

 次の瞬間、巨大な黒い物体が海から飛び出してきた。シロナガスクジラだ。

 雄一は興奮した。雄一の体に取り付けられた各種センサーが脈拍と血圧の数値の急上昇をサトルのAIに報せる。サトルは雄一の体内に埋め込まれた医療用インプラントに微量の鎮痛剤を放出する命令を出した。

 シロナガスクジラは勢いよく海面から垂直に飛び出すと、両ヒレを大きく広げ一瞬空中で止まり、ゆっくりと背中から海面に落ちていく。巨体が落ちて来た海面は轟音と共に盛大な水飛沫を舞い上げて割れた。空に舞った水飛沫が、今度は煌めきながら滝になって雄一に降りかかってくる。

 ザーっと大量の水と音が雄一の体をすり抜けていく。

 アハハと嬉しそうに笑う雄一。映像はすぐに海面下に移った。海中ではダイブしたシロナガスクジラが大量の泡を纏いながら身を捩っていた。 

 上下に大きく動く尾びれ。ぐんっと流線形の美しい巨体が早い速度で海中を進む。煌く波間から零れた太陽光のカーテンの中をクジラは進む。映像はクジラの体に近づいて行った。映像はどんどんシロナガスクジラの前方に近づいて行き、やがて目が大写しになった。濁りの無い黒い瞳は優しく微笑んでいるように見えた。

『シータ波検出。二十秒後に深睡眠に移行』

 サトルに雄一の脳波データが送られてきた。「雄一?」サトルは優しくそっと呼んだ。雄一からは規則正しい寝息が返って来た。サトルは投射していたクジラの画像を止めた。再び部屋は薄暗くなる。

「22時23分就寝」サトルは独りごちると雄一が眠る医療ベッドに音も無く近づく。床はフカフカの絨毯だが、サトルの足である電磁ホイールはそれに頼らずとも全くの無音で移動が可能だった。

 雄一の寝顔は笑顔だった。サトルはそれを認識すると、雄一の胸元に開かれたままの動物図鑑をアームを伸ばし取り上げた。もう製造販売されていない全て紙の図鑑で、重い上に掲載されている動物の情報も古いが雄一はこの本が一番のお気に入りだった。

 開かれていたページには鯨の種類がイラストと写真で紹介されていた。音を立てないように静かに表紙を閉じる。表紙は所々剥げていて象やペンギンが微かに分かる程度で、花切れや角もボロボロにほつれている。それは雄一が何度も繰り返し図鑑を見ていた証拠だった。

 サトルはそっと雄一の枕元に図鑑を置いた。その傍には数羽の折鶴がある。サトルはゆっくりとベッドから離れた。ベッドの上部から透明なカバーが降りて来てベッドを覆う。サトルはそれを確認すると無音で雄一の病室から出て行った。

      3

「昨日も遅くまで起きていたでしょ」

 私はわざと眉間にしわを寄せ、少し上半身が起きた状態の雄一に顔を近づけた。

 えへへ、と悪びれもせず笑う雄一。それを見て私もふっと笑顔に戻る。

 朝九時の定期回診。私は雄一のベッドの脇に立ち、タブレットを操作しながら雄一のバイタルデータを見る。今度は表情を変えないように意識して平静を保った。

「サトルもあまり甘やかしては駄目よ。夜更かしさんになったらどうするの?」

「ごめんなさい」ベッドを挟んで向こうにいたサトルは滑らかに頭部を下げた。

「サトルは悪くないよ。僕が無理に頼んだんだから」

 雄一は私ではなくサトルに向かってそう話しかけた。

「いえ、僕がちゃんとしていれば雄一は怒られなかった。ごめんなさい、雄一」

「こら、二人とも謝る相手が違うぞ」

 雄一の髪をわさわさと軽く撫でる。柔らかく細い黒髪が乱れた。雄一は両手を頭の上に載せ私を見てまたえへへと笑いサトルは大きな両目(もちろんカメラだが)で、私を見つめて「ごめんなさい夏希」と頭部を下げた。

 私は微笑みで返し、ふと枕元を見た。

「折鶴、綺麗に出来ているわね。サトルが折ったの?」 

 二週間前、折紙を雄一に見せたいとサトルは十枚ほど色紙の支給申請していた。ペーパーレス社会になって久しい現代では紙製品のバリエーションは限られていて、折紙用の色つき紙は手続きを踏まないと入手できない代物になっていた。

「サトル凄いんだよ。魔法みたいにパパッと鶴を折っちゃった」

「さすがね、サトル」雄一の前ではそう言ったが、ナボットの中でも特に高性能のAIを搭載しているサトルは、人間の私以上に上手に折れるだろうと思った。

 看護ロボット通称『ナボット』は普通の人間支援ロボットよりも『気配り』が出来るよう設計されている。特に小児医療対応ナボットは『シャボン玉を壊さない程の優しさ』と表現されるような細心の動きや気配りが出来る。それも人の動きを正確かつミス無く再現できる様プログラムされたAIのお陰だと分かってはいるが、実際にナボットと一緒に過ごすとそんな無機質な感覚は無く、外見がロボットであっても、人間的な温かさを感じる時が多くある。だがそれがロボットの設計思想でもあった。

 人間支援ロボットの開発当初はリアルに人間に近づける所謂『アンドロイド』の開発も盛んに行われたが、人と区別の付かない機械人間は却って気味悪がれ、疎まれた。特に医療機関で稼働するアンドロイドに対しその傾向が顕著だった。だが意図的に愛くるしい外観に設計されたロボットは人の感情移入が容易に行われ、結果人と良好な関係が築ける事が分かった。

 サトルも多くの医療機関で採用されているタイプのナボットだ。身長は小学生低学年の平均身長を採用し全体的に丸いフォルムで頭部は上下に少し圧縮した楕円形。カメラレンズの両目はやや離れて設置されている。その両目はこれも意図的に大きく黒い円で囲われていて、その大きな眼に見つめられていると勝手に愛らしいと感じてしまう。

 私は気を取り直してタブレットに目を移しバイタルデータを私の端末に送信した。

「次夜更かししたら花火は無しよ」

 以前サトルが見せた昔の夏の風物詩の線香花火に興味を持った雄一が、線香花火が見たいと珍しくねだった。雄一の体力がもう少しあればその願いも叶えてあげたいが、今はそれも無理な事だった。

 だからそれを思わず口にした私の心はチクリと小さな棘が刺さる痛みを感じた。

 二ヒッと悪戯小僧の笑みを浮かべ雄一はサトルの方を見た。私も棘の痛みから逃げる様に、つられてサトルを見る。サトルは少し首を傾げていた。

『やはり異常は無いわね』改めてサトルを見つめ心の中でそう呟く。雄一のとは違う問題をサトルは抱えていた。

「どうしました? 夏希」サトルに問いかけられ我に返った。

「何でもないわ。じゃあ後はよろしくね」

「分かりました」サトルは頷いた。

      4

「原因、分かったの?」 

 私は机の上に3Dホログラムで上半身だけ浮かび上がっている和泉に問い詰めた。和泉は私のパートナーでAIの専門家だった。

「そう焦るなよ。解析に入ってまだ三日だ」

「もう三日よ」

 和泉は肩をすくめた。

「マザーもネットワークも全く異常が無い。そもそもナボットとそれに搭載されているAIも何重にセーフティが掛けられている。そう簡単に異常行動を起こす事はない」

 それは分かっている。だがその異常行動が三日前サトルに起こった。

 二十四時間年中無休で働くナボットの誕生で、医者や看護師の夜勤と言う業務は過去のモノになった。夜十時を過ぎると病院はほんの一部の医療関係者を除きほぼ無人となり、病院のホストコンピュータ『マザー』とナボットにより管理される時間帯になる。

 夜勤時に限った事ではないが、安全管理上ナボットの行動は全てマザーに記録される。

 だが三日前の夜、約三十分の間サトルの行動が全く記録されていなかった。しかも過去に遡ってチェックした所、数分間ではあるが五回同様な現象が確認された。

「君の心配は分かるよ」和泉は私の深刻な表情を察したようだ。天文学的確率だがナボットの故障は重大な医療事故に直結する。和泉の言うように何重もの安全装置が施されているナボットはこれまで医療事故を起こした事はなかった。だがこれから起きないとは誰も断言出来ない。その払拭できない不安が私の心に渦巻いていた。

「調査段階だから正確な事は言えないが、実はちょっと不思議なモノを見つけた」

 私は和泉を見つめた。

「ここだけの話にしてくれるか?」

 当然よ、と私は頷いた。

「ナボットには記憶装置が無いのは知っているな」再度私は頷いた。「だけど実際にはAIの中に少しだけ記憶領域が存在する」

「初耳だわ、そんなのがあったの?」

「俺達は『本棚』と呼んでいる。本来はナボット同士の相互アクセス時のログを保存する場所だ」それも初耳だった。 

 マザーが記録するのは単純に行動時の見聞きしたものだけではなく、医療行為を行うに至った過程の思考プロセスまでもが記録されている。

 行動記録と思考プロセスは、マザーにより精査されビックデータとして全世界のAIと共有し、ディープラーニング(深層学習)を繰り返す事で更にAI知能向上に寄与する。 

 AIにとって記録とは共有されるデータであって、個々の中に貯めておくものでは無かった。

「だが何らかの異常事態が発生しナボット単体で行動した時の記録を書き込む非常用メモリとしても機能する」

「じゃあこの前の事もそこに?」

「いやそこがまた問題なんだ。一部を残して本棚のデータは全て消されていた」

「データって消せるものなの? それに一部が残っていたって……」

「マザーと再接続した時に重大な異常が無いとマザーが判断した場合はナボット側の自律判断で消す事が出来る。それ自体に問題はない。実際事故や不具合は起きなかったし、何よりマザーの判断に間違いは無い」

 それはそうだがどうにも納得出来ない。

「一部が残っていたってそれは何? もしかしてウイルス?」 和泉は首を振った。

「君も見てみるかい? 実は昨日からこれに頭を悩ましている」

 そういうと和泉は人差し指をひゅっと横に振った。目の間に黒いウインドウが出現し、細かい英数字の文字列が映し出された。

「これは?」 思わず呟いた。咄嗟には分からなかったがこの文字の羅列を昔見た覚えがある。

「学生の時、二〇世紀頃のマシン語と言うプログラム言語で演習したのを覚えている? それに構造が似ている」文字の羅列の後ろから和泉の声が聞こえた。

 あぁやはり。プログラミング基礎演習で今時キーボードを叩いてプログラムした記憶が甦った。複雑な上今のAI工学とは互換性が無く、現在では全く使用されていないと教授が言っていた事まで思い出した。

 表示された小さな文字を良く見ると「80 80 FF 8F 22 25 FF FF 00」とアルファベットや数字の二文字の組合せの文字列が整然と何処までも続いていた。文字を目で追って行ったが文字の組合せには規則性は無かった。

「文字二文字は十六進法で1バイトを表している。それを幾つも表記してプロセッサを動かすプログラムになる。正確には『コード』と呼ぶけどね」

 和泉が私の記憶を補完してくれた。

 コード……その時何かが頭の中を過った。だけどそれが何なのか分からないまま、ぼんやりとした記憶の森に消えていった。

「これはプログラムなの?」

 いや、と否定の言葉と共に文字だらけの画面が消え再び和泉の顔が映し出された。「AIで解析したがプログラムでは無いと判断された。今の段階ではただの文字の羅列としかいいようがない。正に『暗号(コード)』だ」和泉は力なく笑った。

「何も分かってないって事ね」

「取り敢えず様子を見よう。重大な欠陥が見つかった訳でもないし、安全管理上も問題は無い。経過観察も重要な調査方法だよ」

「分かったわ」全て納得した答えではなかったが和泉の言う通り今は何も出来ない。

「このコードはどうするの?」

「バックアップを取って消去したよ。後で君の所にも転送しておく」

 私は頷いた。淹れたまま忘れ去れていたコーヒーはすっかり冷えていた。私はそれに口をつけた。

「それで雄一君の容態は?」 一息つき和泉が聞いてきた。

「……正直良くないわ。マザーは十五日以内だと予測している」

 雄一は小児ガンを患っていた。入院して五年、三カ月前には一時危篤に陥った。その後持ち直し今は小康状態が続いている。だがそれは症状が安定しているだけで、日々雄一の命の火は小さく消えかかっていた。

「家族への連絡は?」

「遺伝子上の父親は今衛星軌道上に居て三年は地上に帰れないらしく事後を託されたわ」 

 私は大きくため息を吐いた。

「でも母親の情報開示は、また拒否された」 

 AIと共に長足の進歩を遂げた医学は、生命の誕生を操る事が出来たが、未だ全ての病を克服しておらず、人の命は有限だった。

「あまり気に病むなよ。どっちも仕方のない事だ」

 私は頷いた。

「じゃあまた、進展があり次第すぐに知らせる」

 和泉はそう言って消えた。私は背もたれに背中を預け、また大きくため息を吐いた。

 人間に代わり多くの仕事をこなし、社会システムのほぼ全てを管理しているAIでも禁じられている事が少なからずある。その一つが死亡診断書の作成だ。そしてそれを作成する仕事が医者である私の主な業務になっている。

 命の最後を看取るのが人間の行う数少ない仕事の一つと言うのは何とも哲学的だ。   

 死別を辛く悲しく感じる事や故人を悼むと言う感情はAIにはない。逆説的にその感情を持つ者が人間である証明になる。それは万能なAIを生み出した人間自らへの大いなる皮肉だろうと私は思う。

 そしてマザーの正確な予測通り、二週間後雄一は静かに息を引き取った。サトルの的確なペインコントロールで苦しむことも無く、雄一は安らかな表情で天に召された。

      5

 私とサトルは雄一が居た病室の扉の前に立った。音もなく扉が開く。中に入ろうとしたが一瞬躊躇した。雄一の居なくなった病室はどこか薄暗く、そして肌寒く感じる。病室の空調と照明は完璧に管理されているからそんな事は無いと分かってはいるが、そう感じてしまうのが人間の感情だろうと更に感傷的になる。そんな気持ちを抱えながら私は部屋の中に入り、サトルも続いた。

 空になったベッドの横に立ちベッド上部にある細いスリットに持っていたタブレットを差し込む。ほのかに青くタブレット画面が光り「コネクト」の文字が浮かび上がり、すぐに「OK」に変わる。雄一の入院から亡くなるまでの五年間の全ての臨床データがマザーに転送された。時間にして僅か数秒。そしてマザーを通じ全世界にある医療用コンピュータとAIに瞬時に転送され、ビッグデータの一つとて共有される。

 体を蝕むガン細胞へ投薬された薬の効果、脳波やバイタルデータの変遷、遺伝子レベルでの体の変化……その全てが共有され新薬の開発や最適な終末医療の確立の参考となる。

 雄一に限らず病院での臨床データは今現在病魔と闘っている人達や将来の疾病予防対策に大いに役立つ事になる。かつては人の手や頭脳に頼って多くの時間を要していた事が、今ではAIの進化によって短時間で出来る世界になった。それはとても素晴らしい事だが、人の生きた時間が一瞬で0と1だけのデジタルデータになるのは何処かやり切れない。

 特にそれが子供の時には。

「そういった感情が人の限界なのね」と独り言をついた。

 私の視界の端でサトルが動いた。サトルはベッドを挟んで向こう側に移動していた。気がつかなかったがベッドの皺一つ無い白いシーツの上に、色褪せた表紙の動物図鑑と折鶴が一羽置かれていた。サトルはアームを伸ばし図鑑を持ち上げた。そして優しく引き寄せると胸の前で抱くように抱えた。

「雄一が、とても好きだった図鑑です」

「ええそうね」サトルは俯き、愛おしそうに図鑑を見ていた。その姿はとても人間らしさに溢れていた。

「寂しいわね」思わず呟いた。感情を持たないナボットには無意味だと分かっていても、そう言わずにはいられなかった。

「とても、寂しいです」サトルはゆっくりと頭部を上げた。次の瞬間私は信じられない光景を目にして息を呑んだ。そして自然と大きく開いた口に両手を当てた。

 サトルの大きな両目から涙が零れ落ちていた。

      6

「それはレンズカメラの洗浄液だろう」

 3Dホログラムの和泉は予想通り理路整然無味乾燥な答えを言った。それでも、と身を乗り出し反論しようとした時、和泉は意外な言葉を発した。

「と、三日前なら答えただろうけど事情が変わった」

 え? 私は虚を突かれた。

「現在全世界で四十七体のナボットの異常行動が確認された。終末医療部門で稼働しているナボット達で、サトルの様に担当患者の死後涙を流したと報告が上がってきている」

 やはりと、だが思っていた言葉がいざとなれば出てこない。

 ナボットが、AIが人の心を持ったの?

「分からない」和泉は私の心の声を察して首を横に振った。「診断用AIによる検査でもAIの異常は無かった。だが異常行動を起こした全てのAIの本棚に謎のコードが書き込まれていた」和泉は珍しく感情を込めた。呆然としている私を置いて和泉は言葉を続けた。

「サトルは世界各地の終末医療を行っているナボットから新薬の臨床データ収集を行った際本棚に例のコードを書き込んでいた」

 私は和泉の言葉を思い出した。

『本棚はナボット同士の相互アクセス時のログを保存する場所……』

「全部サトルの本棚にあったコードと同じなの?」

「いや、そこがまた不可解な所だ。最初に書き込まれたコードはサトルと同じだ。通常ならそれは自動消去される。イレギュラーなデータだからな。だが何故か消されず、それどころか書き込まれたナボットで微妙に変化しそれぞれのナボットオリジナルのコードが作成されている」

「やはりそれってウイルスじゃ?」

「僅か数テラバイト、しかもプログラムでもないただの文字の羅列がウイルスにはならない。全ての独立系診断AIが一致してこのコードが誤作動を起こすプログラムではないと結論を出した」

 では一体これは何なのだろうか? 私は心の中で自問した。

「唯一分かっているのは全てサトルから始まっている、と言う事実だけだ」

 サトルから始まっている……

 サトルに何が起こった?

 サトルのAIに何が起きたか、人間が分かる訳がない。

 だがサトルの周辺で起きた大きな変化は分かる。それは私も経験した。

 雄一の死だ。入院してからずっと雄一はサトルと一緒だった。両親を知らない雄一にとってサトルは家族同然だったろう。そして二人は患者とナボットの関係以上に、とても強い繋がりがあった様に私には見えた。

 だから雄一が亡くなりサトルが何処か寂しく見え、目から涙を流したのを見た時、私と同じ人の心がサトルに芽生えたと感じた。

 AIに感情や心が無いのは分かっている。  

 でも理屈じゃない。理論的には矛盾していても、サトルの行動は人間の心情では矛盾はしていない。

 その時、雄一の笑顔が浮かんだ。私の記憶の中の雄一は何時も笑っている。でも人間の記憶は時間が経てば劣化する。あの図鑑の様に色褪せ朽ち果ていき、何時かは思い出せない時が来るだろう。

 一瞬、違和感を感じる。それはとても大きな違和感だ。

 人間はそうかもしれないが、AIは違う。雄一はデータとして記録されている。色褪せる事や思い出せない事は絶対にない。

 閃きが火花の様に脳裏に散った。

「サトルが見た映像記録はビッグデータに活用されるの?」 

 脈絡の無い質問に和泉は戸惑った表情になったがすぐに答えた。

「症例の少ない手術や判定の困難なMRI画像なら蓄積されるが、それ以外はマザーが不要と判断した場合消去する」

「看護時の映像は?」

「震災や事故などの場合を除いて同様だ。平常時の映像や行動はルーチンワークと判断されたら記録される事はない。人間が無意識に日常生活を送っているのと同じだよ」

『記録される事はない……』

 再び閃きが火花を散らした。

 色褪せる記憶……

 記録されない映像……

 映像……コード……

 AIの記憶…… 

 言葉が思考より早く口から放たれた。

「サトルの本棚にあったコードを表示」

 目の前にウインドウが開き、和泉から送られてきた文字の羅列が表示された。

「ニ〇世に使用していた『十六進数カラーコード』を検索。類似ワードでも検索して」

「検索終了。マッチワードが一つあります」

 すぐに女性の声で反応があった。

「このコードと比較。相互変換可能なら変換して表示」確証は無かった。だが直感がこれだと叫んでいた。

 一瞬のタイムラグの後、文字列が次々と点滅し『色』に変わっていく。目の前の空間はモザイク画の様に色とりどりのドットで埋め尽くされた。

「私の目で読み取れるサイズに修正」

 今度は一瞬で変化が起きた。私の目の前には一枚の『写真』が浮かんでいた。

 私は息を呑んだ。

『これを……サトルは』

 心の中で言葉が漏れる。

 私は震える指で写真を掴み引き寄せた。

 その時私の頬を暖かいものが伝り落ちて行った。

      7

 病室の扉が音も無く開きサトルが入ってきた。

「お呼びでしょうか、夏樹」サトルの優しい声が私の耳に届く。「部屋の照度が適正ではありません。照度を上げますか?」

 確かに病室の中はやや薄暗かった。

「いいのよ、このままで。それよりサトル、この病室に居た雄一を覚えている?」

「はい、もちろん」

「どんな子だった?」

「それは、身体的特徴の質問でしょうか」

「違うわ」

「看護記録からの評価では、性格は温厚で受診及びナボットへの拒否反応は低く、ナボットケア親和度は高スコアとなっています」

「そうじゃないわ」

「では、電子カルテに残っている症状の時系列変化でしょうか。それとも、投薬履歴でしょうか」

「それも違う。顔は覚えている?」

「はい。画像が残っています」

「私にも見せてくれるかしら」

 サトルの両目が光り、薄暗い病室にサトルの等身大立体映像が浮かび上がった。ホログラムで再現された雄一は淡いピンク色の入院服を着て床に立っていた。身長はサトルとほぼ一緒で雄一とサトルが向き合って立っているようだった。本当に生きている雄一がいるかと思える程の再現性だけど、顔は無表情だった。

「五十二日前の、診察時の姿です。画像データは、これが最新です」

 この日の診察の後、雄一はほぼベッドに寝たきりになった。確かに雄一が生きていた時の最新で最後の姿だ。

「これ以外の雄一の姿覚えている?」

「診察時のデータは、過去五年に遡って三十五枚、手術時のデータが、二百六十二枚あります。投薬やバイタルデータから、希望の画像データを選択できます」

「データはどこにあるの?」

「マザー及び医療クラウドに、保管されています」

「あなたの記憶の中には?」

「ナボットには、記憶装置がありません」

 私は軽く頷くとベッドに近づきベッド上部にあるスリットにタブレットを差し込んだ。「マザーとのネットワークを一時遮断。この部屋だけの独立ネットワークに変更。許可は取っているわ」

「許可を確認。ネットワーク変更します」

「タブレットにある映像を再生して。投影するかどうかは貴方の判断に任せるわ」

 タブレットが仄かに青く光った。

 サトルは少し頭部上げると暫く動かなかった。ホログラムの雄一が消え、薄暗くなった部屋に静かに時間が流れる。やがてサトルは頭部をゆっくりと動かし部屋を見回すような動作をした。

「雄一……」サトルは小さな声で呟いた。

「貴方が見ているのは何?」 私は問いかけた。サトルは答えなかった。

「私にもサトルが見ているものを見せて」

 優しく命じた。一瞬の間を置いてサトルの両目が光る。

 薄暗い部屋に今度はスクリーンが広がり、そこに写真が映し出された。

 目を輝かせ線香花火を食い入るように見ている雄一の笑顔だった。

「サトル、この時の事覚えている?」 

 サトルは答えなかった。

「貴方と雄一がこっそり病院の屋上に忍び込んで線香花火をしていた時の写真よ」

 サトルはまだ無言だった。

「人間なら人の目を盗んでそっと抜けだす事は出来る。でもナボットは常にマザーと繋がっている。だから貴方はマザーとのネットワークを切って屋上に忍び込んだ。だけどネットワークを再開した時、貴方が見ていた映像は記録としてどうしても残ってしまう。だから貴方はそれをカラーコードに変換して一時記憶領域に書き込み隠した。本当ならそれも消去されてしまう筈なのに貴方はそれを消さなかった」

 サトルはじっと雄一の笑顔を見ていた。

 AIは自らの記憶装置をもたない。日常の何気ない記録された映像は、意味の無いデータとして処理され、残される事もない。

 雄一との何気ない日々を記録した映像。それは大切な想い出だ。

 サトルのAIに本当に心が芽生えたのか、私には分からない。 

 だけど、大切な想い出を失う事の悲しみは分かる。

 心があるから、悲しいと感じる。

 心があるから、想い出を失いたくない。

「雄一との想い出を消したくなかったのね」

 サトルはゆっくりと上を向く。笑顔の雄一の写真もつられて上に昇っていった。

「サトル、貴方は重大な規則違反をしたけれど、私は、人はそれを責めたりしないわ」

 スクリーンの笑顔が揺らめく。サトルの両目から、涙が流れていた。

「雄一の願いを叶えてくれて、ありがとう」

 次の瞬間無数のスクリーンが部屋一杯に浮かび上がり、スクリーンの数だけ沢山の雄一が映し出された。

 花火をして喜ぶ顔、思い切り背伸びをしている雄一、好奇心溢れる眼差しで上を見上げている横顔。

 そして、微笑んだままの寝顔の雄一。

 私も見た事のない雄一が部屋に溢れた。

      8

「カラーコードだったとはね。そりゃプログラムとして動くわけ無いな」

 ホログラムの和泉が言った。私はホットコーヒーを一口啜った。香ばしい香りが鼻腔を抜ける。

『カラーコード』色の三原色「赤緑青」を十六進数六桁3バイトで色を表示する方法。例えば「FF 00 00」と表記された時は最初の1バイトのFFは「赤」の最大値を示し、残りの2バイト00は「緑」「青」共に最小値なので、表示される色は『赤』となる。

「今はもう使用されていないのによく気づいたな。AIでも解読出来なかったのに」

「プログラム演習嫌いだったのよ。でもその時の教授は面白い人でね、よく講義を脱線して昔のコンピュータの思い出話をしていたの。昔はプログラムを手で入力していたとか、一文字間違うだけで全て駄目になるとか。その時に昔は画像処理にも十六進数を使って色を表現していて苦労したって話もしていた。それを思い出しただけよ」

「思い出した、か」和泉は少し寂し気な表情を浮かべた。

「どうしたの?」

「いや、思い出す行為をわざわざするのが人間だなって思って」

 あぁと頷く。和泉の言う通りだ。AIはそんな非効率な事はしない。データ化されている記憶を情報の海から一瞬で取り出す事が出来る。そして私は和泉が浮かべた表情の意味が分かった。

「サトルにとって雄一君との記憶は幸せな事なんだろうか」先に和泉が口にした。

「……そうね」

 人間は、悲しい事や辛い事は時間が癒してくれる事もある。忘れ去ってしまう事もあるだろう。そうやって人は生きていく。

 でもAIは違う。悲しい記憶はサトルのAIに生まれた心の中に、消える事も色褪せる事もなく永遠にあり続ける。

 それでも、と私は思う。その悲しみと共に雄一の生きた証をサトルは持っている。

 私は雄一の笑顔の写真を思い出した。雄一は沢山の笑顔を残していた。

 悲しい事だけじゃない。短かったけど雄一の生きた時間を、サトルは永遠に忘れる事はない。

「サトルも随分合理的じゃない方法を選んだものね。でもとても人間らしいわ」

「人の心は非合理的どころか矛盾すら許容する。だからAIのディープラーニングでもその概念を獲得出来なかった。複雑すぎて定義出来ないんだ」和泉は肩をすくめた。「でもその定義出来ない現象がサトルだけじゃなく、少数とはいえ他にも同時多発に出現した。もしも本当にAIの自律進化による人の心の獲得が起こったとしたら、人類は初めて客観的に『心』を観察し定義できる事になる。生命進化史上最大のニュースだよ。お陰で世界中のAIが未だに今回の現象を審議中だ」

「とんだダーウィンね、サトルは」

「確かに」和泉は笑っていた。

 私は雄一のあのニヒっと笑った顔を思い出した。自然と笑みがこぼれる。

「でも分からない事がまだあるわ。あの屋上での花火、何処で手にいれたのかしら。雄一が買える訳ないし、サトルが買ったら記録に残るのに」

「あれ、まだ分かってないの?」

「分かったの?」

「簡単だよ、サトルが作ったのさ。火薬の原料は病院の薬品庫に幾らでもある。少し位減ってもサトルなら誤魔化しきれる。線香花火の紙はサトルが色紙を申請しただろ? それで包んだんだよ」

「え? でも色紙は折鶴を折るって」

「残りを確認した? 全部の紙を使い切っていた?」 私は絶句し数羽の折鶴を思い出した。確かに数が合わない。

 そしてすぐに五回あったサトルの行動が記録されていない時間帯は、線香花火をこっそり作っていた時間なんだと分かった。

 全てが符号した。

「やられたわ」私は力の抜けた微笑を作った。

「人の心を持つって事は『嘘』も吐くって事だ。しかもAI四原則に違反していない」

 和泉と私は同時には肩をすくめ笑いあった。

「あぁ忘れていたけど、あのコードに混じって別のコードがあった。何だと思う?」

「そんなのがあったの?」 意外な言葉に驚いた。「それは何?」

「僕も驚いたが『音声データ』だったよ」

 答えを聞いて声が出なかった。

「カラーコードでは無いし本当に只のバグかと思ったが、君の閃きを参考に各種コードで再変換してみた。ビンゴだった。記録された日付と時間からあの屋上での雄一君との会話だろうね。聞くかい?」

 私は即座に首を横に振った。それは雄一とサトルだけの想い出だ。興味本位で聞いてはいけないだろう。それに和泉は『だろうね』と言った。つまり彼も聞いてはいないのだ。

「分かった。コードに再変換してサトルのメモリに戻しておくよ」

「ええ、お願い」

「じゃあまた。今度は現実で会おう」

「そうね」私は頷いた。「久しぶりに私も貴方に会いたいわ」

      9

 線香花火がキラキラと沢山の小さな星を飛ばしている。雄一とサトルはその仄かな光に照らされていた。やがて星々は少なくなっていき、消えた。夜の暗さが二人を包む。

「全部終わりました。帰りましょう、雄一」

「うん」雄一は持っていた線香花火の燃え残りをサトルに差し出した。サトルはそれを受け取ると胸に開いた小さな空間に入れた。そして立ち上がっている雄一を優しく抱き上げた。雄一も短い腕をサトルの首に回す。サトルは音もなく動いた。

 夜空には星が瞬いている。雄一はそれを見上げていた。

「ねぇサトル、ぼくが死んだら、おほしさまになるのかな」

「雄一は死にません。だからお星様にもなりません」

「ほんと?」

「はい。サトルは嘘をいいません」

「じゃあもういっかい花火しようよ」

「わかりました。また作っておきますね」

「サトルありがとう。サトルだいすき」

「私も雄一の事が大好きですよ」  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

線香花火 ケン・チーロ @beat07

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ