ある少年の33の場面

1、海に行きたい

男はたいていその場所にいた

崩れた築地ついじを背に地べたにすわ

歪な十六夜いざよいの月のような

欠けた大皿かわらけ

穴を穿った自作の版で

すごろくに興じていた


さいしょに出会ったとき

相手をしていたのは

うす色のうちきの女で

疲れたから交代してくれ

と通りがかりの彼に

勝手な言葉を投げた


寝床を確保できず

小路をうろうろしていた彼は

まあいいかと

月明かりの下で

男とすごろく版を挟んで

向かい合った


酒だか腐った粥だか

わからない

臭いのする瓶子を

差し出されたが

頭を振って

断った


浮かれ女の風情だが

婀娜っぽさを

まるで感じない女は

立ち去る気配はなく

男と

話を続けていた


こっくりこっくりと

なかば船を漕ぐ

彼の耳に

知らない土地の名前や

知っている土地の名前が

入ってくる


近江のはそりゃあうみだろう

海といえば若狭さ


志摩の奴は海は志摩だと言うだろうし

淡路の奴は海は淡路だと言うだろうし

そんなに故郷の海が懐かしいなら帰ればいいじゃないか


ふん

近江で湖賊になるのもいいかもな


あいつらは凶賊だよ

あんたなんかすぐに魚の餌さ


魚に食われて極楽往生ができるか


極楽ねえ 補陀落渡海じゃあるまいし


補陀落か そりゃあいい


歯を

むき出しにして

男が

笑う意味が

彼には

わからなかった


それから

日を変え

月の明るい晩には

何度か

男と

すごろく版を挟んだ


うす色の袿の女は

いたり

いなかったりで

女がいない晩には

男は

ついぞ無口だった


ある晩やっぱり

寝床に困って

男のところへ行くと

すごろく版は消えていて

粥の腐った匂いのする

どろどろしたものが

倒れた瓶子からこぼれていた


海に行きたい

そう言って

ふらりと消えたのだと

女が教えてくれた

補陀落渡海にでも行ったかねえ

肩をすくめて


男が

故郷の海に戻ったのか

湖賊の餌食となったのか

南の海へと漕ぎ出たのか

彼には

わからなかった

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