第44話 花畑の優しい風

 立ち上がったわたしを見て、黒ドレスさんは目を丸くしていた。水をかけるだけで、わたしを無力化できると信じていたようだ。


 黒ドレスさんはスカートから鉛筆くらい細い棒を五本取り出した。それがバラバラにされた凶器なのはわかっている。


 わたしは走り出した。あの棒が組み上がったら、わたしに勝ち目はない。その前に――翼竜の懐に飛び込む。


 翼竜が本当に助けてくれるかはわからない。けれど翼竜の近くにいれば、黒ドレスさんも手を出しづらいだろう。


(翼竜がわたしを襲いませんように……!)


 坊ちゃんは翼竜が悪者でないと教えてくれた。わたしはそれを信じるだけだ。


 背後に足音が迫るのがわかった。思わず振り返ると、飛び上がる黒ドレスさんの姿が見える。手には組み上げられた棒が握られていた。


(は、早いって……!)


 避けようと思うと同時に、足がもつれた。固い石の上に転んだわたしに、黒ドレスさんが迫ってくる。


(やばっ!)


 わたしはアタッシュケースを盾にするように顔の前に構えた。すると周りが黄色く照らされる。


 黒ドレスさんの棒がわたしをとらえることはなかった。翼竜が黒ドレスさんを爪で薙ぎ払ったのだ。


 翼竜の光る前足がわたしのすぐ右にある。黒ドレスさんの体は右に大きく飛ばされていた。


(え? あれ、もしかして助からないのでは……?)


 思わず、すぐ横にある翼竜の足を見る。それを支える爪はわたしの腕よりも太くて長い。そして先端は岩に食い込むほど尖っていた。人の命など容易く刈り取るだろう。


 そう思っていたら、黒ドレスさんは空中で身をひるがえして両足で着地した。棒もしっかり握ったままだ。


(な、なんで!? あの棒で爪を受け止めたとか? それで壊れないなんて、あの棒は一体何でできてるのよ!? っていうか身体能力が人間じゃないんだけど……)


 わたしは元の世界で遊んでいた、大型モンスターを狩るゲームを思いだした。竜がいる世界では、あれくらい普通なのだろうか。


(たしかにあれくらいできないと、竜なんて倒せないだろうけど……え? もしかして竜倒せるの?)


 もしそうだとしたら、話は変わってくる。


 翼竜がわたしに顔を近づけて来た。


「オウノニオイ……スル……」


「え、話してる場合じゃ……」


 黒ドレスさんが駆け出していた。翼竜が頭をあげると、その下を通ってまっすぐわたしに向かってくる。


(あくまでわたし狙いってこと……!)


 わたしは翼竜の足の後ろに隠れた。翼竜がその足を動かすと、黒ドレスさんの体は宙を舞う。


 黒ドレスさんは空中で体勢を整え、地面に降りると同時にわたしへと向かってくる。


(こっちじゃなくて、竜と戦ってよ……!)


 わたしは翼竜の周りをまわるように逃げた。翼竜がわたしを追うように体を捻る。すると黒ドレスさんの体が地面を転がった。


 黒ドレスさんはすぐに立ち上がり、懲りずにわたしへと向かってくる。


 わたしが尻尾の下をくぐって逃げた。すると尻尾が地面を叩いたあとの振り上げられ、黒ドレスさんを宙へと打ち上げる。


 黒ドレスさんは身をひるがえしたけれど、さっきよりも高く飛ばされたせいか、着地したときに地面を転がった。


 それでも黒ドレスさんは立ち上がる。


 駆け込んでくる速さは一気に落ちた。わたしが走るだけでも逃げられそうだ。それでも、わたしを捉える目から、殺意は消えていない。


 わたしが逃げるまでもなく、黒ドレスさんは翼竜の前足に転がされた。


 もう立つのも精一杯のように見えるのに、黒ドレスさんは立ち上がる。


 そんなこと思っちゃいけないはずなのに、黒ドレスさんがかわいそうに見えてきた。


(なんで? なんでそんなに向かってくるの? わたしをそんなに憎んでるの?)


 黒ドレスさんがやってきたことを知ってしまったわたしが、邪魔なのだろうか。けれどそれは坊ちゃんも知っているし、お屋敷で過ごしている人の中に、気づいている人は少なからずいそうだ。


 他に理由があるとすれば、わたしが坊ちゃんに対して不利益な存在だと、黒ドレスさんは思っているのかもしれない。


 もしかして黒ドレスさんには、わたしが翼竜を操っているように見えているのだろうか。だとすれば、翼竜を使って町を襲おうとしている魔女だと思われても仕方がない。


(どうすればいいんだろう?)


 わたしは黒ドレスさんを許すつもりはない。けれど、黒ドレスさんを殺してしまいたいわけではないのだ。


 どうやったらまっとうに罪を償わせることができるのか――


「――――!」


 聞きなじんだ声が洞窟に響いた。


「坊ちゃん……!」


 駆け込んでくる黒ドレスさんの少し後ろに、坊ちゃんの姿があった。黒ドレスさんの目がわたしからそれて、後ろへと向く。


 ちょうどそのタイミングで、翼竜の爪が黒ドレスさんを弾いた。爪は黒ドレスさんの持つ棒へと当たり、黒ドレスさんを大きく傷つけることはなかった。けれど代わりに、金属の棒が高く打ち上がる。


 わたしの目はそれを追った。ふと目線を下げると、坊ちゃんの姿がある。


 わたしは気が付いたら駆け出していた。坊ちゃんに向かって棒が落ちていっているように感じたのだ。


 悪い予感ばかりよく当たる。わたしはこの世界の神様に嫌われているからだ。


「坊ちゃん! 避けて……!」


 坊ちゃんは状況が呑み込めていないのか、動かなかった。わたしは足がちぎれるんじゃないかと思うくらい、全力で走った。


 坊ちゃんとの距離はすぐに縮まる。頭の上で風切り音が聞こえた。


(落ちてくる!)


 わたしは前に飛んだ。坊ちゃんの体を抱えて、上にかぶさる。


 すぐに聞こえたのは、金属の音ではなく、サイレンを低くしたような鳴き声だった。


 思わず閉じていた目を開くと、周囲が黄色く照らされている。温かい液体が上から流れてきて、それも黄色く光っていた。


(何これ? ケミカルライトの内用液?)


 体を起こすと、すぐ上に大きな尻尾があった。翼竜の尻尾だ。そこに黒ドレスさんの棒が突き刺さっている。光る液体はそこから、血液のように流れ出ていた。


(わたしたちをかばってくれたの……?)


 黒ドレスさんも立ち上がっていた。もうその目から殺意は感じない。呆けたように、わたしたちをじっと見ている。


 尻尾が薙ぎ払われた。無防備だった黒ドレスさんの体は大きく吹き飛び、地面に転がる。


(えっと……助かった?)


 わたしが胸をなでおろすと、翼竜は尻尾を大きく振り上げていた。そのまま下ろせば、ちょうど黒ドレスさんの体がある。


(え? まさか……)


 尻尾が振り下ろされる。わたしはただ、それを見ていることしかできなかった。


「――――!」


 坊ちゃんの声が洞窟に響いた。それと同時に翼竜の動きがぴたりと止まる。尻尾はまだ、地面には届いていない。


 翼竜は坊ちゃんのことをじっと見ていた。その目はやはり無機質な爬虫類の目だけれど、わたしを見たときより穏やかな表情をしているように思えた。


 坊ちゃんが尻尾の方に左手を伸ばし、手招きすると、尻尾が坊ちゃんの近くに寄ってきた。


 坊ちゃんが尻尾によじ登ろうとしたので、わたしは抱き上げて手伝ってあげた。尻尾に上がった坊ちゃんは、突き刺さっている棒を両手で握る。


 坊ちゃんは棒を引き抜こうとしているみたいだけれど、深く突き刺さっているのか、なかなか抜けそうにない。


「わたしも……」


 手伝おうと思って手を伸ばしたけれど、届かなかった。


 坊ちゃんはその手を掴んだ。そして引っ張ってくれたので、わたしは地面を蹴って尻尾にまたがった。


 わたしも突き刺さっている棒を掴む。


「せーのっ……」


 掛け声をかけたけれど、タイミングは合わなかった。けれど力を入れ続けると、ゆっくりと棒が動き始める。一度動き始めると、引き抜くのにそんなに力はいらなかった。


 棒を引き抜くと、光る血が水鉄砲のように吹き出す。けれど数秒もすると勢いは納まり、染み出る程度になった。翼竜からすると大した出血ではないのか、あまり気にしている様子はない。


 わたしと坊ちゃんが尻尾から降りると、翼竜は坊ちゃんに頭を寄せた。


「オウ……ブジ……ヨカッタ」


 翼竜は坊ちゃんに口の上を撫でられ、心地よさそうに目を細めた。


 翼竜がそのまま頭を下げると、坊ちゃんはそのすぐ後ろにまたがった。そしてわたしに手を伸ばす。


(え? 乗れってこと?)


 わたしが坊ちゃんの手を掴むと、引っ張られたので間違いない。引かれるがままにすると坊ちゃんの前に座ってしまいそうだったので、少しだけ抵抗して後ろ側にまたがった。


(前に座ったら、坊ちゃんが前を見れなくなっちゃう)


 翼竜は頭を上げないようにして歩き、黒ドレスさんを咥えた。そして大きな翼で羽ばたき始める。


 台風を思わせる強い風に、スカートがめくり上がった。けれど、そんなことを気にしている場合ではない。風にあおられて落ちてしまわないよう、坊ちゃんを抱え込むようにして、翼竜の首裏のたてがみにしがみついた。


 地面はあっという間に離れていく。黄色の玉が転がっている地面は、都会で見える味気ない夜空に似ていた。


 風の流れが変わったのが、わたしにもわかった。暗かっただけの視界が本物の星空に変わる。


 空以外は真っ暗でよく見えなかったけれど、わたしたちが出てきた場所は小さな山の上のようだ。


 翼竜の羽ばたく回数が減る。長く重たい髪をなびかせる風が前から吹き、翼竜が滑空するように飛び始めたのだとわかった。


 地面が近くなってくると、翼竜の光る体に照らされて周りが見えるようになってきた。正面に見えるのは、三角屋根が三つ連なった大きなお屋敷だ。


(わたしたちのいたお屋敷だよね?)


 お屋敷の外を囲む花畑も、翼竜の体に照らされて、黄色く光っているように見える。


(あれ? 照らされてるだけじゃない? これ、もしかして……)


 翼竜に触発されたように、花自体が光っていた。最初は翼竜の近くだけだったけれど、そこから光はどんどん広がっていく。


 あっという間に、一面の花畑が黄色く輝き始めた。まるで光る絨毯のようだ。


 翼竜が強く羽ばたくと、花畑から光の粒子が舞った。一気に周囲が明るくなる。


(うわ、すごくきれい……)


 翼竜は花畑の中にわたしたちを降ろすと、光の粒子の中を泳ぐように飛び回った。その美しくも恐ろしい光景は、まさにここが異世界なのだと、改めてわたしに教えてくれた。

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