第8話 湖に住む化け物

 目の前に湖が広がっていた。水は澄んでいて、湖底で水草が揺られているのがよく見える。広さは野球場くらいだろうか。


 湖の周りもやっぱり森だったけれど、歩いてきた道と同じくらいの幅だけ、木が生えていない。代わりに背の低い草花が湖を縁取っていた。


 思わずため息が出るくらい綺麗な場所だったけれど、ただそれだけだ。


 女の子の体が濡れていたわけでもない。事件とは関係ないように思える。


 お巡りさんは水面を指さし、腕をこするような動きをした。


(犯人が返り血を洗い落としたってこと?)


 確かに血まみれで集落に戻るのはリスキーすぎる。


(でも足跡もなかったし、犯人がここに来た可能性は低そう。来てたとしても、体を洗っただけなら証拠とかもなさそうだし)


 お巡りさんはわたしを指さしてから、もう一度腕を洗うような仕草をした。そしてお巡りさん自身を指さしてから、両手で目を隠す。


「わ、わたし……?」


 わたしはここに来たことはない。


(あ、もしかして、わたしにここで体を洗えってこと? 目を隠したのは、お巡りさんは見ないよって意味かな?)


 身振りでそれを伝えようとすると、ただお巡りさんの真似をしただけのようになってしまった。


 お巡りさんはうなずいたけれど、同じような動きをしたのだから当然だ。正しく伝わっているかどうかなんてわからない。


(得意げだったのは、わたしが喜ぶと思っていたからなのかな?)


 お巡りさんはここに泉があるのを知っていたのだろう。そして事件のためでなく、わたしのためにここまで連れてきた。


(もしくは、お前臭いよというメッセージか)


 だとすれば許されることじゃない。


(でも……)


 来た道を指さした。


「の、覗かないのもそうだけど……誰かこないか、見張っててほしい……」


 お巡りさんは親指を立ててうなずいた。正直不安ではあったけれど、昨日から汗だくなのに、お風呂に一度も入っていない。


(このチャンスは逃せない)


 お巡りさんが道に戻ったのを確認してから、少し歩いて背の低い草が多い場所にアタッシュケースを寝かせた。さっきの道からは三十歩くらい離れている。草木に隠れてお巡りさんの姿も見えないし、道から見えることもないだろう。


(まさか外で服を脱ぐことになるなんて……)


 とりあえずジャージのチャックに手をかけて、一番下に降ろす。中にTシャツを着ていたけれど、森の中特有の冷たい空気が体に触れるのは、十分に感じた。


(まだ服着てるのに、なんかスースーする)


 一回だけ深呼吸をして、一気にTシャツを脱いだ。一度脱いでしまったらなんてことない――というわけにはいかず、普段なら感じないようなわずかな風に脇腹を撫でられて、思わずジャージとTシャツを抱きしめた。


(やばい。すごい外気を感じて恥ずかしいんだけど。お風呂場とは全然違う)


 思わず、道の方に誰もいないのを確認した。


 時間をかけ過ぎると、お巡りさんが様子を見に来てしまうかもしれない。覚悟決めてズボンを下ろした。


「あっ……」


 膝まで下ろしたところで、ブーツが邪魔なことに気づいた。ズボンを戻さずにブーツの紐を解こうと、そのまま手を伸ばす。


「わっ……!」


 バランスを崩して、思いっきり尻もちをついた。湿った草の冷たさに少しびっくりしたけれど、柔らかくて痛くはない。


(むしろちょっと気持ちいいかも)


 緑の絨毯に座ったまま紐を解いて、ブーツを脱いだ。そのまま靴下とズボンも脱いで、上のジャージと一緒に丸めて、寝かせたアタッシュケースに載せる。


 あとは最後の砦。下着だけだ。安物だけどスポーツタイプで綿製のそれは、抜群の付け心地でわたしの貧相な体を守っている。


 濃いグレーに汗の塩がかなり目立っていた。


(よし、いこう)


 湖に近づき水面を見据え、下着を脱ぎ捨てて飛び込んだ。


 直接水に体を撫でられて、なんだかくすぐったい。思ったより冷たくはなかった。それでも体にこもった熱が外に出ていくような感覚はある。


 底近くまで体を沈めてから水面に頭を出すと、脳の中まで洗われたかのようにスッキリした。


「程よい……」


 今日は――というかこっちの世界はそんなに暑くないから、動いて火照った分だけ冷やしてくれるこの湖は心地よかった。


 水で顔をこするだけで、体を覆っていた重しが流れ落ちた気分になる。わたしが飛び込んだにも関わらず、水はエメラルドみたいに澄んだままだった。


(すごいいい場所。足跡が全然なかったってことは、他の人はあまり来ないみたいだけど、なんだかもったいない)


 と、ここで気づいた。


(足跡がないってことは、お巡りさんも来たことがないってことなんじゃ? 来たことはあったけど、ずっと前だったから足跡が消えてたのかな?)


 そういえばここに来てから、事件発生後の足跡しか見ていない気がする。


(いや。広場からのわたしの足跡も見たから、正確にはわたしがこっちの世界に来てからの足跡かな)


 ちょうどわたしが来る少し前に、大雨のような、足跡が消えてしまうようなことが起きたのだろうか。


(もしくは、わたしが来るまで、この世界が存在していなかったか)


 水が一気に冷たくなった気がした。少し長く浸かりすぎたみたいだ。


 水から上がると少し頭が重かった。


 アタッシュケースに置いた服に手を伸ばして、わたしは動きが止めた。指先から雫が落ちたからだ。


(タオルないじゃん……!)


 このままでは服を着れない。お巡りさんが気を利かせてタオルを用意――なんて期待するだけ無駄だろう。


(よく考えたら着る服も、汗を吸った元のシャツとジャージじゃん)


 綺麗にした足で土の上を歩くような気分だ。ただこればかりは仕方ない。


(せめて体が乾くまで待つか……)


 軽く体の水を払って、髪を絞る。


 背中にまで達するこの長い髪がやっかいで、光沢がなくてみすぼらしいくせに、水をやたらよく吸う。水から出たときに頭が重かったのはこいつのせいだ。


 毛量の多さも相まって、そう簡単には乾かない。頭からかぶらないと着れないTシャツは、がっつり湿ってしまうだろう。


 (一番汗を吸ってそうだし、ここでTシャツを洗って、直接ジャージを羽織ろうかな。下着も洗いたいところだけど……)


 シンデレラバストなおかげで、正直ブラはつけなくても、まぁ何とかなる。ノーパンは抵抗があるけれど、今の全裸になった勢いを利用すれば、なんとかなるかもしれない。


(擦れるだろうし、スースーするだろうけど、今を逃したら次がいつになるかわからないし)


 思い切ってTシャツと下着を握りしめて、湖のすぐそばにしゃがんだ。


 水の中にTシャツを突っ込んで、両手でこすり合わせていく。洗剤はないけれど、これだけでもだいぶ違うはずだ。


 汗なのか水なのかわからないものが腕を伝い、くすぐったい。それを払い落としてから、Tシャツを絞った。


(あ、これもしかして)


 絞ったTシャツで濡れた腕を拭いてみると、ひんやりして気持ちよかった。拭いた後はほんのり湿っていたけれど、ビショビショよりかはずいぶんとマシだ。


 同じように体全体を拭き切ってから、もう一度Tシャツを洗った。


 このときに髪も拭いたのだけれど、こればかりは焼け石に水――というと水分がとんだみたいに聞こえるけれど、拭いても全く水を吸えた気がしない。


(どうせTシャツはすぐには着ないし、とりあえず髪は乾かなくてもいいか)


 下着も洗ってアタッシュケースのところに戻る。目の高さに枝が張っているのが見えたので、Tシャツと下着を引っ掛けた。これで少しは早く乾くだろう。


 Tシャツから落ちた水滴を目で追うと、水色にも紫色にも見える花があった。草原と森のちょうど間に咲いていて、手で握れてしまうほどの大きさだ。


 小さなチューリップを二枚の花びらが覆っているような見ためで、なかなか可愛らしい。菜の花のような茎に細い葉がついていて、背の高さはタンポポの倍くらいだろうか。


 湖の周りには、他にもタンポポみたいな花やオドリコソウのようなものはいくつも咲いていたけれど、なぜだか、その花だけがやたらと目についた。


(なんだろう。不思議だけど綺麗な花。女の子の手向けの花くらいにはなるかな)


 その花に手を伸ばす。


「――!」


 野太い声が響いた。


 花に触れるか触れないかくらいのところで手を止める。森の奥に目を向けると、大きな影がこちらに向かってきていた。熊にも見えるけれど、それは完全な二足歩行で、茂みなどをものともせずにまっすぐ進んでくる。


(ちょっ……!)


 脳裏にモンスターという言葉がよぎる。


(に、逃げないと!)


 そう思ったのに、腰が抜けてしまったのか体が動かない。奮い立たせている暇もなく、影が目の前まで迫り腕をつかんだ。


「ぎゅああっぁぁぁ!」


 ブサイクな悲鳴を上げるのが、わたしにできるただひとつの抵抗だった。


「――!」


 影が野太い声で何か言う。光が当たって見えたその姿は、事件があったときに小屋の前に集まっていた一人――毛皮のチョッキを着た、木こり風のおじさんだった。


(まさか、この人が犯人⁉)


 そう思った途端に、掴まれている右腕に力が入らなくなった。


 いや、力だけではない。まるで右腕がなくなってしまったかのように、感覚がなかった。


(骨でも折れ――)


 右腕の喪失感は一瞬にして体全体に広がって、全身の感覚がなくなる。ものを考えることすらできないくらい視界が回って、吐き気を覚える暇すらなく――


 わたしは眠りについた。

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