【合意 ②】命とはそういうものだ。
廃ホテルに通じる道は一本しかない。生者の手による整備は一切されず、木々や草に蹂躙されるがままに放置された細い山道。もちろん街灯などなく、かつて敷かれていたアスファルトもあちこちに亀裂が入り、一部は木の根が掘り返してすらいる。
生者が来るところではない。定期的に建物の管理を行なうために作業着の男たちが訪れる他、わざわざ太陽が沈み、肝試しと称して廃ホテルを荒らしにくる若者たちが、月に一度や二度、姿を現すだけだ。
今回もそう。
細く荒れた道を慎重に白いバンが進んできた。そして廃ホテルの前に車をとめ、四人の若者が降りてきたのであった。数は四人。男が二人に、女が二人。年の頃は二十代前半といったところか。
夜の森には沈黙が満ちている。風に揺れる木々が時折ざわめく他、夜行性の獣が草木を掻き分けながら餌を探す。沈黙こそ日常。生きた人間が足を踏み入れるべき場ではない。この廃ホテル周辺においては、特に。
若者の集団は車の前で段取りでも組んでいるのか、しばらく言葉を交わした後に、懐中電灯を手に取り建物に入り込もうとこちらに向かってきた。光源は二つ。男がそれぞれ手に持ち、足元や周囲を忙しなく照らしながら近づいてくる。
そんな彼らをガラスが破れ剥き出しになった窓枠から身を乗り出して逐一観察し、自らの領域に入り込んだ存在へ剝き出しの敵意と害意を向けながら、そっと口を開く。
――憎たらしい。私の領域へ勝手に入って。
ホテルはこうした若者たちによって荒らされている。彼らは建物を傷付け、ごみをまき散らし、壁にスプレーで落書きをする。
かつてこの建物で余暇を過ごすために多くの生者が蟄居した痕跡など、もはやどこにもない。年月の経過と共に過去は失われ、あったものはなかった事に、ないところには荒廃が蓄積され、過去の残滓を吞み込んでいく。
何人も、何人も。人が人を呼び噂が広がり、ホテルを荒らし回って去っていく。
そのたびに呪詛の言葉を投げ、訪れた者が悲惨な末路を辿るよう、出来る限りの努力をしてきた。それでも愚かな生者は姿を現す。
――殺してやる。わたしの領域に入ったモノはみんな殺してやる。
「あー、はいはい。わかったわかった。わかったから、ちょっとうるさいよ」
応じるモノのいるはずのない独り言のつもりだった。
いつの間に? あり得ない。空気の揺らぎや気配はなかった。
顔を上げ、声の主へ顔を向ける。
――あんた何よ。
「俺? 俺は地縛霊かな。もしくは神かもしれない」
そう応じた男は青い着物に身を包み、足元には下駄をつっかけていた。年の頃は十代半ばとも二十代中盤と言われても納得しそうな、幼さと陰りが共存した顔つきだ。
敵意は感じない。男は壁際に置かれ、あちこちが破れカビだらけになっているベッドに腰をかけ、足をぶらぶらと揺らしている。手にはどこでどこかで拾ってきたであろう鉄のパイプが握られており、頭上でぶらぶらと揺らしていた。
久方ぶりに別のモノと言葉を交わす。相手が何モノか判然としない為、慎重に言葉を選んだ。敵か、もしくはそれ以外か。この領域を荒らしにきたのか、わたしの存在を消しにきたのか。いずれにしろ、この場にいるモノは異質である。
若者の集団に意識を向けつつ、男に向き直る。こちらの存在を知覚し、意志の疎通が出来る。生きている者ではない。
少しだけ拍子抜けしつつも、警戒を緩めずに口を開く。
――地縛霊が好き勝手に出歩けるわけがないでしょ。
「じゃあ神かもしれない」
――何しに来たのよ。
「俺のツレがさ、友達の肝試しに駆り出されてしまって。それで心配だからついて来た。そしたらお前が天井に貼り付いて、殺してやる、って呟いていたわけだ。こりゃ大変と慌てて来てみたらお前がいた。それだけだよ」
何がおかしいのか、男はにやにやと笑みを浮かべながら、口を開く。
――あんたが憑いているのはどのガキよ。
「あれだよ」着物の男は先頭を歩く少女を指す。「かわいそうに霊感があるからとかで、先頭を歩かされている。本当はここにも来たくなかったんだ」
少女は周囲に視線を走らせながら、慎重に一歩、そしてまた一歩と歩を進めている。背後で騒いでいる他の若者たちが喧しい声で騒ぐ中、一人だけ会話に加わることもなく、声に背中を押されるように歩かされていた。
顔は絵になるほどに引きつり、今にも過呼吸で倒れそうな程の恐怖が貼り付いている。グループの中、一人だけ浮いているのは明らかであった。
怖い。帰りたい。なんでわたしが。そんな彼女の思いが伝わってくる。
若者の集団は廃ホテルの正面玄関から足を踏み入れた。
二人も彼らを追って移動する。集団は無意味に大きな声で場の空気を荒らしつつ、足元に転がるごみを乱暴に蹴とばしながら奥へ奥へと進む。
「あの子は大学で霊感があるとちょっと噂になっちゃって」男はいう。「本当はそんなものないのに。それで、大して仲良くない連中に無理やり連れ出されてしまったというわけ」
――あんたは守護しているわけ?
「いや? ただ一緒にいるだけ」
――あの小娘の先祖か何か?
うーん、と顎に手を当てながら男は応じる。
「それがわからないんだよね。もしかしたらそうかもしれない。気が付いたらあいつのそばにいて、離れられなくなっている。愛着といえるかも。良い意味で」
――あの連中を早く帰らせなさいよ。
「それは難しい。俺は神かもしれないけど、生者を説得することはできない。言葉がね、通じないんだ。同じ日本語を喋っているはずなのに、いつも無視される」
――それはあいつらにあんたを知覚する能力がないからでしょ。あの中には霊感が少しでもある奴はいないの?
「ちょっとわからない。俺はあいつらの事はほとんど知らない。知っているのは、あのバカな連中のせいで詩織が割を食っているということ」
それはそうだろう。霊感がわずかでもあれば、天井から見下ろす存在を認識までいかなくとも、感覚的に把握できるはずだ。肉体を失った死者の感情は剥き出しで限度を知らない。
これまで廃ホテルを訪れた生者の中には、わたしの存在や感情に気が付き、尻尾を巻いて逃げ帰った者も多い。
わずかでも霊感があれば無意識でも存在に気付く。特に幽霊と呼ばれる存在の感情が強いほどに、それは顕著になる。
――仮にわたしがあいつらを殺したら怒る?
「え、なんで俺が? 好きにしろよ。お前の勝手だ。俺には関係ないね」
――あの小娘もろともよ?
「それは困る。殺すならば、詩織以外だね」
どうやらこの男が憑いている小娘は詩織というらしい。
――そんなのわたしには関係ないじゃない。勝手に入ってきたほうが悪い。
「こっちにも都合があるんだって。むしろ詩織は被害者だぜ? 無理やり連れてこられたんだから。多少なりとも同情してくれてもいいんじゃないかな」
――余地はないわ。
「ケチだな。他の奴らは好きにしろと言っているのに。聞いた話では、ここに訪れた者を血走った目で睨みつけながら追いかけて、このホテルに引きずり込んでから殺すらしいな」
――なによ、それ。誰から聞いたのよ。
「あと、黄緑色のワンピースを着ているとも聞いた」
――それは合っているわね。というか、誰から聞いたのよ、その話。
「噂だよ。この話、本当なのか?」
――そんなこと、したことない。
「まあ、ただの噂だからな」というよりもさ、と男は言葉を続ける。「勝手に入ってきたとか言うけど、ここはお前が所有する物件なのか? この廃ホテルを運営していたのか?」
――そうじゃない。ここで死んだのよ。
「だったらここはお前の居場所じゃない。勝手に入ってきたとか、お門違いもいいところだ。むしろお前が出ていくべきじゃないか」
――うるさいわね。もう三十年もここにいるのよ。わたしの居場所だ。
「違うね。土地の権利書を持っている人間の所有地だ。お前は不法占拠している」
――そんなこと死んでいるわたしには関係ないわよ。
「関係あるね。世の中には道理というものがある。誰かが規則をつくって、みんなが守っているならばお前も守らなければならない。俺なんて信号無視をしたことがないんだぜ」
――幽霊のくせに。
「幽霊でもだ。もしくは神だってそうだ」
――でもそれをいうなら、あいつらは不法侵入ね。
「そうだな」
――規則を守っていない。
「その通りだ」
――だったら、全員殺しても問題ないわね。
「それはお前の自由だ。でも、詩織はだめだ」
――世の中には道理というものがあるのよ。規則は守るべきね。
「規則なんて破るためにあるものだ。誰も規則を破らなかったら規則の意味がない」
――あんた、自分勝手と言われたことない?
「たまに。でも、めげない」
――わたしが何をしようと、あんたは口出ししないでよね。
「しないよ。詩織に手を出すなら話は別だけど。あと、詩織のすぐ後ろを歩いている若い男がいるだろう? 馬鹿に派手な色の髪の毛をしている奴。あいつは車を運転するから、あいつにも手を出さないでくれよ。でなきゃ俺や詩織は足元が悪くて暗い山道を歩いて帰らなければならなくなる。殺すなら詩織を家に送った後だな」
――知らないわよ。
こいつは車に乗ってやって来たのか。そんな意味のないことを考えながら、着物の男の顔を睨みつける。涼しい顔を崩さないのが気に食わない。
若者の集団は奥へと歩を進める。先頭を歩く詩織という少女は、時折背中を押されながら、重い足取りで先へ進む。
劣化が進み、梁や配管がむき出しになった天井から、彼らを監視しながら追う。目を離さず、自らの場をわずかでも荒らす瞬間を見逃さないように。
「なあ、お前はどうしてここに居続けるんだ?」男が欠伸まじりに尋ねてきた。
――あんたには関係ないこと。
若者の集団から目を離さずに、応じる。
邪魔をするなと言外に態度で伝えたつもりだが、気が付かないのか、気が付いても自身には無関係と断じているのか、あるいはからかっているのか。
「そんなこと言わずに言葉のキャッチボールをしようぜ」男はいう。「こんな暗くて何もないところで天井に這いつくばって、お前は暇じゃないのか?」
――忙しいのだけど。
「俺は暇なんだ」
――だったら詩織とかいう小娘を守ってやりなさいよ。
そう言っている間に、詩織が廊下に落ちていた鉄の配管を蹴ってしまった。建物全体に金属音が響き渡る。甲高い音が乱反射し、余韻を残しながら終息していく。
内容のない言葉を吐き出し続けていた集団から、言葉が消える。
音が消滅し、本来この場にあるべき沈黙が戻ってきた。周辺を忙しなく照らしていた懐中電灯の明かりも、床の一点を指して動かなくなる。
――あら?
「ん? どうした?」
――あんたの小娘が配管を蹴ったみたいね。
「ここはボロボロだからな。足元が危なくて仕方ない。怪我がないといいけど」と口を開く男の声音からは、心配や不安、気遣いというものがまるで感じられない。
こいつは本当に詩織という小娘を守っているのだろうか。本当に守護霊なのか。疑問がとめどなく沸いてくるが、すべては自らに無関係なこと。
考えるだけ無駄である。
『おい、何があった?』詩織のすぐ後ろを歩く金髪の男が強張った声を発する。
『わからない』そう応じたのは、最後尾で恋人と思しき男の腕を両腕で抱えながら歩いていた、露出の多い衣服の女だ。『誰か、何かした?』
『いや、わからない』女に腕を抱えられている男が応じる。
『おい、詩織。何か感じるか?』
『わからない』先頭を歩く詩織は震える声で言った。
――あんたの小娘は嘘つきね。
配管を蹴った感触は間違いなく足の先にあるはずで、自らが原因なのだと理解しているはず。それでも詩織は首を横に振った。
「いい気味だ」男は笑みを浮かべながらいう。「少しくらいビビらせてやれ」
『何か霊の気配は感じないのか?』
懐中電灯で周囲を目まぐるしく照らしながら、金髪の男はいった。
『わからない。言ったでしょ。わたしには霊感なんてないの』
『そんなはずはないでしょ。大学でも噂になっているんだから。あんたといれば霊に会えるし、危険が迫っても加護で護ってもらえるって』最後尾の女がいった。
――加護だって。
思わず笑いがこみ上がる。
「俺にそんな力はないはずなのだけど」男は首をかしげた。
――守護霊の自覚あるの?
「だから、俺はそんなんじゃないって。守護霊はもっと真面目で執着心の強い面倒な奴がなるものだよ。俺の知っている奴で、もはやストーカーと呼べるまでに対象者に執着している奴もいるぜ。どこへ行くのも一緒。他の幽霊がちょっかいを出そうものなら鬼のように怒りをまき散らす、性質の悪い奴だ」
――なら、あんたもストーカーじゃない。
「違うね。俺はあくまで一緒にいるだけだ」
こんな男にストーカーされている詩織という小娘に思わず同情する。わたしだったら同じ時間を一時間も共有するだけで、発狂しそうだ。
「ところで、お前にとってこのホテルは大切な場所なのか?」
――わすれた。
と、ぶっきらぼうに応じた。こんな奴に話す必要はない。そもそも初見の存在に胸襟を開いて自らを語れるほどの過去はない。
しかし男は訳知り顔で「わかる」とうなずいた。「幽霊になるとさ、なんか記憶が掠れてくるよな。俺なんて、昨日の夕飯に何を食べたのか思い出せないくらいだ」
――あんたが死んだ時期は知らないけど、少なくとも昨晩に夕飯は食べなかったはずよ。
「なんでそんなことがわかる」
――あんたは死んでいるから。食事は生者が命を維持する手段よ。
「言われてみれば、そうだな」
――死んだら終わりなのよ。
「終わらないことだって、あるかもしれないぜ。でなきゃ、寂しいじゃないか」
何が寂しいという。すべてのモノは年月の経過と共に失われる。ヒトも、モノも。記憶や歴史として世の中に有り続けるのはごくわずか。ほとんどの存在は、存在したことすら忘却され、痕跡すら残らない。
少なくとも、と男は口を開く。「俺たちは死んだ後にこうして出会って、退屈しのぎに会話をしている。死んでも失われてなかったな」
詭弁だ。幽霊と呼ばれる存在に価値はない。何も残せない。
命とはそういうものだ。
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