ウエの人
吉野飛鳥
【合意 ①】だからお前には友達がいないんだ。
深夜の高速道路。規則的に並ぶ橙の街灯が次々と後方に流れていく。
大型のトラックが他に車がいない事をいいことに、追越車線を烈風のように駆け抜けた。
右のウィンカーをつけ、走行車線から追越車線に移動する。トラックの真後ろにつき、アクセルを踏む右足に力を入れた。
すでに速度は百キロをゆうに越えていたが、トラックとの距離は開く。
「あとどのくらいで着くの?」後部座席に座る由美が口を開く。
カーナビを横目で確認し「一時間もしない程度かな」と俊介は応じた。
すでにトラックとは追い付くのは困難である。アクセスを少しだけ緩め、走行車線に移動した。
「けっこうあるな」由美の隣に腰を据える達也が口を挟んだ。
口中で小さく舌打ちをしながら「もう県内には入ったよ」と応じる。「高速を降りてからのが大変だと思う。ネットで確認したら、道なき道って感じだったし」
「お前、運転大丈夫か?」
「大きなお世話だよ」
「今、何時?」由美が言う。
「一時だね。もう夜中だ」
「じゃあ、到着したら肝試しにはうってつけの時間だ。なんだっけ。夜中の二時の肝試しタイム」
「丑の刻?」
「そう、それ。藁人形を木に打つやつ。幽霊が活動的になる時間帯でしょ、確か」
「つまり幽霊に憑かれる可能性が高い時間帯ということか」達也が楽しげに言う。
「大丈夫だよ。うちらには加護があるから」言いながら、俊介は隣の助手席に座る詩織へと目を向けた。「詩織が幽霊を見たら、ダッシュで逃げればいい」
車に乗ってからというもの、詩織は一度も口を開かず、膝の上で硬く結ばれた自分の拳を見つめている。何かに耐えるように、意識を閉じてさえいるように見えた。
「ねえ、詩織ちゃん」由美が運転席と助手席の隙間から身を乗り出してきた。
甘ったるい香水の匂いが鼻孔に絡みついた。露出した肩が俊也の腕に触れる。山中の肝試しスポットに行くというのに露出が多い。左腕に触れる彼女の素肌の感触を極力気にしないよう、視線を前方に向けてハンドルを握る手に力を込める。
「今まで、どんな幽霊と遭遇してきたの?」
「したことない」ぼそりと、絞り出すような声で、詩織は顔も上げずに応じる。
「嘘だよ。大学でも有名だよ。霊感があるとか、強力な守護霊がついているとか」
「そんなの、わからない。わたしは今まで、一度も幽霊を見たことがない」
「ああ、そう」興味を無くしたように、由美は後部座席に戻った。
暗い奴。俊介は車に乗って何度目かの舌打ちをした。教室内で同じ選択授業を受けているだけという間柄で、同じサークルや部活に所属しておらず、顔は知っていても言葉を交わしたことはおろか、ついこの間まで名前すら知らなかった。いつも教室の前の方で一人、黙々と授業を受け、チャイムが鳴れば退出している。友人と一緒にいるところなど見たことがなく、大学内で交友関係など築けていないのだろう。
本来ならば交わることのない関係であるし、彼女のような暗い性格の者とも積極的に関わることはない。俊介や由美、達也が所属するバドミントンサークルには彼女のような性格の者はいないし、大学入学と共に入部したところでサークルの空気に馴染めずに抜けていくのが常であった。
バドミントンサークルと学事課には届けを提出しているが、一度もラケットを握ったことがない者も珍しくなく、飲み会ばかり開催しているサークルに馴染むためには、コミュニケーション力は必須である。俊介はサークル内でも中心人物と自負している。自分がいなければサークルは回らない、とすら考えていた。
「なあ、本当に大丈夫なんだろうな?」達也が口を開く。
「怖いのか?」俊介はいった。「彼女の前でいいカッコしなきゃいけないのに」
「そうじゃねえよ。ちょっと強引に詩織を連れ出したことだ」
「え? 大丈夫だよ」と応じたのは由美だ。「だって合意してくれたし、待ち合わせ場所にも来てくれて、車にも乗ってくれたし」
肝試しに行くから一緒に行かないか。詩織にそう声を掛けたのは、俊介だった。
詳細は知らないが、大学内で度々発生していたポルターガイスト現象を解決したとかで、一部の学生の間で知られるようになっていた。その噂を聞きつけた由美が今回の肝試しを企画し、彼氏の達也と共に俊介に声を掛け、車を出すこととなった。
教室内でも目立つ金髪の俊介が、地味で友人のいない詩織に授業が終わるタイミングを見計らって声を掛ける。ほとんどの学生たちは興味もなく一瞥すらくれないが、中には物珍しげに視線を向けてくる者もおり居心地の悪さを感じたが、由美に頼まれたとあっては誘えませんでしたとは言えなかった。
「肝試しに行かないか?」たしか、そう声をかけた気がする。
「え?」
詩織は訝しげに眉間に皺を寄せ、顔を上げる。喉の奥から絞り出すような声。久しく声を発していなかったのだろうか。
構わずに俊介は続ける。「だから、肝試し。お前、霊感があるんだろ?」
「そんなの、ない」
詩織の警戒が一気に高まったのがわかった。
仮に、と考える。仮に立場が逆であれば、俊介とて警戒する。警戒するし、場合によっては手を出すだろう。だがそれは俊介であって、詩織ではない。大学内に友人もおらず孤独に授業を受け、サークルにも所属していない詩織に反論は許されない。
俊介はかまわずに言葉を続けた。
「守護霊がいるとも聞いてる」
「だから、ないってば」
「肝試し、行くぞ」
「行かない」
「お前が来なきゃ始まらないんだって」
「何も始める気はない」言いつつ、詩織は鞄を持って背中を向けて退出しようと足を踏み出しかけたが、「待てよ」と俊介に腕を掴まれて足を止める。
「いいじゃないか、ちょっとくらい。お前、友達いないんだろ?」
「だから何さ」
「たまには学生生活らしいことをしようぜ」
そして当日、つまりはほんの一時間半前に、由美がどこからか仕入れた詩織の住所をカーナビに入力し、家の前に車を止め、インターフォンを押した。
こいつは何を考えているのだろう。横目で詩織へ視線を向けるが、俊介にわかるはずもない。車に乗ったということは、由美の言う通り合意したと認識して良いのだろう。もしかしたら友達が欲しかったのかもしれない。だから口先では拒絶をしながらも付いて来た。そうだ、きっとそうに違いない。
バックミラー越しに、後部座席で達也の手を握っている由美の姿を一瞥する。
カーナビの案内に従って高速道路を降りる。日中は交通量が多いであろう国道に出たが、深夜は他に車の姿はない。信号で止まっても歩行者などいるはずもなく、人の気配を感じるとすれば、夜中でも煌々と明かりを灯しているコンビニくらいだ。
やがて国道を逸れて脇道に入る。街灯の数も減り、民家が立ち並ぶ片側一車線の県道を進む。頼りは運転席と助手席の間にあるカーナビのみ。
「なんか雰囲気が出てきたね」由美がいった。「いかにも、って感じ」とは言うものの、その声に緊張や不安はなく、どこか楽しげでさえある。
彼女にはハンドルを握る者の緊張や不安は伝わらない。
「山も増えてきた」達也が応じる。
いつしか車は山の中へと踏み込んでいた。カーナビに表示される道路は曲がりくねった脇道のない一本道である。むろん街灯などあるはずもなく、車のライトがなければ自らの手すらも視認できない闇で満ちていた。
ハンドルを握る手に力が入る。アスファルトのあちこちに亀裂が入り、ところによっては大きな岩が落ちている。古ぼけたガードレールはあるものの、右側は崖となっており、わずかでも運転を誤れば転落の憂き目に遭うだろう。普段は人通りなどあるはずのない道だ。発見されるまで何日もかかるだろう。
木々が奔放に伸ばした枝葉は、道路上にも迫り出している。枝がフロントガラスを打ち、ピシリと音を立てた。
カーナビの表示では、この山道を三十分ほど進んだ先に目的の廃ホテルがあるようだが、速度が出せないので、時間はもっと掛かりそうだ。
来なければよかった、とわずかに頭をもたげる。
バックミラーごしに由美を見る。達也にべったりと寄り添い、囁くような小声で何事か言葉を交わしている。
小さく舌打ちをする。
やがて森は尽き、道が拓ける。
正面に黒々とした巨大な建物が姿を現した。道路はその建物の正面玄関へと続いており、行き止まりになっている。
「着いたみたいだ」俊介は車を止め、フロントガラス越しにそれを見上げた。
森の中に唐突に姿を見せたそれは、かつてホテルとして多くの観光客を集めていたと聞く。何階建てかはわからないが、相当な高さがある。上の階に行けば周辺の山々を万遍なく臨むことが出来たに違いなく、実際に羨望の良さが売りだったようだ。
今や人の気配などあるはずもなく、かつての面影は微塵もない。闇に包まれているとはいえ、荒れ果て、人の侵入を拒絶していた。
「これが有名な廃ホテルか」達也が口を開く。「不気味だな」
「他に肝試しで来ている人はいないみたいだね」と、由美。「ラッキーじゃん。詩織ちゃんは何か感じる?」
三人の視線が詩織に集まるが、彼女は黙って首を横に振るのみだ。
「自殺した女の霊が出るんだっけ?」俊介はいった。
「そうだよ」と応じたのは由美だ。「ホテルが経営難でつぶれた後に、わざわざこんなところまで飛び降り自殺をしに来たんだって。滅多に人は来ないから、発見された時には骨だけだったとか」
「その女が呪ってくるのか」
「実際にここで肝試しをした人が何人も呪い殺されているみたい。建物に入ったきり、戻ってこない人もいたとか、いないとか。動画投稿サイトには、いくつも潜入動画がアップされていたよ。中には女の幽霊が映っているのもあったよ」
黄緑色のワンピースを着ているんだって。由美が言葉を続ける。死んだ時の姿で、長い髪を振り乱し、血色のない白い顔を怒りに歪ませ、血走った目で睨みつけながら追いかけてくる。そして捕まると、廃ホテルに引きずり込まれ、命を奪われる。
「噂だろ。呪いなんてあるわけがない。それに動画も胡散臭い」
「そ、噂。動画も多分、フェイクだね。仮に本当だとしても、わたしたちには守護霊の加護があるから問題ない」由美は助手席に座る詩織の肩に手を置いた。「ね? 大丈夫でしょ?」
「だから、霊感なんてないし守護霊もわからないってば」声が震えていた。車を取り囲む闇と存在感を放つ廃ホテルに圧され、顔色すら悪くなっている。
霊感がないならば恐怖はないはず。もしくは、霊感があるからこそ、この場に居座る幽霊の存在を恐れ、顔から血色を失うまでになっているのか。
ほんの少しだけ申し訳ない気持ちになる。
「よし、じゃあ行こうか」達也が後部座席の扉を開ける。「懐中電灯はどこ? ちゃんと人数分用意してあるよな?」
「大丈夫だよ。後部座席にカバンがあるだろ。その中」
達也がカバンを持ち上げ、中を確認するや否や「おい、二本しかないぞ」と声を上げた。「人数分ないじゃないか」
「うるさいな。二本しかなかったんだよ」
エンジンを切り、扉を開けて外に出る。
九月とはいえ、まだしぶとく夏が居座っており、都心では熱中症の患者が次々と病院に搬送されているが、人の手が入らない山の奥、ましてや夜となれば空気はかなり冷え込む。肌寒くすらあった。
だが、空気の冷たさの原因はそれだけではなさそうだ。
目の前に聳える巨大な廃ホテル。この存在そのものが、空気を冷やし威圧してくる。心なしか視線を感じるような気さえする。
周囲に命ある存在の気配はなく、羽虫すら飛んでいない。
「ほら、早く降りなって」
振り返れば、由美が助手席から詩織を出そうと腕を引っ張っていた。
「わたしはここにいる」
「ダメだよ。詩織ちゃんの守護霊頼りなんだから。ここまで来たら引き返せないよ」
そう言っている由美は、どこか面白がっているようでもある。
「無理することはないんじゃないか?」と、達也。「怖がっているし」
「車で一人過ごすほうが怖いっての」俊也も助手席側に回った。「ほら、行くぞ」
詩織はゆっくりと、シートベルトを外し、車から身を乗り出した。そして地面の感触を確かめるように足を下ろし、立ち上がる。
つかさず俊也は車の扉を閉めて、鍵をかけた。途端に車内灯が消え、闇が圧し掛かる。互いの輪郭だけがわかる状態だ。
「懐中電灯は俺と俊介で持とう」達也は二つの懐中電灯のスイッチを入れた。
足元に二つの丸い光が落ちる。
その光を見て、俊介は無意識に止めていた息を吐いた。
「俺たちが先頭を歩けばいい」
「それはダメだな。守護霊の加護がある詩織が先頭だ」
「そうね。それがいい。何か怖いモノが来ても、きっとガードしてくれるし」
「え?」詩織は全員の顔を見やった。「え?」
「ほら、行けよ」
俊介は彼女の背中を押し、廃ホテルの方へと押しやった。
背後では由美が達也の腕を抱き、寄り添いつつ歩を進めようとしていた。
闇の中で相手に見えないことをいいことに、盛大に顔をしかめる。
ホテルの正面玄関には、かつてはガラス扉が嵌まっていたのだろう。今や扉は破られ、無残にも地面に横たえられている。敷かれたタイルの間から草が生え、そこかしこにガラス片が散らばっていた。
踏まないよう、地面を照らしながら慎重に歩を進める。
玄関を抜けると、ロビーになっていた。かつてはフロントして活用されていたカウンターがあり、朽ちた招き猫が置かれていた。周囲を照らすと壁に落書きがされていたり、壁が破られていたりなど荒れている。ソファとテーブルの残骸も散乱していた。
空気が重い。監視されている。そんな気がする。
「詩織。何か感じるか?」
先をそろそろと進む彼女の背中に、声を投げかけた。
「わからない」
なんだよ、と毒づく。幽霊の気配を感じるとかいえばいいのに。空気の読めない奴め。ここで嘘をついても、誰にもわからない。
だからお前には友達がいないんだ。
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