26.あの夜は

 分水嶺。

 あの夜が、まさにそうだった。

 アイナがメイガン=アイリスを伴って、ホテルの部屋に入ってきたとき。

 あのときから、私の人生が大きく変わった。

 なんとなくそんな気はしていた。

 こうなることが、ずっと前から分かっていたような。

 まるで誰かが書いたシナリオにそって物事が動いているような。

 だから、アイナからの提案にも驚かなかった。

 それを受け入れることも分かっている気がした。

 運命が私の背中を押している。

 あの夜は、そんな夜だった。


 ダブルクロス。

 所属する組織のために敵組織をスパイしていた人物が、その敵組織から逆に所属する組織をスパイするよう雇われた人物のこと。二重スパイ。


 みんな揃ったわね。

 さっそく本題に入るわ。

 評議会は貨幣制度を導入するつもりよ。

 リトル・ルナに広がっている不満を抑え込むために、権力を強固にしようとしている。

 評議会メンバーに富が集中する仕組みを作ろうとしている。

 データは残せないから今は口頭でしか説明できないけど。

 二年かけて調べた結果よ。

 間違いないと思う。

 ありがとう、アイリス。

 アイリスの検証もそれを裏付けてる。

 あとで手書きのメモを渡すから、回し読みして。

 移行期間として、まずポイント制度が導入される。

 それぞれの活動に対して重みづけを行って、ポイントを支給するの。

 移行期間終了時に、たまったポイントを貨幣と交換する。

 問題はその重みづけの内容。

 基本的な方針として、CHRが代替可能な活動にはポイントがつかない。

 そう、もう分かったわよね。

 これまで評議会は、家庭内の活動はCHRに代替させることを奨励してきた。

 申し出れば誰でもCHRを受け取ることができる。

 炊事、洗濯、育児、掃除、そういった家庭内活動の一切をCHRが行う。

 でも実際は、そうはなってない。

 家の中にCHRを入れている世帯はごくわずかよ。

 理由は大きく二つある。

 これはほとんど公式に発表されていない。

 いつの間にか情報統制はかなり進んでいる。

 知っての通りCHRには男性型と女性型がある。

 女性型CHRを導入した家庭で、夫がCHRに性的な接触を求めるケースが多発した。

 さらに、これも知っての通り、CHRの違法改造が横行した。

 闇ルートでのセクサロイド処置。

 半日あれば処置は終了するという手軽さも大きい理由だった。

 結果、たくさんのセクサロイド処置をされた女性型CHRが出現した。

 一部は回収されたけど、ほとんどはそのまま。

 それが風評として広まり、女性が女性型CHRを家に入れることに難色を示した。

 ちなみに、男性型CHRのセクサロイド処置件数はゼロ。

 これはアイリスの調べでも明らかよ。

 では男性型CHRはどうか。

 男性型CHRを導入した家庭では、平均一か月以内で使用をやめている。

 理由は、夫の嫉妬。

 CHRはどのタイプも基本的に整った顔立ちをしている。

 どうやら、男性は家庭の中に、自分よりも美形の男性が存在しているという環境には耐えられないみたいね。

 簡単に言うと、男性の性欲と嫉妬のために、CHRの家庭への導入は進まなかった。

 ただし、評議会はこの状況を認めていない。

 家庭内活動は、CHRがするべきだというスタンスを崩していない。

 そして、CHRが代替可能な活動には対価は支払われない。

 だから、家庭内活動には、対価は支払われないということ。

 家庭内活動だけじゃないわ。

 CHRが代替できる活動はなるべくそうしているけど、様々な理由で、未だに人がやっている活動も残ってる。

 それらの活動にも対価は支払われない。

 これから次のことが始まるわ。

 労働の搾取と、富の集中よ。

 その結果、格差は大きく広がる。

 一度そうなってしまったら、元に戻すことはとても難しい。

 それは地球の歴史が証明している。

 もっとも、地球の文献はもうかなりアクセス制限がかかっているけど。

 残っているのは、あの、歴史研究所のサーバーだけね。

 私からの報告は以上よ。

 じゃあ、あとはよろしく、アイナ。


 アンコールの拍手の間、隣に座る少女に話しかける。

 誰にも聞かれないように、耳元でそっと。

 ねえ、アイリス。

 これからどうなると思う。

 うん。

 そうね。

 いったんはそうなっても、かならず打倒しようとする動きが起こる。

 私もそう思う。

 問題はそのときね。

 私たちの価値が試されるのはそのときだと思う。

 それがいつ起こるのか。

 私たちは本当に無力ね。

 うん。

 ありがとう、アイリス。

 私たちを見捨てないでね。

 アイリスがうなずく。

 約束する。

 イルマ。

 拍手がひときわ大きくなり、アイナが再びステージに現れた。

 ベーシストの女性を伴って。

 アイナがピアノの前に座る。

 私たちに礼を言い、アイナはピアノを弾き始める。

 跳ねるようなリズムで。

 ベースがそれを追いかけ。

 アイナが歌いだす。


――家もない、靴もない

  お金もない、地位もない

  スカートも、セーターもない

  香水もない、運もない

  運命もない


  教養もない、母もいない

  父もなく、兄弟もなく

  子供もいない、おばさんもいない

  おじさんもいない、ルーツもない

  男もいない


  国もない、学校もない

  友達もいない、何もない

  水も、空気もない

  タバコもない、クッキーもない

  何もない


  水もない、愛もない

  運命も、幸運もない

  ワインもない、お金もない

  運命も、神もない

  愛もない


  でも私は何かを持っているはず

  だって、どうやって生きているの?

  そう、私は持っている

  誰にも奪うことはできないものを


  髪がある、頭がある

  脳も、耳もある

  目も、鼻もある

  口がある、微笑みがある

  話すことができる


  頭には髪が

  足には指が

  足がある、つま先がある

  肝臓がある、血液がある


  私には命がある


  笑いがある

  癒しがある

  やることがある

  あなたたちみたいに、悪い時もある


  髪も、頭も

  脳も、耳もある

  目も、鼻も

  口も、微笑みも

  舌と、顎がある

  首と、乳房がある

  ハートと、ソウルがある

  背中と、性がある


  頭には髪が

  足には指が

  足がある、つま先がある

  肝臓がある、血液がある


  私には人生がある


  私には自由がある


  私には命がある※

   ※『Ain’t Got No, I Got Life』ニーナ・シモン(作詞:James Rado, Gerome Ragni)より引用

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