リトル・ルナ叙事詩

Han Lu

 1.海に行きたい

――Pi.


 生まれてから死ぬまで、一度も海を見たことのない人が、世界中にどれくらいいると思う? という彼女の質問に答えるのは実はたやすい。


――Pi.――Pi.――Pi.


 フェルミ推定を使えばおおよその数はつかめる。宇宙に上がるための試験を解くために何度も使った思考方法。それは彼女も同様で、だからこれは修辞疑問。

 私もそうだったんだよね、と隣に座る彼女が言う。チベット出身の天才少女。私も、海、見たことなかったんだ。


――This is Ground Control to ARK845, Your circuits dead, there's something wrong.


 もぐもぐとチョコレートバーをくわえながら、彼女は計器類を次々とチェックしていく。もぐもぐ。パチパチ。


――Pi.――Pi.――Pi.――Pi.――Pi.


 僕たちの眼下には、海が見える。地球の青い海。


――This is Ground Control to ARK845, Can you hear me ?


 だめだね、こりゃ。もぐもぐ。パチリ。昨日が最後の通信になっちゃった。もぐもぐ。ごくり。んー。実際のところ、もっと間近で見たかったな。だって、ここ、高度三万六千キロメートルだよ。遠すぎだってーの。でも、それでも、きれいだよね。おじいちゃんがよく言ってたんだ。死ぬまでに、海に行きたいって。一度でいいから、海を見てみたいって。でも、ヨーロッパの戦争が長引いちゃったじゃない。結局、終戦の前の年に死んじゃった。ところで、キミの国は島国だから――。


――Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi. Pi.


 彼女の言葉はけたたましい警告音に遮られ、そしてそれは始まった。

 たくさんの隕石が次々と地球に落下していく。

 海に、陸に。

 都市に、村に、砂漠に、森に。

 ひときわ大きな隕石が太平洋の真ん中に落下した。衝撃波が広がっていく。そして、津波が陸地を襲う。

 僕たちは、そうやって地球が変貌していく光景を眺めていた。

 ん。と、僕の顔の前に、チョコレートバーが差し出された。

 僕は首を振る。こんなときに。IQ百四十の頭脳が考えることはよく分からない。

 もぐもぐ。私たち、生きなきゃ。もぐもぐ。

 ん。と、差し出されたチョコレートバーを受け取って、僕もくわえる。

 もぐもぐ。

 もぐもぐ。


――Piiiiiii――


 警告音が途絶え、静寂が訪れた。

 僕たちはチョコレートバーをかじりながら、それを眺めた。

 もう、彼女が間近で海を見る機会は、永遠に失われてしまった。

 もぐもぐ。

 もぐもぐ。

 やがて、僕たちを回収しに、母船がやってきた。

 母船は、衛星軌道上に打ち上げられた一五〇〇基の小さな箱舟たちを回収すると、僕たちの新しい故郷、『小さな月』へと僕たちを運んでいった。

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