シュガーコート

押田桧凪

第1話

「好きです、愛してます、付き合ってください。あなたのことを見たとき、ぼくは……」


 すれ違う人にひとりひとり滑稽なほど単純に声をかけているのは、勤続5年のスイーツ商品開発担当部長──片野田泰平である。


 片野田は怖かった。告白を断られて、傷つくのが怖かった。だからこそ、断られたとしても「嘘です」と言えばなんでも解決するこの日が、一年で一番好きだった。


 何を言ってもいい──それは裏を返せば、対人恐怖症の彼にとって、言葉が意味をなし得ない世界そのもの。今日以上、ひとへの恐怖を払拭するには絶好の機会はないだろう。


 片野田は言いたかったのだ。人と関わることが、本当は好きだと。


 ◇


 最近は家族とも話していないというのに、外に出たらすぐにこれだ。だから、出たくなかった。おちしずかは目の前の男を睨みつける。


「あなた、だれなんですか?」


「ぼ、僕は……。片野田と言います。近くのケーキ屋で販売するスイーツを考案してて」


 わずかな沈黙があって、口を開いた。とめどなく流れる血液がふつふつと滾って、体温が上がるのを感じた。逃げろ、という直感に逆行するように、私は疑問を投じる。


「どうして、ですか。どうして、そう簡単に好きだと言えるのですか」


 久しぶりに口にした言葉ゆえ、会話として成り立たない返しにも、この男──片野田は動じない。この歯がゆさが、分かるのだろうか。口にしたくても、うまくまとまらず、結局、相手の真意をはかろうとすることでしか、いい人かどうかの見定めができない。心の距離を保てない。


 拗ねたような、どこか意地悪な訊き方になってしまったが、私は羨ましかった。誰かの体温を、やさしさを、言葉から感じること。この世には醜いことばかりで、どんなやさしさも悪に取って代わられる可能性を孕んでいて。包み込むような、すべてを受け入れるような、好きという言い方を初対面の人からされたのは初めてのことだったから。


「ど、どうしてかと言われたら……、冷たい目をしていたから。悪い意味じゃなくて、なんだか、さびしそうで、僕が声を掛けたいと思ったから」


 片野田のくっきりとした瞳に映る色は真剣で、迫力があった。おずおずと、けれど子どもが物をねだる時のような、まっすぐな眼差しに私は気圧された。


「なんで」


「あっ、えっと……。なんで今日かっていうと、ただ、今日が僕にとって、最適な日なんです。その──、人とお話しするのが」


 照れたようにひくつく声を抑えながら、ゆっくりと話す。片野田は怖かった。五人目に声をかけた人が、こうも食いついてくるとは思わず、戸惑ってもいた。


「それに、初めてなんです。五年目、そして今日で五人目のあなたが、初めて問いかけをくれた。僕が何者なのか、知りたいと思ってくれた」


 通行人の邪魔にならないよう、脇道にそれるようにして、二人は移動した。平日とはいえ商店街の真ん中で話すのは、人通りが多くて人に目がつくうえ、両者ともに慣れていなかった。


「人と話すのが、本当は怖くて。さんざん、嫌なこと言われてきたから」


 片野田は打ち明ける。息を吸い込み、そのまま短くその言葉を止めた。宙を見つめながら、思い出す。


 中学校のとき、隣の家が燃えた。消防士だった父さんは、すぐに近所の住人に避難するように声を掛けて回った。賞賛に値する行動だった、と思う。

 目の前で見た出来事を切り取られた映像がテレビに映る。添えられた数文字のテロップを見て、めまいがした。わんわんと耳元が何かで覆いかぶさるような、くぐもった音でいっぱいになって、目の端が痺れた。

 誰かが悲しむのが嫌だったから。そう父さんは言っていた。奉仕、犠牲。そのどちらでもない言葉で、印象は作り変えられる。


〈ヒーロー気取りか? 深夜の火事 住民迷惑の声〉


 なんでやかあ。あんだけ感謝されても、知らん人から見ればこうなるんたいね。


 唇の端を引いて、父さんは薄く笑った。片野田は言葉に詰まる。自嘲するような具合に頬が引きつる。


 なんでやろね。


 その険を含んだ声を打ち消すように必死で笑おうとする。笑えなかった。笑おうとした自分が嫌だった。余計な感傷や言葉を挟まないことが、唯一の慰めだった。


 そして、落田静もそれを知っていた。やさしさは悪に取って代わられる。小学校の時、私のために授業参観に来てくれたお母さんと、弟。まだ赤ん坊だった弟が教室の後ろで大泣きした時、周囲の視線と、その圧力に私は心が折れそうになった。それはお母さんも同じだった。


「あの時はね、すごいショックだったよ。父さんは信じてきたものを、全部奪われた感じだっただろうからね」


 片野田は冗談めかした様子で笑う。けれど、一切の余裕や切実さをそこに感じさせない。


「胴上げされたときに、ひゅいと自由落下して地面に叩きつけられたような、そんな感覚。頭もすごい痛くて」


「実際にそんなことがあったんですか?」


「ひ、比喩だよ! 本当にされたわけじゃないけどさ。例えば、雷に打たれたような衝撃って言ったとしても、雷に打たれる確率は宝くじに当たると同じくらいのことで、みんなそれを分かって使ってるでしょ?」


「私、嘘を信じられないんです」


「それは……嘘は、嘘だからだよね?」


 片野田は一瞬考え込んで、それが自明だと気づく。慌てて、私は補足した。


「あの、なんというか嘘だと分かって話を聞くのは茶番に付き合わされてるみたいで退屈だし、食べ物だって、人工甘味料・着色料のように嘘であることを隠して、おいしそうに見せかけるのが大人のやり方だと思うと、何もかも信じる気になれないというか。信じなくていいんでしょうけど、受け入れられないっていうか」


 落田静は断罪する。彼女なりの考え方で。


「分かるよ。きみは、クルミのようだから」

 片野田は腑に落ちたように強く頷きながら、わずかに目を細めた。


 片野田は薄々気づいていた。落田静という人間には硬いクルミのような殻があって、そしてそれを壊すには難しく、一見調理には向いていないと思われるが、中身を取り出せば秋の味覚を彩るデニッシュ、ケーキや蒸しパンに使えることも知っていた。

 そして、対人恐怖症という一点を除けば、片野田はスイーツをこよなく愛する、ごく一般の人だった。しかし、人の性格をスイーツに喩えるという特技は、彼の不完全さを象徴しており、そう上手く社会に適合できる人間でないことも明らかだった。


 けれど、二人は分かり合うのに、言葉はいらなかった。

 片野田はくるりと背を向けて、堂々たる足取りで歩き出す。私はその背中に声をかける。


「また、いつか会えますか?」

「お待ちしております。パティスリー エトワールで」


 カタカナを噛まないように気をつけながら、片野田はそう言い残した。それが、二人の出会いだった。


 ◇


 通り雨のようなひとだった。いきなりおとずれて、いきなり去っていく。なにかを残して。


 わけも知らずに肯定するやさしさは罪で、それを包み隠そうとする言葉はどれも私にとって意味がないんだと。私はずっとそう思っていた。


 なのに、なんでだろう。


 あの人のいう、好きは言葉の本来の意味を通り越した、無秩序な好きだった。あてのない、好き。だから、儚さを内包していた。私が感じたことのない響き。従順で、しなやかな風のようだった。カステラの底を覆う、ざらつく砂糖のような甘さを感じた。無垢だった。


 ◇


 きょうは天気がいいですね、と話しかける。久しぶりに晴れた空の下、息をするのが楽だと感じた。

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