少将

 私の頭上にある、公園のベンチ横の街燈が、ちかちかとまばたきをし、様子を窺いながら灯るのを見て、宵の時間が始まるのだなと思った。周囲はまだ十分に明るい。ぼんやりと空を見上げて、目を閉じた。深呼吸をしてから、ゆっくりと目を開ける。言葉で言い表せるほど何かを感じたわけではないのだが、横を向くと、老紳士が端に腰掛けていた。

「お前さん、あれじゃろ? 人間ではないじゃろ?」

 老紳士は、マッチ棒のような形の杖の上に両手を乗せて、真っ直ぐ前を見つめたまま、そう問いかけてきた。私が答えずにいると、のんびりこちらを向き、今度は視線で答えを催促した。時々、こうして言い当てる人間がいる。いつもであれば、すぐに否定して笑ってやり過ごすのだが、なぜか、今回はそれができなかった。

「……えっ、えぇ、まあ」

 老紳士は、満足げにうなずいて、また前を見つめた。二人の間を風が通り抜ける。

「わしはな、花壇の花の匂いを嗅ぎに来たんじゃ。隅々まで手入れが行き届いた、人間が作った花の集まりの匂いをな」

 老紳士は、わざとらしく鼻から息を吸い込んだ。そして、公園にベンチも街燈もある、あとは恋人同士が何組か居てくれさえすれば全てがそろうのに、と心底残念そうに言った。

 私の中で、ひらめくものがあった。無数にある記憶の箱の一つが開き、言葉は、唇が自動再生するのに任せればいい。

「では、あなたは、さしずめ詩人といったところでしょうか?」

「……。お前さん、よくわかっておるな。前身は人相見じゃな? 模範解答じゃよ、あっぱれ」

「昔、教わったんですよ――ところで、百夜ももよがよいはどうなりましたか?」

 すぐに返事がなかったので、人違いかと思ったが、老紳士はただただ驚いているようだった。口をぱくぱくさせている。無理もない。ようやく発せられた声は、少しうわずっている。

「あぁ! やっぱり、ラリーさんか! お前さんはちっとも変わらないのう。わしは、正真正銘のおじいさんになってしまったわい。そうか……歳をとるのはわしの方じゃったか」

 どおりで美男だった顔がしわだらけになったはずだ、と明るく笑った。それから、私の目を見て、うれしそうに何度か小さくうなずくと、元の姿勢に戻った。私たちの視線はほどけて、またそれぞれの景色に向けられることになる。彼は、軽く咳払いをして、先ほどの私の問いに答えた。

「百夜がよいは、九十九夜までじゃった。あと一夜というところで、戦争が始まってしまってな。それから、本当にいろいろなことが、余りに起こり過ぎた。その間、わしは、あの人はもういないと思って生きることしかできなかった。それで、実は、最近では、記憶が曖昧になってきてな。自分が本当に百夜がよいをしていたのか、そもそもあの人は実在したのかすら自信が持てなくなっておった。しかし、お前さんのおかげで、今、この瞬間に、全てが本当のことになった。

 もう随分長い間、「もしも」の失われた世界で生きてきた。知っているか? それは、たとえわずかでも、万に一つでも可能性があるから言える魔法の言葉なのだよ。しかし、ゼロじゃないと己が信じられさえすれば、たとえ世間一般には不可能なことも、私の中では叶えられる。私の中でなら、ね。それが自分の世界というものだ」

 私は、おや?と思った。彼の口調が、いつの間にかはきはきとして、若返っている。話を遮らないために、頭を動かさず横目で彼の姿を見ると、先ほどまでよりもしゃんと背筋が伸びている。服装も、色味が似ていたのですぐにはわからなかったが、軍服に、杖は日本刀に変わっていた。軍帽を目深にかぶった姿は、かつて私が出会った若かりし頃の彼と同じだった。

 男は、軍人だった。そして、当時、容色に加え声色の美しさでも評判の、誰もが憧れる女のもとへ夜毎通っていた。彼女との恋を成就するには、百の夜を数えねばならず、それまで誰一人として成功した者はいなかったという。

「本当は幻でもいい。自分だけが知る幻でもいい。でも、確かに存在する幻にするためには、ラリーさん、貴殿のような、その存在を知る他の世界も必要なのかもしれない。そういう、世界の重なりによって、あの人は永遠に存在し続けることができるのだろうな」

 私の頭に、一つの単語が浮かんだ。

「では、それが、人間の言う「神」というものかい?」

 横を向くと、そこにいるのは老紳士だった。彼は、神という言葉を反芻しながら、顎を引いて小さく笑い、こちらを向くことなく、答えた。

「そうかもしれぬ。でも、それならばきっと、あの人は、自分だけでなく、わしらのことも神と呼ぶだろうよ。光も影も、どちらもなければ見えぬのなら、その二つには何ら違いはないからのう。

 ――ありがとう、ラリーさん。もう何もないと思っていたが、わしにもまだ残っていることがあったんじゃのう。それに気づかせてくれて、本当にありがとう」

 自分は何もしていない、と言おうとした瞬間、頭上の街燈が消えた。思わず、そちらに気を取られる。明かりはすぐに戻り、ほっとしたのも束の間、彼の方を見ると、そこには誰もいなかった。

 夢を見ていたのかもしれない。あるいは、思い出話の長い独り言を言っていたのかもしれない。きっと、今宵の風が、彼と出会った日のそれと似ていたのだろうと結論づけようとして、かぶりを振る。

「こちらこそ、私を覚えていてくれて、ありがとう」

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