第32話 後南朝

☆ 後醍醐天皇の後胤 ☆


 南北朝時代が終わっても、南朝子孫たちは南北朝を続けざるを得なかった。それは、南北合一の約定を守らなかった足利義満・義持と、南朝系宮家の根絶やし政策を実行した足利義教ら、幕府の責任でもあるんだけど。('22/09/14)


 後南朝は上北山村・川上村を筆頭に、各地に伝承が残るわけですが、子孫があちらこちらで帝として立ったとしても不思議じゃないかと。本人らは神器と信じるものを、それぞれ、きっと持っていたのではないかと。('19/12/14)


 時の反対勢力から、利用されてきたんでしょうねえ。真相は兎も角、噂は明治維新まで。戦後も熊沢天皇っていましたね。('19/12/14)


 戦後も熊沢天皇、長浜天皇……きっと、代々、その血筋だと言われて育ったんでしょうね。本人らは真面目に主張してたんじゃないですか!('19/12/14)


 いくつかあった後南朝の子孫の一人でしょうね。少なくとも本人は信じていたのだと思います。('19/12/14)



☆ 後醍醐帝後胤+足利尊氏後胤というテンプレート ☆


 赤松満祐が擁立した足利義尊は直冬の孫ですね。また、小倉宮の子も拉致して奉じている。この、尊氏と後醍醐天皇の後胤をセットで担ぎ出すパターン。テンプレート化してて興味深い。('22/09/11)


 その、尊氏と後醍醐帝の後胤をセットで担ぎ出すというテンプレート。赤松満祐の四年前にも、幕府に蜂起した越智維通が用いてる。足利義満の子、大覚寺門跡の義昭と有義王ら(諸説あり)。('22/09/11)


 そのテンプレート、元は山名時氏たちが、南朝に帰参して足利直冬を擁立して幕府と戦ったあたりからパターン化してると言える。アイデアは北畠親房だろう。('22/09/11)


 きっかけは、やっぱり観応の擾乱だろうな。足利直義が南朝に降ったことで形勢を変えたので。北朝の幕府に対抗する為に、これに対するカウンターパートとなる南朝後胤と、将軍家の血筋がセットで必要となったという感じか。('22/09/11)


 結局そのテンプレートは、観応の擾乱から始まり、南北朝の騒乱、大和永享の乱、嘉吉の乱を経て、応仁の乱まで用いられることになる。('22/09/11)



☆ 応仁の乱と後南朝 ☆


 山名宗全は応仁の乱で、将軍義政の対抗馬に足利義視を、帝の対抗馬に西陣南帝を立てますが、これを10年以上前にやろうとしたのが赤松満祐。嘉吉の乱で将軍義教の対抗馬に直冬の嫡孫義尊を、帝の対抗馬に赤松宮(京からさらってきた小倉宮の幼い皇子)を擁立しようとして失敗してます。('21/11/21)


 応仁の乱の西軍は山名に大内、公家では阿野!何となく南帝を担ぎ出すのが分かるような。('21/03/04)

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