第15話 平尾合戦について
☆ 正儀はなぜ平尾で戦ったのか?! ☆
楠木正儀が山名氏清に惨敗する平尾合戦。弘和2年(1382年)閏1月、幕府側に就いていた正儀が南朝に帰参する際のこと。一族六人、兵百四十余人が討死したと伝わる楠木党没落の戦です。('22/04/03)
戦の場所は南河内の入口、平尾。一次資料(軍忠状)には、平尾で大敗した楠木軍が「旧居之要害」に入って籠城したとある。この旧居之要害を平尾城と見る向きもあるが、平尾城は要害とは思えないし、旧居ということは、今は使っておらず、過去に使っていた所ということになる。('22/04/03)
これは、この頃の正儀の居城を赤坂城など東条周辺と見なし、平尾で戦ったのは山名軍の侵攻を防ごうと北進したという前提からきてるのかなと思う。つまり、敗北した楠木軍が逃げ込むのは、近くの、かつて正成が拠ったとされる平尾城しかないとされたのではないかと。('22/04/04)
ただ、平尾城の位置からすると、和泉国府から出陣した山名氏清は南から城を攻め、北からは幕府諸将や幕府方に残った国人たちで四面楚歌になりそう。どうも平尾城に籠ったような気がしない。そもそも「旧居」に逃げ込んでも籠城に耐える備えがあるであろうか。('22/04/04)
平尾城は涅槃城とも呼ばれ、涅槃の釈迦になぞらえた南北に長い城。長い土塁と複数の陣屋が構えられていたと思われるが、正成時代にこれだけの城を造っていたのであろうか。「旧居」ではなく、正儀の居城とは考えられないだろうか。('22/04/04)
少し遡り、正儀が南朝から北朝(幕府)に降った後の動きを追うと、裏切者として和田・橋本らに攻められた正儀は東条を脱出し、渡辺氏ら摂津・北河内の国人らを頼ったものと思われる。初め榎並城に拠り、北から南へ勢力を延ばしていく。('22/04/04)
そして、次に拠点を榎並城から南の瓜破城(宇利和利城)に移す。南朝側は正儀の南下を防ごうと、一門の和田・橋本らが北侵して攻撃したものと思われるが、何とかこれを駆逐する(南朝軍には正儀の息子らも加わっていたという話も伝わる)。('22/04/04)
逆に、正儀は天野行宮攻略の先鋒を務めて長慶天皇を放逐し、幕府の勢力圏を南に延ばす。もし、この時に正儀が瓜破城から南の平尾城に拠点を移していたとすれば、平尾合戦の見方が変わってくる。('22/04/04)
南朝帰参を決めた正儀に対して、討伐の命を受けた山名軍が和泉府中から平尾城に向けて進軍する。幕府支配地域で孤立する平尾城での籠城を不利と悟った正儀は、山名軍を突破して、南朝側に残った息子たちに合流しようと、城から撃って出た可能性も出てくる。('22/04/04)
すると「旧居之要害」とは、赤坂城や千早城になるのではないか。つまり、南朝側に残った楠木党にとっては旧居では無いが、正儀ら幕府側にいた楠木党にとっては旧居ということになる。これだと備えもあり、籠城も可能。('22/04/04)
従来、楠木正儀は赤坂・千早から出撃して平尾に出向いて戦ったとするのが一般的な見方かと思われます。が、逆に平尾城から赤坂・千早に向かおうとしていたと考えれば、不利な野戦を行ったことも、その結果の大敗も腑に落ちます。('22/04/05)
ちなみに、平尾合戦と言えば後太平記に書かれた楠木正勝の平尾合戦もあります。むしろこちらの方が有名ですが、色々と矛盾があり、私的には事実とは思えません。正儀の平尾合戦を、時を変え、主役を変えて創作したのではないかと思ってます。('22/04/05)
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