第 7 話 楠木氏は得宗被官だったのか

☆ 楠木氏の得宗被官説を考える ☆


 駿河説というか得宗被官説だと、楠木が河内に来て、河内楠入道が播磨国大部荘を襲うまでの間は僅か8年しかないんですよね。('22/03/24)


 その8年の間に、楠入道は大部荘の雑掌となるが職を解かれ、後任が垂水繁昌となり、その繁昌も横領でクビになったので一緒に報復したということになります。まだ河内の足下がおぼつかないだろう時期に遠くの播磨に出向いてそんな動きをする余裕があるのかな。('22/03/25)


 そういった背景もあってか、この河内楠入道は楠木氏とは関係ない!という人もいます。「河内が名字だ!」とか「栖入道の書き間違いだ!」など。後者は、後から出された荘民の訴状に「楠」ではなく「栖」と書かれていたというもの。('22/03/25)


 まあ結局は藪の中ですが、楠木が河内に来たのが霜月騒動の後だというのは、現地の地名を名字とする親族の多さから、ちょっと年月が浅すぎるかなと……。('22/03/25)



☆ 以下、補足・詳述します ☆


 得宗被官説とは以前からあった説のひとつで、駿河の楠木村出身で得宗被官(北条御内人)、つまり北条家直参であった楠木氏が、東国(関東乃至駿河)から河内にやってきたとする説。


 弘安8年11月(1285年)の霜月騒動で安達氏が滅び、所有の河内国観心寺荘が没収されて北条得宗領となり、楠木氏が南河内に代官として派遣されて来たとする(1286年以降と思われる)。


 その8年後の永仁2年10月(1294年)。河内楠入道が東大寺領である播磨国大部荘に押し入る。これは雑掌(荘園代官)の垂水繁昌が横領で解任され、その報復に楠入道らも参加して押し入ったもの。楠入道自身も前の荘雑掌。


 この頃、摂津など畿内では、雑掌職を解かれると報復として悪党的行為が横行していた。そもそも依託された当時の雑掌自身が悪党的な性格を帯びてた(平野将監など)。毒を以って毒を制す的な感じかな。


 河内楠入道は略奪行為に加え、垂水繁昌の前に自身も播磨国大部荘の荘雑掌を解任されてるのだから、入道自身が悪党的性格を持ち合わせた荘雑掌だったんだろう。


 そもそも東大寺が、河内から遠い播磨の雑掌職を依頼するのも、楠入道が既に悪党的な性格を持ち合わせ、その道で実力ある存在として名が売れていたからとも考えられる。


 もし、楠木氏が得宗被官だとすれば、1286年に観心寺荘にやって来た後、数年内には安達に与する現地勢力を屈服させ、畿内の悪党たちと関係を築き、東大寺に雑掌職を依頼されるまでに名を知られた存在となっていなければならない。


 そして、播磨大部荘の雑掌職に付くが解任。後任の雑掌の垂水繁昌も横領で解任され、1294年に垂水や他の元雑掌たちと一緒に大部荘に押し入り、略奪行為を行う。


 わずか8年足らずで、これだけ慌ただしいことが可能だろうか。もっと前から南河内に根付いた悪党的一面をも持った武士団と考える方が合理的な気がする。


 ただし、大部荘の百姓たちの訴状には、最初は河内楠入道とあるが、二番目の訴状では河内栖入道と書かれている。単なる当て字のミスなのかは、慎重に扱う必要がある。


 もうひとつ気になるのは橋本、和田、大塚、神宮寺、佐備、河野辺、済恩寺、甲斐庄、平石などなど、正の通字を持つ親族がとても多いこと。


 楠木氏が入植して正成が活躍する30年間で、この大族化は可能だろうか。一族総出で移住したとすれば、なぜ南河内の地名を苗字にしているのか説明できない。


 偏諱を受けただけの現地土豪かもしれないが、明らかな家臣や与力は正の字が付いてないようなので、(偏諱にせよ)やはり親族のような気がする。

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