第14話

 翌日、レイシは一日中部屋にこもりめいそうしていた。

 時々両手を組み替え、経のようなものを唱えている。その神懸かった様をうかがい見ると、声をかけるのもおそれ多いような気がした。

 高貴な人というのはこのように一日を過ごすものなのだろうかと、董胡は仕事の合間に様子を見ながらそわそわと時間が流れた。

 やがて夜になると庭に出て天人とはかくあるべしという麗しい姿で月を見上げている。

「レイシ様?」

 董胡は気になって前庭に出ると、レイシに近付いた。

 空いっぱいに広がる満月が、レイシを包み込むように照らしている。

「迎えが来たようだ、董胡」

 ほうとふくろうが鳴き、遠くから満月を背に、黒いもやのようなものがとぐろを巻いてこちらに流れてくるのが見えた。目をこらしていると、近付くにつれて人影のような形を成していく。

「あれは……?」

 きつねの嫁入り。あやかしたちの行脚。そんなものを連想させた。

 足音ひとつたてず、大勢の黒服の男たちが地面すれすれに浮かぶように歩いてくる。

 みな同じような均整のとれたかつこうで、みやびやかな丸襟のほうを着こんでいる。

 なんの物音もせぬまま百人を超える男達が行進し、その真ん中に二つの輿こしが見えた。

「レイシ様……」

 董胡は人ならざる者を感じて、思わずレイシのそでを摑んだ。

「案ずるな董胡。すいめいの式神であろう」

「式神?」

 何のことか分からなかったがレイシが落ち着いているので危険なものではないようだ。

 やがて先頭が門前に辿たどり着くと、音もなく勝手に門が開いた。そして庭を端から埋めるように男達が次々にかたひざを立てて座る。立てた膝頭に両手を載せ、額をつける。貴人に対する最高の敬意を表すはいの姿勢で並んでいく。

 あっという間に庭いっぱいに拝座の男たちが居並び、輿の一つが中央に下ろされた。

 男達がを巻きあげると、いろの衣装がこぼれ出て、背の高い男がするりと立ち上がった。

 黒髪は一部を頭の上でだんごを作って布で包んで組みひもで結び、残りを腰まで垂らしている。貴族の成人男性に多い髪形だ。逆さ三日月の目は笑い顔が標準仕様のようで、穏やかな安心感を与えるふうぼうの人だった。

「翠明だ。私が呼んだ」

「呼んだって、いつの間に……」

 レイシは朝から一歩も部屋を出ていないはずだ。楊庵や卜殷先生にことづてを頼んだ様子もなかったというのに。

 翠明と呼ばれた青年はレイシの前まで歩いてくると、すっと腰を下ろし拝座になった。

「心配致しました。ご無事でなによりでございます」

「この者に助けられた。私の命の恩人だ。董胡という」

 翠明はレイシの隣に立つ董胡に視線を向け、笑っている目をさらに細めた。

「董胡殿。ありがとうございます。深く感謝致します」

 翠明に頭を下げられ、董胡は気恥ずかしくも誇らしい気持ちになった。

「董胡と約束をした。私は自らの運命を受け入れ、全力で立ち向かうと。どんな困難があろうとも生き延びてみせると誓った」

 レイシの言葉を聞いた翠明の三日月目が、一瞬見開いて再び深い笑みを浮かべる。

「よくぞご覚悟下さいました。この上は私の命に代えてもお守り致します」

 翠明のいんぎんな物言いに、董胡はそれがとてつもない覚悟なのかもしれないと気付いた。

 苦難に立ち向かい生き抜くとは人として基本の在り方で、董胡は決して無茶な約束をしたわけではないと思っていた。だが、もしやレイシにとっては自分が思っていたよりもずっと重い決断だったのかもしれない。

「私は誰もが平等に夢を実現できる世を作ろうと思う。そしていつの日か董胡を私のやくぜん師として雇い入れたい」

「薬膳師?」

 翠明は少しだけ目を丸くしてから董胡を見た。

「わ、私は薬膳まんじゆうを作るのが得意なのです。レイシ様にも食べていただきました」

「レイシ……様? 名を告げたのでございますか?」

 翠明はさらに目を丸くして、今度はレイシを見た。

「名を告げぬと病者、病者と呼ぶのでつい呼び名だけ……な……。すまぬ」

 名を教えてはならないしきたりでもあるのか、翠明は少しあきれたように肩をすくめた。

「あの……名を言ってはならないなら、誰にも言いません。あ、卜殷先生と楊庵には言ってしまいましたが……」

 慌てて弁解する董胡に、翠明はため息をついた。

「あなた方の安全のためにも、口外せぬことをお勧めします。よいですね?」

「は、はい。私はいつかレイシ様の薬膳師になって、また美味おいしいと言っていただきたいだけなのです。だから……」

 必死に弁解しようとする董胡だったが、翠明はまた別の言葉に引っかかった。

「美味しい? レイシ様が? 美味しいと? まさか……」

 いよいよ翠明の三日月目がよいの満月のように丸くなった。

 そして翠明の問いかけには、レイシが代わりに答えた。

美味うまかった。董胡の饅頭で久しぶりに美味いという感情を思い出した」

「なんと……。そのような奇跡が……」

 翠明は満月になった目に涙を浮かべていた。そしてもう一度董胡に向かって深く頭を下げた。

「心得ました。いずれ時がくれば、董胡殿を迎えにあがりましょう」

「は、はいっ!! いつまでもお待ちしています」

「ですが薬膳師ということは医師の免状が必要ですよ? 自信はありますか?」

 翠明は少し不安の表情を浮かべ、まだ幼い董胡を見つめた。

「は、はいっ!! 座学は得意です。もっともっと勉強して医師の免状を取り、必ずレイシ様のお役に立てる者になれるよう精進致します!」

「わかりました。期待していますよ」

 董胡はなにかとてつもない仕事を任されたような高揚感に胸が高鳴った。

 そして女であることも忘れ、この時はすっかり医師免状が取れる気になっていた。


 やがて大勢の従者たちは無駄な動き一つせずに粛々ともう一つの輿を運び込み、レイシを乗せた。そしてぼうぜんと見守る董胡を残して、ため息が出るほど雅やかで麗しい光景の中、黒い煙が風に流れるように満月に向かって消えていってしまった。


 驚いたことに卜殷も楊庵も、翠明の迎えに気付かなかった。

 それどころか百人を超える迎えの行列だったというのに、村人の誰一人見た者はいなかった。噂の一つすら聞こえてこない。

 そもそも『レイシ』という存在がいたことさえ夢だったような気がする。

 あの方は本当に月に住む天人だったのかもしれないとも思った。

 だが輿に乗る瞬間、レイシは董胡の方に振り向き、そっと頭をでてくれた。

「すべてはそなたのおかげだ。ありがとう。きっと生き延びて迎えにくるからな。立派な薬膳師になり、うまい饅頭をまた作ってくれ」


 董胡は黒水晶の宮から月を眺め、レイシに撫でられた頭にそっと触れた。

(ようやく医師の免状も取れたはずだったのに)

 後は翠明の迎えを斗宿の治療院で待てばいいだけだった。レイシの役に立つ人間になりたいと、それだけを目標に頑張ってきたというのに。

 楊庵は、高貴な方はもうそんな約束など忘れているに違いないと言った。確かにそれっきりレイシからも翠明からも連絡はなかったが、董胡は信じていた。

 生きていれば必ず迎えに来てくれる。もしかしたら今日にも斗宿の治療院に迎えにきているかもしれない。そう考えると心が騒いだ。

 みかどきさきなどより、董胡はレイシの専属薬膳師になりたかったのだ。

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