皇帝の薬膳妃 紅き棗と再会の約束
尾道理子/角川文庫 キャラクター文芸
プロローグ
「
何かの間違いだと思ったのも当然だ。すべて間違っていた。何一つ正しいことはない。
「鼓濤? あの……わたくしの名は董胡と申しまして、
その玄武の都の中心に領主である
医術の都と呼ばれる玄武の地には多くの医家があり、その総本山となるのがこの黒水晶の宮だ。医薬を一手に担う亀氏は、近年の
その
医師の道は平民にも開かれており、董胡は皇帝陛下が公費で開いている
このことに玄武公がいたく感心し、自ら医師免状を渡したいと宮に呼ばれてきたのだ。
どう考えても人違いだ。しかも一番大きな間違いは董胡の装いを見れば分かる。
白の
平民にも開かれた医師の道であるが、女性がなることはできない。
色白で大きな黒目の董胡は、幼い頃から村一番の美童などと言われていたが、
どう見ても男性医生姿のはずの董胡に、陛下への輿入れの話などありえなかった。
どこかの高貴な姫君と順番を間違えて拝謁してしまったのかと、横に控える案内の男性貴族を見た。医術博士の称号を持つ玄武公の側近で
「驚かれるのも無理はございません。鼓濤様は幼少の頃、悪しき者に連れ去られて行方知れずのままでございました。長年手を尽くして捜して参りましたが見つからず、お
「な! まさか……。だって私は……」
この宮からは遠く離れた
「まさか東の果ての斗宿まで連れ去られていたとはのう。しかも平民の集落で男装となれば、見つからぬのも仕方がない。長い間、見つけてやれなくてすまぬことをした」
御簾の向こうで
本来ならば平民の董胡が
「お、恐れながら私は男性で……やはり何かの間違いかと……」
本当は女であることも、玄武公の娘であることも認めるわけにはいかない。苦労してようやく
董胡は震える手を握りしめ、玄武公にひれ伏した。
「融通の利かぬところも
「濤麗?」
聞きなれない名前に、董胡は首を傾げた。
「そなたの母の名じゃ。誤魔化しても無駄だ。そなたは濤麗に生き写しだ。一目見て間違いないと確信した。心配せずとも男性と偽って医師の試験を受けたことは不問に致す」
「…………」
董胡が女であることは、卜殷と兄弟子の
それがすでにばれていることを悲しむべきなのか、不問にしてくれることを喜ぶべきなのか。
「のう、鼓濤よ。長年見つけてやれなかった父を許してくれるか?」
雲の上の玄武公に父と言われて、董胡はすっかり面食らっていた。
「い、いえ。許すなど……私ごときが畏れ多いことでございます」
「では、許してくれるか? せめてもの
雲上の方にこのように言われて、董胡は戸惑った。
それは女性として最高の幸せなのかもしれない。しかし、董胡は今日まで医師の免状を目標に生きてきた。医師を目指すからには、生涯男として生きていく覚悟も決めていた。それなのに今更気持ちがついていかない。
今日は長年の目標であった医師の免状を受け取る喜ばしい日だったはずなのに。
これまで学んだすべてが水泡に帰してしまう。
「なんじゃ? この父の善意が不服か?」
中々返事をしない董胡に、玄武公の声音が少し鋭くなる。
「い、いえ。ありがたきお言葉に感謝致します。ですが医師になるために努力をしてきた、これまでの人生はなんであったのかと、どうにも心が追い付かず……」
董胡には董胡としての夢があった。皇帝の后になるよりも
「なんじゃ、そんなことか」
しかし玄武公はなんでもないことのように鼻で笑った。
「ではこうするがいい。麒麟寮の董胡という医生に、儂は医師の免状を授与することにしよう。董胡という医生は、その免状をもって夢を叶え生涯を終えたのじゃ。そしてその
「…………」
董胡は言葉をなくした。董胡の十七年の歳月を、そんな一言で葬り去るつもりなんて。
「鼓濤様。お館様のありがたいお申し出ですぞ。それでよろしいですな?」
章景がこれ以上言わせるなという顔で畳みかける。董胡は絞り出すように答えた。
「どうか……少し……考えさせてくださいませ」
一瞬、斬り捨てられるのかという空気が流れたが、この日は下がることが許された。
隅には美しい薄絹の掛けられた
困惑したまま、足ざわりのいい上等そうな畳にぺたりと座り込むと途方に暮れた。
「何がどうなってるんだ。あれほど慎重に女であることを隠してきたはずだったのに、まさか亀氏様にばれてしまっていたなんて。どうして……」
麒麟寮に入寮してからは、自分でも女だということを忘れてしまうほど男になりきっていたはずだった。このまま一生ばれないという妙な自信さえあったのに。
「しかも鼓濤って? この私が亀氏様の娘だって? そんな馬鹿な」
とんでもない人違いをされたものだと頭を抱えた。
「ちゃんと調べ直して卜殷先生に事情を聞けば人違いだって分かるはずだ」
この十七年、自分が貴族の生まれだなどと考えたこともなかった。まして玄武公の亀氏様の娘だなどと、夢物語の空想でも思いつかなかった。
「昨日までの私の日々のどこにも、そんな
董胡は動揺が収まらないままに、昨日までの斗宿での貧しくとも平和な日々を思い返していた。
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