皇帝の薬膳妃 紅き棗と再会の約束

尾道理子/角川文庫 キャラクター文芸

プロローグ


とう。そなたをげんの一の姫として皇帝陛下に輿こしれさせることとする」


 の向こうから突然告げられた言葉に、とうぼうぜんとした。

 何かの間違いだと思ったのも当然だ。すべて間違っていた。何一つ正しいことはない。

「鼓濤? あの……わたくしの名は董胡と申しまして、たびは玄武公さま直々に医師の免状を頂けるとうかがい、おそれ多くも宮に参上致しました次第で……」


 ぎようこくの北の都、玄武。

 その玄武の都の中心に領主である一族が住むくろすいしようの宮がある。

 医術の都と呼ばれる玄武の地には多くの医家があり、その総本山となるのがこの黒水晶の宮だ。医薬を一手に担う亀氏は、近年のやくぜん茶などの流行に伴い大変な富を成し、皇帝すらもしのぐ栄華を極めていた。その絶大な財力はいつしか政治的実権さえも手中に収め、権力の均衡を乱すほどになりつつあると聞く。

 そのけんらん豪華な黒水晶の宮に、平民の董胡がなぜか場違いに召し出されていた。

 医師の道は平民にも開かれており、董胡は皇帝陛下が公費で開いているりん寮という塾に三年間通い、十七歳で晴れて試験に受かった。しかも首席だった。

 このことに玄武公がいたく感心し、自ら医師免状を渡したいと宮に呼ばれてきたのだ。

 どう考えても人違いだ。しかも一番大きな間違いは董胡の装いを見れば分かる。

 白のほうあさいろしたばかま。髪は両耳のあたりで束にして組みひもで結ぶ角髪みずらにしている。これは医生の基本的な装いで、もれなく男性の服装であった。

 平民にも開かれた医師の道であるが、女性がなることはできない。

 色白で大きな黒目の董胡は、幼い頃から村一番の美童などと言われていたが、きやしやな体格にもかかわらず女と間違われたことはない。服装で間違えようがないからだ。

 どう見ても男性医生姿のはずの董胡に、陛下への輿入れの話などありえなかった。

 どこかの高貴な姫君と順番を間違えて拝謁してしまったのかと、横に控える案内の男性貴族を見た。医術博士の称号を持つ玄武公の側近でしようけいと言っていた。

「驚かれるのも無理はございません。鼓濤様は幼少の頃、悪しき者に連れ去られて行方知れずのままでございました。長年手を尽くして捜して参りましたが見つからず、おやかた様もあきらめておいででした。それが今回の医師試験にて素晴らしい成績を修めた者はどのような素性かと調べるうちに、行方知れずの鼓濤様だと分かったのでございます」

「な! まさか……。だって私は……」

 この宮からは遠く離れた宿しゆくという田舎の村で治療院をしているぼくいん先生に拾われ、弟子として医術を習いながら細々と暮らしてきた。そんな話は聞いていない。

「まさか東の果ての斗宿まで連れ去られていたとはのう。しかも平民の集落で男装となれば、見つからぬのも仕方がない。長い間、見つけてやれなくてすまぬことをした」

 御簾の向こうでかんろくのある低い声が響く。

 本来ならば平民の董胡がかいることもできぬ雲の上の存在だ。その高貴な方の娘だというのだ。誰しもが降ってわいた幸運と思うかもしれない。だが董胡は違った。

「お、恐れながら私は男性で……やはり何かの間違いかと……」

 本当は女であることも、玄武公の娘であることも認めるわけにはいかない。苦労してようやくつかんだ医師への道だ。どうしても医師になりたい理由があった。

 董胡は震える手を握りしめ、玄武公にひれ伏した。

「融通の利かぬところもとうれいにそっくりじゃな」

「濤麗?」

 聞きなれない名前に、董胡は首を傾げた。

「そなたの母の名じゃ。誤魔化しても無駄だ。そなたは濤麗に生き写しだ。一目見て間違いないと確信した。心配せずとも男性と偽って医師の試験を受けたことは不問に致す」

「…………」

 董胡が女であることは、卜殷と兄弟子のようあんしか知らない秘密だった。もしもばれたら董胡だけではなく卜殷と楊庵も死罪になるのだと言われ続けてきた。

 それがすでにばれていることを悲しむべきなのか、不問にしてくれることを喜ぶべきなのか。

「のう、鼓濤よ。長年見つけてやれなかった父を許してくれるか?」

 雲の上の玄武公に父と言われて、董胡はすっかり面食らっていた。

「い、いえ。許すなど……私ごときが畏れ多いことでございます」

「では、許してくれるか? せめてものびにと、そなたに最高の縁組を用意した。皇帝陛下の一のきさきになるのは数多あまたの姫君にとって最高の誉れじゃ。先帝が亡くなられた直後にそなたが見つかったのも神のおぼし召しであろう。娘にしてやれるわしの最高の善意を受け取ってはくれぬか?」

 雲上の方にこのように言われて、董胡は戸惑った。

 それは女性として最高の幸せなのかもしれない。しかし、董胡は今日まで医師の免状を目標に生きてきた。医師を目指すからには、生涯男として生きていく覚悟も決めていた。それなのに今更気持ちがついていかない。

 今日は長年の目標であった医師の免状を受け取る喜ばしい日だったはずなのに。

 これまで学んだすべてが水泡に帰してしまう。

「なんじゃ? この父の善意が不服か?」

 中々返事をしない董胡に、玄武公の声音が少し鋭くなる。

「い、いえ。ありがたきお言葉に感謝致します。ですが医師になるために努力をしてきた、これまでの人生はなんであったのかと、どうにも心が追い付かず……」

 董胡には董胡としての夢があった。皇帝の后になるよりもかなえたい夢が……。

「なんじゃ、そんなことか」

 しかし玄武公はなんでもないことのように鼻で笑った。

「ではこうするがいい。麒麟寮の董胡という医生に、儂は医師の免状を授与することにしよう。董胡という医生は、その免状をもって夢を叶え生涯を終えたのじゃ。そしてそののちは、玄武の一の姫、鼓濤として生きるがよい。それでよいな?」

「…………」

 董胡は言葉をなくした。董胡の十七年の歳月を、そんな一言で葬り去るつもりなんて。

「鼓濤様。お館様のありがたいお申し出ですぞ。それでよろしいですな?」

 章景がこれ以上言わせるなという顔で畳みかける。董胡は絞り出すように答えた。

「どうか……少し……考えさせてくださいませ」

 一瞬、斬り捨てられるのかという空気が流れたが、この日は下がることが許された。


 あいさつの後、董胡が通されたのはふすまきらびやかな客人用の部屋だった。

 隅には美しい薄絹の掛けられたちようがあり、漆塗りにきんぱくで絵が描かれた調度がいくつか置かれていたが、平民の董胡には初めて見るものばかりで何に使うものかも分からなかった。

 困惑したまま、足ざわりのいい上等そうな畳にぺたりと座り込むと途方に暮れた。

「何がどうなってるんだ。あれほど慎重に女であることを隠してきたはずだったのに、まさか亀氏様にばれてしまっていたなんて。どうして……」

 麒麟寮に入寮してからは、自分でも女だということを忘れてしまうほど男になりきっていたはずだった。このまま一生ばれないという妙な自信さえあったのに。

「しかも鼓濤って? この私が亀氏様の娘だって? そんな馬鹿な」

 とんでもない人違いをされたものだと頭を抱えた。

「ちゃんと調べ直して卜殷先生に事情を聞けば人違いだって分かるはずだ」

 この十七年、自分が貴族の生まれだなどと考えたこともなかった。まして玄武公の亀氏様の娘だなどと、夢物語の空想でも思いつかなかった。

「昨日までの私の日々のどこにも、そんなへんりんもなかったんだから」

 董胡は動揺が収まらないままに、昨日までの斗宿での貧しくとも平和な日々を思い返していた。

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