六冊目 愛しい名前-8



**



 沙希がまんまるのリュックを背負って、幼稚園に通っていたころのこと。

 忙しくしていた両親に代わって、共に暮らしていた祖父が、沙希の遊び相手、話し相手だった。


「おじいちゃん!」

「うん? どうした?」

「あのきれいなお茶碗、どうして使わないの?」


 沙希は、大掃除のときにちらりと見かけた茶器が気になっていた。普段使っているご飯茶碗よりもひと回り小さい黒色の器。その内側は美しい青色。その青と緑を合わせたような、鮮やかで、それでいて深みのある色合いがなんとも言えず、沙希の目に焼き付いた。


「あれは、おじいちゃんのおじいちゃんから貰った、大事な物なんだ」

「ちかくで見ちゃだめなの?」

「傷がついてしまったら、大変だからなあ」


 沙希はそれ以上何も言わなかったが、そのあまりにも悲しそうな顔を見て、祖父は頭をかく。困ったなあ、と言って考え込んだ。なんだかんだ孫には甘いのだ。

 色々と考えた結果、祖父は茶器をすぐ近くの神社に、展示することにした。そこの神主は古い物の扱いを心得ていたこともあり、スムーズに話は進んだ。実は、神主をはじめ、近所の人たちも祖父の茶器の噂を聞いていて、興味を持っていたらしい。


「ほんとう!? 見に行っていいの!」

「ああ。触らないって約束出来るか?」

「うん!」


 小さな体でスキップをしながら、沙希は神社に向かった。鳥居をくぐり、境内を少し歩くと、茶器が置いてある場所を見つけた。満面の笑みを浮かべながら、茶器に近づくと、そのそばには、二十代半ばの青年がいた。


「お兄さんも、このお茶碗を見にきたの?」

 沙希が話しかけると、その青年はひどく驚いた顔をして、沙希を見つめ返した。そんな様子は気にせず、沙希は茶器の真ん前に陣取る。


「きれいだよねー、これ。私、ずうっと見てられるよ」

 幼稚園児らしからぬ趣味なのは、祖父の影響だろうか。青年は、何も言わず微笑んでいた。







 それから、沙希は神社の常連になった。神主ともすっかり仲良しだ。

「沙希ちゃん、今日も茶器を見に来たの?」

「うん!」

 話しかけられて、走ってきた勢いをなくさないようにその場でくるりと一回転しながら、元気な声で答えた。そして、いつもの場所に着くと、彼がにこやかに手を振ってくれた。


「あー、今日もお兄さんの方が早かったー」

 今日こそ、彼を待ち構えていようと急いできたのだが、いつも通り出迎えられた。別に、勝負というわけでもないが、沙希は悔しそうに肩を落とした。彼はそんな沙希を見て、何も言わずに笑う。

 何度か会ううちに、気が付いた。彼は話せないようなのだ。しかし、こちらの声は届いている。ならば、何も問題はなかった。


「今日ね、お庭でこんなお花みつけたの」

 そう言って、沙希は握りしめていた白い花を差し出した。彼はにこにこしてそれを受け取った。茶器のそばに置いて、文字通り展示に花を添えた。


「かわいいー。あ! あのね、昨日のよるごはんがハンバーグだったんだけど、すごくおいしくて、おじいちゃんがチーズも入れてくれたの! それから――」

 彼は、一方的に話をする沙希のことを決して邪険にせず、笑顔で聞いている。楽しそうに話す沙希を見るのが、楽しい、と言いたげな表情をしている。


「あ! ねえねえ、かくれんぼしよう!」

 話している途中で、思い出したように彼の手を引く。境内の奥の方へ引っ張っていき、行くよ、と声をかけた。彼は頷くと、目をつぶってゆっくりと手を叩き始めた。十回その手が音を鳴らす間に沙希が隠れるルールである。


「ここなら見つからないよね……」

 沙希は小さい体をさらに小さくして、物置の後ろに隠れた。十数え終わった鬼が、動き出す音がした。だんだんと足音が近づいてきて、もう少し見えにくくなるように、と動いた拍子に、靴が物置に当たってしまった。


「あ」


 彼が物置の裏にひょこっと顔をのぞかせて、沙希を指さした。それが見つけた合図だ。うぅーと悔しがる沙希の反応が可愛らしくて、彼はにっこりと笑った。








 いつものように鳥居をくぐった沙希は、彼の姿を見つけると、得意げにノートを広げて見せた。

「テレビでやってたの。これ、『あお』って読むんだって!」

 ノートには、整った綺麗な字で『碧』と書かれていた。おそらく祖父の書いたものだろう。その横には、絵の具らしきもので色が付けられていた。


「きれいだよね! お兄さんの目と同じ色!」

 沙希は、彼の目を指さして、大発見と言わんばかりに顔を輝かせた。


「そうだ、お兄さんのこと、あおって呼んでもいい? お兄さんの名前わからないから、えっと、なんだっけ、ニックルネール?」

 ニックネームがどうしても出てこなかった沙希は、惜しい単語でなんとか表現した。沙希の言葉を聞いて、彼の瞳が大きく見開かれた。少し潤んだようにも見えた。そして、深く頷いた。


「やったー。碧!」

 提案が受け入れられた嬉しさで、沙希は碧にぎゅっと抱き付いた。この頃から、沙希にとって、碧はただの遊び相手ではなくなってきた。








 その日も、沙希は神社に向かう。だが、表情が暗い。歩き方にも元気がなく、ほぼすり足で歩いていたため、小石につまずきかけた。そうして、いつもより時間をかけて、碧のもとへ着いた。



「碧……うわあああん」

 沙希は、碧の顔を見るなり声をあげて泣き出してしまった。碧は突然のことに驚いて、目を見開いたが、すぐに沙希のそばに駆け寄った。そして、目線を合わせるためにしゃがみ込んで、穏やかに微笑んで問うように首をかしげた。沙希は泣きじゃくりながらも、懸命に語り出した。


「あのっ、あのね、お絵かきの時間に、絵かいたの。先生が、好きなものをかきましょうって」

 泣きすぎて、息が上手く吸えず、何度もしゃっくりをしながら、続けた。


「だからね、おじいちゃんのお茶碗と、碧をかいたの」

 ゆっくり頷きながら話を聞いていた碧が、息を飲んだ。沙希から目が離せなくなる。


「でもね、でもね、りくくんとたくやくんに変なのって言われたの。茶碗が好きなんておかしいって」

 今まで涙をぬぐうために目元にあった手を、バッと振り切ると、潤んだ瞳をまっすぐ碧に向けた。


「変じゃないもん! 好きなんだもん!」

 碧が、大丈夫だ、というように大きく頷くと、沙希は安心したのか、また声を上げて泣き出した。碧はそっと、手のひらを沙希の頭に乗せた。安心できるように、落ち着くように、何度も優しく撫でた。

 そして、沙希の髪に、キスをした。自身の手の上から気づかれないように、そっと。







「え、ひっこしするの……?」

 小学校にあがるタイミングで、沙希は両親と共に引っ越すことになった。詳しい理由はよく分からなかったが、祖父と離れるということは理解し、沙希は嫌だと駄々をこねた。しかし、決定は変わらない。またすぐに遊びに来れるから、と納得させられた。


「碧!」

 引っ越すということを、碧に話さなければ、と思い、沙希は神社に走った。泣かないようにする、と密かに決意して碧の名を呼んだ。


「あのね、ひっこしするんだって。おかあさんとおとうさんと、ちょっと離れたところに行くんだって」

 沙希の言葉を聞いて、碧はいつものように微笑んだが、そこには切なさが滲み出ていた。


「でもね、なつやすみに、遊びにきたら、またいっぱいここで遊べるっておかあさん言ってた!」

 碧の表情を見て、沙希は努めて元気な声を出した。しかし、それがかえって寂しさを増幅させた。


「……やっぱり、さびしいよ」

 口に出すと、涙があふれてきそうになる。ふいに、沙希の視界に小指を立てた碧の手が映った。その意味を理解した沙希の顔からは涙の影は消え、ぱあっと笑みが溢れた。小指をからませて、約束を口にする。


「ぜったい、また遊ぼうね。約束だよ! ……あとね」

 小指はそのままに、沙希は碧にあることを耳打ちした。その頬は淡く染まっている。






 夏休み、沙希は祖父の家に遊びに来ていた。沙希が引っ越してからも、茶器の展示は続けていたらしい。きっと、碧はいつものように茶器を見に来ているだろう。沙希は、見せたいもの、話したいことをたくさん抱えて、神社の鳥居をくぐった。


「碧ー! 見て! ランドセル、水色にしたの。それとね、私、七歳になったんだよ。おねえさんだよ」

 待ちきれずに、沙希はいつもの場所に着く前に話し出した。一度話し出すと止まらない。


「それでね、おじいちゃんから誕生日プレゼントで、このワンピースもら――」

 ようやく碧がいるところに来たのだが、そこには、誰もいなかった。茶器が一つ、置いてあるだけだった。


「碧……?」


 それから、何度神社に足を運んでも、碧に会うことは出来なかった。




**



 長い昔話を終えた沙希は、少し冷めてしまった紅茶を一口飲んだ。


「それから、碧に会えなくて、泣きじゃくりながら母に訴えたの。もうひどく泣いてたから、きっと何を言ってるのか聞き取るのも大変だったと思う。どう解釈したか分からないけど、母はこう言ったの。『いい子にしていたら、また会えるよ』って」

「そこからか」

 桜子はミルクを入れて甘くなったはずの紅茶を、少し苦そうに飲んだ。


「うん。でも、そんなに苦じゃなかったよ。勉強がんばって、先生の言うことも聞いて。そうしたら両親も褒めてくれたし」

 その言葉に嘘はないようだった。『いい子』でいれば、学校では過ごしやすい。


「そのうち、碧との接点だった茶器が博物館にいったことを知ったの。神主さんが代替わりして、展示を続けるのが難しくなったって」

 そのときの祖父の残念そうな顔を思い出して、沙希は少し唇を噛んだ。話の続きを求める桜子の目線に気づき、沙希は唇から歯を離す。


「祖父のためにも、茶器の勉強をしたいと思って、中学のときに文化財科学っていうのを見つけたんだ。……いつか碧に会えるんじゃないかって思いもあった」

「むしろ、そっちの方が目的じゃろう」

 桜子はニヤリと笑みを浮かべて、人差し指の腹を沙希に突き付けてきた。沙希は一瞬、面食らった顔をしたが、ふにゃりと笑った。ここまで話して、今更いい子にする必要はなかった。


「あはは、うん、そうだった。だから、文化財科学を学べる大学に行くために、いい子を続けることにしたの」

「そして今、大学院にも行って学んでいる、と」

「うん。あの神社のことも、レポート課題で調べたりもしたんだ」

「ほう。それで、おぬしはどうしたいんじゃ?」

 沙希は意識的にゆっくり、大きく呼吸をした。飾らないまっすぐな目で自らの望みを口にする。


「やっと、自分で茶器を管理できるようになったの。また、あの神社に置けるようにしたい。碧にまた見せてあげたい。……碧に会いたい」

 桜子は深く頷くと、軽やかに椅子から下りた。


「ふむ、茶器を神社に戻す前に、その想いを知ることが出来れば、ということじゃな。分かった。調べてみよう。何か分かったら連絡するから、待っておるのじゃ」

「ありがとう」

「お安い御用じゃ」

 両手を腰に当てて、桜子は得意気に答えた。


「それと、話を聞いてくれてありがとう」

「聞いただけじゃ。礼はいらぬよ」

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