六冊目 愛しい名前-5



「ここが依頼したい物が置いてある博物館か?」

「うん。ちょっと待っててね」

 そう言って沙希はチケットを買いに行き、桜子はその場で待っていた。かなり、大きな建物だった。その外壁は白く、ぱっと見は洋館のようだが、細部を見ると軒があったり、屋根は瓦を使用していたりと、見事に和と洋が調和している。桜子の好みだった。


「お待たせ、行こう」

 連れ立って中に入ると、建物の中央を貫く大階段が目に飛び込んできた。大階段の踊り場には縦横共に、人一人分はある大きな絵が飾られている。階段は踊り場を経て、左右に分かれ、二階へと繋がっている。


「ほう、ずいぶん立派なところじゃのう」

「すごいよね。私も、ここに来るのはだいぶ久しぶりなの」

 沙希は頬を高揚させて、そわそわと辺りを見回している。もともと美術品、芸術品が好きなのだろう。場に酔い始めている。


「目的の物を見終わったら、見て回るのに付き合ってやるから、落ち着くのじゃ」

「え、そんな、私見るの長いし、悪いよ」

「余計な気を回すでない。わたしも見たくなってきたからのう。ほら、早く依頼の物のところまで案内するのじゃ」

「うん、ありがとう」

 目を伏せて微笑んだ沙希は、傍にあった館内マップを手に取った。展示品のリストを指で辿っていき、目的の物を見つける。


「北側三階の一番奥のブースにあるみたい。この前、改装したらしいから、エレベーターもあると思うけど……」

「ふむ。せっかくじゃからのう、この立派な大階段を使うとするか」

 桜子のその言葉と表情は、沙希の意図を汲み取ったものだった。沙希は嬉しそうに微笑んで頷いた。階段で二階に上がると、照明が暗めのブースが目立つ。光や温度の細やかな管理が必要なのだろう。照明が当てられている展示物に、二重、三重に人が群がっている。


「なかなかに混んでおるのう。それに、さすがは博物館といったところか。こちら側の者も紛れ込んでおるのう」

 桜子は興味深く辺りを観察している。博物館には、この世に百年以上在る物――開化した者たちが多くいる。うす暗い館内は、人に紛れやすいのだろう。


「桜子さん、三階への階段はあっちにあるみたい」

「うむ」

 先を歩いていた沙希が、振り返って桜子を呼んでいる。すぐにあとを追おうとしたが、聞き覚えのある声を聞いたような気がして、桜子は耳を澄ます。


「む……」

「……とても素敵なところですね」

「ああ、管理が行き届いているな」

 桜子たちが上がった階段とは反対のところに、柳と灯の姿を見つけた。灯のところに遊びに行っていただけか、と桜子はほっとした。手を大きく振って柳を呼ぶ。


「おーい!」

「桜子さん、どうしたの? 知り合いがいたの?」

「うむ、留守にしていた店主がそこにいたのでな」

 急に声を上げた桜子のそばに、沙希が戻ってきた。桜子は沙希の手を引き、柳の元へと足早に歩いていく。博物館は走ってはならないのだ。


「柳!」

「さ、桜子さん……」

 桜子が声をかけると、柳はひどく驚いた様子で応えた。その反応に少し違和感を覚えたが、特に気にもせず、桜子は柳に歩み寄った。


「おぬし、灯のところにいたのか。書き置きでもないと、分からぬぞ。まあよい、依頼がきたのじゃ。帰ってこい」

「……っ」

 柳は、あからさまに顔をそむけ、何も答えようとはしない。さすがに様子が変だと感じた桜子は柳の手を掴んだ。


「おい、柳? どうしたのじゃ、帰るぞ」

 桜子が引き寄せるために力を入れたのをきっかけに、柳に手を思いっきり振り払われた。


「!?」

 予想外のことに、桜子は思わず後ろによろけた。転んでしまう前に、その体を沙希が支えてくれた。


「大丈夫?」

「おい、灯」

 沙希の心配する声をよそに、桜子は灯に向かって、地を這うような低く重たい声で問うた。柳がこんな態度を取る理由、灯の仕業に違いない。


「おぬし、柳に何を吹き込んだ」

「失われた記憶のことを少々」

「……!」

 桜子は目を見開き、息を飲んだまま固まってしまった。

 そんな桜子を見て、柳は、頭のどこかであの話は嘘ではないかと微かに抱いていた希望が、完全に崩れ落ちた音を聞いた。


「やっぱり、私は、いらない物だったんですね」

「柳!」

 桜子は再び、柳の手を引こうとしたが、触れる前に払われてしまった。


「どうして嘘をついたんですか!? それを知って、桜子さんを責めるとでも思いましたか? 物書き屋を捨てると思いましたか? 万年筆を折ろうとすると思いましたか? そんなに信用なかったですか!?」

 言葉の中のいくつかは柳が今まさにやっていることであったが、理性が感情に呑まれている今、それには気がついていないようだ。


 共に物書き屋をしてきて、一度も聞いたことがない、柳の怒りのこもった声に、桜子は何も言えず、立ち尽くしてしまう。柳の、桜子を映す瞳には、いつもの穏やかさも優しさも見られない。


「落ち着け、柳。館内だ」

「……すみません」

 静かな灯の声に、落ち着きを取り戻した柳は、くるりと背を向けてその場を去った。灯は、歩き出す前、一瞬桜子の方を見たが、結局は何も言わなかった。

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