五冊目 時は進む、あなたと共に-5



 何度目かの執筆室での話のとき、柳はトキ自身のことについて尋ねてみた。トキはそれまで、主に灯のことをしゃべり倒していて、自身のことをあまり口にしなかった。


『……あたしのこと、しゃべってもいいの?』

「はい。ぜひ聞かせてください」

『うるさく、ない?』

 おずおずと、柳の反応を見ながらそう聞いてきた。大丈夫だ、という返事を求めているように見えた。柳は、一度万年筆を置いて、まっすぐにトキを見て答えた。


「はい。私が、トキさんの話を聞きたいんです」

 トキは、安心した表情を浮かべて、ようやく口を開いた。


『最初の持ち主は、女の子だったと思う。一年も経たずに捨てられたから、顔とかももう覚えてないんだ。でも、音がうるさい、こんなのいらない、って言われたのは、覚えてる』

 常に笑っていたトキから、笑顔が消えた。七、八十年も前に言われたその一言は、ずっとトキの顔を曇らせてきたのだろう。きっと、この先も。


『でもね!』

 ぱっと笑顔が戻ってきて、トキは話を続ける。


『そのあと、灯さんが拾ってくれたの。もう誰にも使われないと思ってたのに、灯さんが使ってくれた。嬉しかった』

「いい方に出会いましたね」

『うん! でもね、あるとき、故障で針が止まっちゃって。あたし、止まると意識が飛ぶんだけど、意識がなくなる直前、また捨てられるんだろうなって。もう目が覚めることもないかなって。まあ、それでもいいかなーって思ってたの』

 当時を思い出すかのように、トキは目を細めて遠くを見ている。柳は、静かに話の続きを待つ。


『それでね、しばらくしたら、声が聞こえてきたの。トキ、って呼ばれて、目を覚ましたの。そしたら、灯さんがいて、やっと起きたか、って言って、笑ってくれたの』

 トキは溢れんばかりの笑みを浮かべた。やはり、灯のことを語るときが一番楽しそうで、魅力的だ。


『それから、あたしが何度止まっても、そのたびに修理してくれるの。完全に止まる前に、身振りで申告しろ! って怒られるんだけど』

「あ、今の言い方似ていますね」

『でしょでしょー。こんなあたし、使いにくいはずなのに、灯さんはずっとそばに置いてくれるの。あたし、すっごくすっごく幸せだよ』

 トキの言葉と笑顔を見て、灯の心配は杞憂であることは確信出来た。灯が依頼をしたことも、トキを大切に想うゆえだろう。


「トキさんが思っていること、灯さんにきちんと伝えますね」

『うん! 使ってくれて、名前までくれた。あたしは灯さんのものだよ! って伝えてね』

「分かりました」

 無邪気でまっすぐな少女の想いをできる限り、そのまま灯に伝えなければと、柳は万年筆を動かす。


『ねえ、あなたも名前付けてもらったの? それとも自分で付けた?』

「付けてもらいましたよ、桜子さんに。万年筆の柄の部分に柳の木が装飾されているので、柳、と。確か桜子さんは家の柱に桜の木が使われているから、自分でそう名乗ることにした、と言っていましたね」

『へー、そうなんだ。灯さんはどうなんだろうー?』

「今度聞いてみましょうか」

『ううん。開化したら自分で聞いてみる! 好みの子も聞きたい、けど、恥ずかしい……いや、頑張る』


 トキは、ぶんぶんと頭を振って、柳の提案を止めた。慕う相手のことは、直接聞きたい、ということだろう。好みの子を聞いてそれに近づこうとしている健気さを見ていて、柳は知らず知らずのうちに、微笑んでいた。

 トキがふいに柳の顔をじっと見て呟いた。


『あなた、そうやって笑うと少し幼い感じがする』

「えっ、そうですか?」

『あっ、いや、けなしてるわけじゃないんだよ。えっと、可愛い感じっていうか。あ、でも可愛さなら灯さんの方が……待って! 今のなし! なしじゃないけど、書いちゃだめー!』

 慌てて墓穴を掘ったトキは、またしても、うずくまってしまった。柳は万年筆から手を離し、書かないという意思を示してから、トキに言った。


「トキさんは、本当に灯さんのことが好きなんですね」

「うん! 灯さんのこと好き! 大好き!」

 そこは素直に言うらしい。


「あなたは?」

「?」

「あなたは、桜子さんのこと、好き?」

 その返しは予想しておらず、柳は一瞬、目を見開いた。すぐに穏やかな笑顔になり、声をひそめることもなく答えた。


「ええ。好きですよ」


 目線を執筆室の戸、その向こうにいるであろう桜子に向けたときの柳の表情は、トキが見惚れるほど、優しさで満ちていて、美しかった。

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