四冊目 また会う日まで-5
その後、ひとみと柳もキャラメルを食べて、道が大幅に変わったので、授業は中断となった。
「柳、あれを持ってくるのじゃ」
「はい」
桜子に言われ、柳はカウンターの下から本を持ってきた。それが、探していたものだということは、ひとみにも分かった。
「それが、おばあちゃんの忘れ物、の本……?」
「そうです。実は――」
柳はひとみの耳元で内緒話のように、言葉を続けた。
「少し前には保管場所は分かっていたんですが、桜子さんが、授業が楽しいから、と。すみません」
柳はわがままな主人を持つ執事のように、困り顔で微笑んだ。謝罪とともに本が手渡される。柳の表情を見ると、柳自身も楽しんでくれたことが分かる。
「いや、そんな。楽しんでくれたなら嬉しいし、あたしも楽しかったから!」
「そう言っていただけると、ありがたいです。私もたくさん勉強させていただきました。ありがとうございます」
柳の礼を受け取って、ひとみは改めて手にした本をまじまじと見つめる。表紙には『また会う日まで』とある。
「これが……」
「覚えていませんか? おばあさまが一緒に取りに来ようと言ったとき、『来年が楽しみだ』と言っていたことを」
「普通、執筆は二週間あれば出来るのじゃが、孫が次にくる夏休みに取りにくるからと言っておったのう」
柳と桜子からの情報提供で、ひとみの中の幼い記憶がまた引っ張りだされる。おばあちゃんに手を引かれて、ここに来て、また夏休みに、と言ったこと。
「あ、そういえば……。でもそのあと、急に海外に行くことが決まって」
「ええ。約束の一年後、おばあさまは一人でご来店されて、完成した本をお読みになりました。ですが、いつか一緒に取りに来るから、保管していて欲しいと頼まれました」
「そう、だったんだ。でも、どうしてあたしも一緒にって……?」
「読むのじゃ。そうすれば分かる」
桜子の強い言葉に後押しされて、ひとみは本を開いた。
~・~・~・~・~・~・~・~
僕は、おばあちゃんに作ってもらった。布と糸と綿で。ひーちゃんに会うために。
白黒の僕を一目見て、可愛いと言ってくれて本当に嬉しかった。この世に生まれて良かったって思ったんだ。
それから、僕たちはずっと一緒だった。公園に一緒に遊びに行ったりした。
「すべり台、一緒にすべるよー。せーのっ」
君はすべり台が大好きで、僕もあの風を切る感覚は面白くて、好きだった。公園、楽しかった。でも、ブランコで僕だけ飛んでいっちゃったときは、ヒヤッとしたな。すぐに拾ってくれて、怪我もなかったから、良かった。
雨のときも一緒だった。あるとき、僕が水たまりに落ちちゃって、白いところが茶色になって、何の動物か分からなくなるくらい汚れたんだ。それで、僕を助けてくれようとした君も泥だらけになっちゃった。
「どろどろだー。お揃いだね」
そう言って笑った君の鼻の頭に、ちょこんと泥が乗ってた。それが可愛くて、面白くて。こんなこと言ったら怒られそうだけど。
いつも手を繋いでたからか、肩の糸がゆるくなってたみたい。ある日、僕の腕が取れた。すごくびっくりさせたみたいで、君は自分のことのように泣いてくれた。
「腕、取れちゃって痛いよね。ごめんね」
大丈夫。おばあちゃんがすぐに直してくれたから。痛くないよ。
「ごめんね。ごめんね、あたし、嫌われちゃったかな。そんなの嫌だよー」
「きっと大丈夫だよ、ひーちゃん」
「本当? あたしのことどう思ってるのか、聞きたいな……」
僕の目を見て、君はそう言った。その場で伝えられたら、どんなに良かったか。
それから、時間が経って、おばあちゃんはこの店を見つけて、僕を連れてきてくれた。その頃は、君も大きくなってたから、前みたいにずっと一緒、というわけではなかったけど、寝るときは一緒だった。泥だらけになる心配はなくなったけど、少しだけ、寂しかった。
ともかく、この店に来たから、僕の言葉をやっと伝えられる。嫌いじゃないよ、大事な友達だよって。どんな顔をしてくれるか、楽しみだった。
でも、待っても迎えは来なかった。おばあちゃんは一度来てくれたけど、またね、と言って帰ってしまった。
僕が寂しくないように、ってここの店員さんが二階のぬいぐるみ仲間のところへ連れていってくれた。皆と一緒にいるから、独りじゃない。でも、やっぱり寂しいな。
僕は、おばあちゃんとひーちゃんにまた会える日を、待ってる。ずっと。
~・~・~・~・~・~・~・~
「どうして……」
本を閉じたひとみは、声を震わせた。堪えるように両手で本を握りしめる。その目は本を凝視しているが、どこか焦点が合っていない。
「どうして、忘れてたんだろう。おばあちゃんが作ってくれた、ぬいぐるみ……」
言葉を失うひとみの正面に柳が腰掛けて、そっと語りかけてくれた。
「実は、今から八年ほど前、おばあさまがもう一度ご来店されたんです」
「え」
「一緒に取りにくるのは難しいかもしれない。けれど、ひとみさん、あなたがいつか取りに来るときまで置いていて欲しい、と」
ひとみの口は、どうして、と動いたが、声が伴わず問いかけは空中に消えた。忙しい毎日を送る中で、ぬいぐるみのことは忘れてしまっていた。だが、高校生の夏休みに顔を出したときも、国際電話をしたときも、祖母は何も言わなかった。
「言ってくれれば、良かったのに。一緒に、行ったのに」
ひとみは下唇を噛んで、後悔を押し殺していた。その様子を見て、桜子は伏し目がちに笑った。
「その時、あいつはこうも言っておったのう。『ひーちゃんの世界がどんどん広がって、大事なものの優先順位が変わっていったんだね。それが成長というもの。嬉しいことだけど、ちょっぴり寂しいね』」
今、声を発したのは、確かに桜子だった。だが、ひとみには、今まさに祖母が話しているように聞こえた。祖母のゆったりとした優しいあの声で。
「おばあちゃん……」
家が遠い、忙しい。確かにそうだったのだが、それらは使い勝手のいい言い訳だった。会いに行こうとすれば、出来たはずだった。もっと話が出来たはずだった。もっとありがとう、と言えた。もっと他愛のない、どうでもいい話が出来た。どうして、とひとみは過去の自分に問うが、もちろんその答えは、今の自分が知っていた。見えて、いなかった。
柳はすらりと長い人差し指で、ひとみの持つ本を示す。
「そのとき、もう一つ頼まれたことがありまして。便箋を一枚、本の最後に挟んでほしいと。いつか本を見たときに伝えられるようにと」
「!」
柳が言い終わる前に、ひとみは本の一番後ろのページを急いで開いた。祖母が、どんな言葉を残したのか、早く知りたい。しかし、少し怖さもあった。思わず細めた目をゆっくりと開けて、便箋を目にする。
『ちゃんとご飯食べるんだよ』
そこには、少し右上がりな優しい祖母の字が微笑んでいた。ひとみは、便箋の字が滲まないよう、潤んだ目を天井に向けた。
「ハンカチ使いますか?」
「ううん、大丈夫。大丈夫」
いつの間にか席を外していた桜子が、預かっていたぬいぐるみを持って二階から下りてきた。座っているひとみの目線の高さになるように、頭の上にちょこんと乗せて、差し出した。
「ほら」
ひとみは両手でそっと、ぬいぐるみを持ち上げて、黒いボタンの瞳を見つめた。
「あんなに大事にしてたのに。お気に入りだったのに。迎えに来るのが遅くなってごめん、おかえり」
微笑みかけると、胸の中でしっかりとぬいぐるみを抱きしめた。涙が一つ零れ落ちて、白と黒の狭間を濡らした。
柳が淹れなおした温かい紅茶を飲んで、ほっと一息をついたひとみは、桜子にありがとう、と声をかけた。このぬいぐるみは、預けてから今まで桜子の部屋で暮らしていた。桜子もそれなりに思い入れがあるのか、持ち主の元に戻ったぬいぐるみの頬を人差し指で何度も突いている。
「それにしても、可愛らしいウシじゃのう」
「ん? これダルメシアンだよ?」
さも当然のように、ひとみはそう言った。
「え」
「え」
「え?」
疑問符の合唱をしたところで、桜子は突いていた指をめり込ませた。
「ちょっと待て! こいつ、ウシじゃなかったのか!」
「うん。小さい頃、犬が飼いたかったんだけど、飼えなくて。それで、おばあちゃんがこれを作ってくれたんだ。」
ひとみがウシ、ではなくダルメシアンの頭を撫でている横で、桜子はぼそりと呟いた。
「どう見てもウシなのじゃが……」
「ダルメシアンだよ!」
小さく言ったつもりだったが、ひとみには聞こえていたらしい。ぬいぐるみを鼻の先まで突き付けられた。間近で見ても、やはりウシなのだが、ひとみと祖母の間ではダルメシアンなのだ。桜子はひとみに見えるように、大きく頷いてみせた。
「うむ、そうじゃな! ダルメシアンじゃ」
「ダルメシアンですね」
「うん。ダルメシアンだよ!」
物と本を渡したということは、家庭教師も終わりということ。ひとみとの最後になるかもしれないティータイムを、桜子と柳は楽しんだ。もちろん、英語での道案内の授業もちゃんとしてもらった。
腕時計を見て、寂しそうにそろそろ、と言ったひとみは、本とぬいぐるみを大切に鞄の中に仕舞い、立ち上がった。柳もそれに続き、片手を胸に当てて微笑んだ。
「ひとみさまの物語の続きが、優しいものであると、願っています」
「本当に、ありがとう」
「こういうときは、英語でなんと言うのじゃ」
桜子は手を振りながら、英語の先生に尋ねる。ひとみは桜子の目線になるように屈んで応えた。
「そうだなー、また会いたいから、See you laterがいいな」
「はい。またのご来店を、お待ちしています」
「しーゆー! れいたー! じゃ!」
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