ハートのエースと元彼女

地水片木

元彼女

 どうやら自分は未練がましい、随分と女々しい人間なのだな、と男は思った。

 彼には特別に自虐趣味があるとか、そういうわけではなかった。従って『自家発電』的に快楽を得ようとそんな思考を働かせたわけではない。

 ではなぜそんなことを思ったかといえば、新幹線で地元へと戻る間、ずっと元彼女のことを思い出していたからである。


 その彼女とは、東京の大学に進学が決まった時には別れようと決めていた。

 遠距離恋愛など、ものぐさな自分にはできないだろうし、相手にも真摯に向き合えないであろうと、浅慮な彼なりに考えての行動だった。

 だが自分から切り出した別れとはいえ、元彼女は随分な美少女であったので、その分後悔も大きかった。

 呆気ないくらいあっさりと承諾された別れ話もまた、勿体なく思わせる要因であるのかもしれなかった。


 さて、そんな彼——小路瑞樹こうじみずきは帰省中である。理由は単純で、年末だからである。都内の学生アパートで年を越すことも考えたけれど、共に過ごせる筈の友人達は皆帰省するらしかった。畢竟、彼も帰省という選択をした。


 ホームに降りると、冬の風が冷たかった。新幹線の車内の、効き過ぎるくらいの暖房で惚けた脳が引き締まる感覚が心地良い。

 3月終わり頃には東京へ出たのだから、都合9ヶ月ぶりくらいの地元であるのだな、と、冴え始めた頭で思考を巡らせる。元彼女とも、それほど会ってないのだと思うと意外だった。

 だが、意外に感じるのも致し方ないだろう。なにせ彼は東京に居るときでさえ、ほぼ片時も忘れることがないほど、元彼女のことを考えていたのだ。

 ——要するに彼は、自身の想像しているよりも何倍も女々しかった。


 よし、と一息つくと、瑞樹は歩みを進めた。足の向かう先はもちろん自宅である。

 大学の授業が終わってからその足で帰郷したので、晩御飯は食べ損ねている。寒さにひもじさが重なると一気に惨めな気分が増すのだと、彼は知った。


 ふと空を見上げると、冬の空は高くて近い。空気が澄んでいるせいだろうか、星がハッキリと見える気がした。

 こんな星を見て、隣にあの子がいればなぁ。場当たり的に彼女を振ったくせして、未練タラタラな元彼氏こと小路瑞樹は、そんな妄想を膨らませながら自宅への道を歩む。


 友人はできた。中には異性もいた。けれど、そのうちの誰とも懇ろな関係にはならなかった。

 勿論、それは偶然そうだっただけで、今後そういった相手が出来ないとも限らない。けれど、そんな相手が出来たとしても、彼にとって元彼女は特別な存在には違いはなかった。

 瑞樹は、彼女を思い出してしまう理由をそう結論付ける事にして、濃紺の帷に空いた光の隙間のような星を見上げた。


 しばらく進んで、不意に一組の男女に目を引かれる。——正確にはその男女の、主に女の背中に見覚えがあった。

 背格好といい、服のセンスといい、何度も何度も想い出してきた彼の元彼女のそれであった——そうであるのならば、おそらくそれは元彼女その人だ。彼の内心は急にざわつき始めた。

 もしかして隣の男は今の彼氏だろうか?見つかったらとても気まずくなるだろう。それは向こうにも悪いし、こちらとしても本意ではない。

 あれこれ思案した末、彼はこっそりと追い越してしまおうと結論を出した。その子ひとりであれば声をかけたいのは山々であるが、こと逢引の邪魔をするほど、小路瑞樹という男は野暮ではない。

 肩をすくめ俯き加減に歩けば、少なくとも顔をはっきりと視認されることはない。つまり、バレない、と考えた。

 身を縮こめて歩くスピードを速める。パタパタパタ、と、底の減ったスニーカーの乾いた音がいやに大きく聞こえる。


 そうして、無事に追い越した——と思った矢先、「あれ、瑞樹?」と声をかけられ、ギクリと足を止めた。どうやら、こちらが向こうの背中を覚えていたように、向こうもこちらを覚えていたらしい。

 気を遣ったのだから察しろよ、と言いたくもなったが、こちらが勝手に遣った気だったな、とすぐに思い直す。


 はてもさても、どんな顔をして良いか分からない。取り敢えずニヘラ、と締まりのない愛想笑いで振り返る。

「よ、よお。久しぶり……」

 そう挨拶してやると、その子はまじまじと俺の顔を覗き込んで、「やっぱり、瑞樹だった」とどこか嬉しそうに言った。

 元彼女——三鶴城枕みつるぎまくらと、隣に立つ男を矯めつ眇めつ見る。三鶴城は、相変わらず美少女と言って差し支えない容姿であった。彼女の艶やかな黒髪は少し伸ばしたのだろうか?別れた時より長くなっている気がした。だが、あどけなさすら感じる無邪気な笑みに、懐かしさがこみ上げる。


 男の方は、と視線を移す。こちらは金髪に、所謂『無造作ヘア』のお手本のようなクシャッとした頭をしていた。耳のピアスといい、チャラそうな印象を受ける。

 そういえば無造作ヘアというのは、ちっとも造作も無くはないので、正しくは造作ヘアと形容すべきではないかな。と、どうでも良いことが頭を過ぎった。


「なにしてるの?ていうか帰ってたんなら連絡してよ」

 楽しそうに言葉を発する三鶴城と、つまらなさそうにスマホをいじる現彼氏(?)と、気を遣って「お、おぉ……」と曖昧な返事しかできない元彼氏。なんだか変な三角関係だ、と、どこか他人事のように瑞樹は思った。


 不意に、ふわっと甘い香りと焦げるような香りの混ざった変な匂いがした。すぐに、煙草と香水の混ざった匂いだと合点が行く。

 そしてそれは、どうやら三鶴城の現彼氏(?)の匂いだとわかった。彼女はタバコを吸わないし、それなりに離れていてわかるくらいのきつい香水をつけるようなやつじゃない。

 よく鼻が効く瑞樹には、その匂いは一度気になるとどうも駄目だった。元々あまり煙草の匂いが好きではないし、香水の人工的な匂いも得意じゃない。 

 嗅覚に思考の邪魔をされるような感覚に身悶えしながら、三鶴城に話しかける。

「まく……じゃなくて、三鶴城。俺は家路を急いでるんだ。悪いけれど、これで」


 じゃあ、と、踵を返そうとすると、彼女は瑞樹の服の左袖を掴んだ。

「え、待って。もうちょっと話そうよ」

 大きな瞳が潤んでいる。彼女のそれをみると瑞樹はと弱い、が。

「いや、お前その人はどうするんだよ」

 隣の金髪男に視線をやりながらそう言う。というか、この彼氏なにしてんだ、と彼は思った。

 彼女が元彼氏とのお喋りに花咲かせてるのに、知らぬ存ぜぬでスマホを弄るなんて。そのうち花が満開になっちゃっても知らないぞ。そんな要らぬ老婆心が顔を覗かせる。


「あ、そっか」

 三鶴城は思い出したように呟くと、男になにやら言伝た。内容ははっきり聞き取れないが、『私は行かない』とか、聞こえた気がした。尤も、盗み聞きの趣味もないので、なるべく意識しないようにそっぽを向いて待つ。

 ふと、瑞樹は自分の服の右肩のあたりに糸くずが付いているのに気づく。取ろうとして、左の袖を掴まれているのが気になった。仕方がないので、取りにくかったが右手でそれを払う。


 そうこうしていると、どうやら話のまとまったらしい三鶴城がこちらを向き直る。

「じゃあ、行こうか?」

「は?行こうか、とは?」

 まさか、彼氏をほっぽり出して元彼氏とお喋りしようということではないだろう。では、どこへ行くんだ?トイレかな?別にもよおしてはないのだけれど、などと愚にもつかない考えが浮かんでは消えた。


「瑞樹、帰るんでしょ?ついて行くからちょっと話そうよ」

 そのだった。

「いや、お前な……」

 彼氏はどうするんだよ、と言いかけたが、すぐに言葉を被される。

「良いでしょ。積もる話もあることですし?」

 少し頰を赤らめながらそう呟く様子を見て、抗議する気も失せていく。

「……とりあえず、袖を離してくれませんか?」

 服伸びちゃうんで。と、控えめに言うと、「あ、ごめん!」と言う言葉とともにその左手が自由になった。

 ——手を離した三鶴城の、その赤くなった頰に意味を探す彼は、やっぱり元彼女のことを特別に想っているらしかった。




「なんか、趣味変わったの?」

 久々に帰ってきた自室の安楽椅子に座った小路瑞樹は、ベッドの端に座る女の子に改まって話しかける。

「趣味ってなんの趣味?」

 結局家までついてきてしまった、美少女と言って差し支えない容姿をしているその子は、何が面白いのかはにかんで答えた。

「男の。あれ、彼氏だろう?」

 気を使うと逆に変な空気になりそうだったので、なるべくぶっきらぼうに訊ねる。

「あ、あれ彼氏じゃないよ。先輩」

 女の子はそう笑い飛ばす。

「今日仲間内で食事会があってね?家が近いから一緒に行こうって言ってたの」


 その言葉に、少し安堵した。自分とはまるで違うあの男が今の彼氏だったとしたら、三鶴城は無理をして俺と付き合っていたのかな?と、いらぬ心配をしていた。

 そんな瑞樹をよそに、その子は試すような笑顔で続ける。

「もしかして、嫉妬したの?」

「は、はぁ!?嫉妬なんかしませんけど!ただあの男とはなんとなくお似合いじゃないな、とか思っただけですけど!」

 核心を突かれた気がして慌てて否定すると、ふふ、と笑い声が続いた。

「……知ってるよ。瑞樹はもう気持ちに折り合いがついてるんだもんね」

 呟かれた言葉は、寂しさの色が濃い気がした。


 続く話題を探しあぐねていると、今度は三鶴城から再び明るい声で質問が投げかけられる。

「瑞樹は、彼女とかできたの?」

 その質問には、あっさりと返答できる。

「できるわけない。俺がモテないのは三鶴城もよく知ってるだろ」

「わかんないよ?『蓼食う虫も好き好き』って言うじゃん」


「それ、俺のこと『蓼』だって言ってるよな?」

「そうだとしたら、私は虫なわけですし?」

 これならやっぱ、お似合いだったね。三鶴城は嬉しそうに笑った。瑞樹も釣られて笑う。

 こうして話していると、ふたりはあの頃と変わらない、その辺の恋人のようだ。と、彼は思った。

 甘い風のようなくすぐったい感覚は、しかし同時に心に空いた隙間も感じさせる。


 こんな、『だらしのない友達』みたいなフリをしたふたりだったから、別れたのかもしれないな。なんて妙な自責の念に駆られそうになって、瑞樹は慌ててその思考から目を逸らす。

「三鶴城こそどうなんだよ。お前可愛いんだから、彼氏くらいできただろ」

「私こそ恋人は出来ないよ。そのつもりがないもん」

 誰かさんに振られてからは、と、チクリと付け加えた。

「そっか」

「そうだよ、まったく」

 むぅ、と頰を膨らませたのを見て、この子はもう俺の彼女ではないのだな、と彼は改めて思った。


「あ、この漫画懐かしい。まだ持ってたんだね」

 三鶴城が部屋の本棚に残っていた漫画を見つけて、それを引っ張り出して開く。

「適当な飯でも持ってくるわ。寛いでて」

 すでに寛いでいる元彼女にそう言って、自室を後にする。

「お構いなく〜」なんて、気の抜けた声を扉越しに聞きながら階段を降りる。

 彼女は、どういうつもりで来たのだろう。別れは円満だった。「別れよう」「わかった」なんてあっさりしたやり取りだったし、後腐れなんてなかった。

 もしかしたら、彼女も惜しいと思っていてくれたのだろうか。だとしたら、今ならもっと上手く——。

 そこまで考えて、彼は軽く首を振った。そんなのだから、俺は女々しいのだ。

 今後彼女は、この街で誰かと笑い合うのだろう——その時彼女はどんな話で笑みを浮かべているのだろうか?

 実際にそうなるか分かりもしない妄想に少し落ち込みながら、彼はそんな風に考えるのをやめられなかった。


 ——その後、彼女とは晩飯を共にした。剰え彼女は風呂にまで入った。幸い、姉の服が家に残っていたのでそれを着てもらった。そうして瑞樹の部屋へと戻ってきた彼女とぼーっと小説や漫画を読み耽っていると、いつの間にやら時計の針は0時を指そうとしていた。

 暖房の効いた部屋は快適で、つい本に没頭してしまっていた。

 ふと部屋の隅のベッドを見ると、彼女は寝てしまっているらしい。長い睫毛だとかがやたらと綺麗に見えたが、まじまじと寝顔を眺めるのも悪い気がして視線を本に戻す。

 付き合っていた頃もこんな事があったな、と思い出す。今と関係は違っているけれど、変わらずにこうしているのが、なんとなくくすぐったい。


 ——次第に、活字が滑って小説の内容が頭に入ってこなくなった。どうやら俺も眠くなってしまったらしいな、と彼は思った。

 立ち上がり、蛍光灯の紐を引く。パチパチパチ、と小気味の良い音がして、灯が消えた。


 カーテンの隙間から、一筋光が差し込んでいるのに気づく。カーテンを開けると、月が綺麗だった。

 月光は、ベッドで横になる彼女の影を作る。意外と小さな身体だとか、長い髪だとかがやけに気になって視線を外せない。


 ベッドに歩み寄る。


 ゆっくり、髪に手を伸ばす。


 ——指先が、そっとその髪に触れた時。


「ダメだよ」


 声をかけられて、ピタ、と指が止まる。


「それ以上はダメ」


 鼻にかかった眠たげな声は、妙に艶やかに聞こえる。

 彼女が何をダメと言っているか理解するのには、それほど時間はかからなかった。


「ごめん、そういうつもりじゃなかった」

 呟くと、返事はなかった。寝返りをうった彼女は、一度深く呼吸して、再び静かな寝息を立てる。


 手を引っ込めた。俺も寝よう、そう思った。

 彼女に毛布をかけてあげて、自分にかけるものがないことに気づいた。——まあいいか、暖房、効いてるし。そう思って床に横になる。

 髪、やっぱりサラサラだったな。なんてことを思い返しながら、彼は固い床に意識を沈めた。


 ——朝、うるさいくらいに眩しい日差しで起きると、ベッドにはもう彼女はいなかった。

 不意にふわりとあの子の良い香りがして、自分に毛布がかけられていることに気づく。毛布にくるまってみると、良い香りに包まれているようで心地よい。

 これは東京に戻ってから、また身を刻まれるような孤独感に苛まれるな、なんて、寝惚けた頭で考える。

 しばらくそうしてもそもそと微睡んでいると、パタパタと何者かが階段を上がってくる音がした。親が起こしに来たのかな、と思った。


「——朝だよ、起きて?」

 声は、親のものではなかった。

「起きてる。お前の使った毛布めっちゃ良い匂いがするな」

 寝惚けているのを良いことにふざけてみると「変態」と愉快そうな声が聞こえた。

「だいたい、〇〇だって同じ匂いの石鹸とシャンプー使ったでしょ」

 さもありなん、である。彼女の言葉に、彼はそう思った。足音がベッドに向かって進んでいくのが聞こえる。どうやら、腰掛けるつもりらしい。


「——なぁ、やっぱり俺、お前のこと好きみたい」

 毛布から顔を出しながらそう言った瑞樹を、彼女は2、3度瞬きをして見つめた。そして、何を思ったかベッドの枕元にあったトランプケースを開けた。その中から何やら一枚のカードを探し出す。


「——そんなに簡単に、ヨリを戻せると思わないでね?」

 瑞樹に逆向きのハートのエースを見せながら、三鶴城は曖昧な表情でそう言った。


 そっか、まあこれで良いか。瑞樹はそう思った。

 だいたい、彼から別れると言ったくせに都合が良すぎるのだ。三鶴城には、にはなって欲しくなかった。だから、これで良い。


 そんな風に思っていると、三鶴城はベッドから立ち上がりながら呟いた。


「——まあ、私も結局瑞樹のこと、その辺の男の子だって思えないけど」


 グラっと揺れた心を自覚して、言葉が口をついた。


「それなら——それならお互いに、結末を急ぐ必要はないのかもな」


「——そうかもね」と、ふわっとした笑みを浮かべる三鶴城枕は、今はまだやっぱり『元彼女』であるらしかった。

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ハートのエースと元彼女 地水片木 @chimizu_jaku

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