夏祭り

「祭り?」

「うん、お祭り」

 彼女が言い出したのは、半袖でも汗が滲み始める初夏のホームだった。


 祭りに誘われたのは嬉しいのだけれども、中学に上がってからは参加したことがない。いや、小学生たちが巡ってくるのにお菓子を渡したりはしたけれどもそれは参加とは言わないだろう。

「石曳きは小学生だけじゃないの?」

「ああ、拓はそっちだと思ったんだね、どうりで変な顔してると思った」

「変な顔は余計だよ。で、なに、どこの祭りの話してんの?」

「杉原の方の。今年は出店も増えるんだって」

 陽射しが厳しいのでホームにぽつりと立つ待合小屋の庇に入る。中にも入れるのだが、扉を開け放していても蒸し暑い。と言って短いホームには駅舎と同じく木造の古びたそこしか日陰がないものだから、辛うじて出来る庇の影に入るしかなかった。

 並んで入線を待ちながら頭ひとつ小さい彼女の髪を見下ろすと、中学生の頃はまだ同じくらいだったはずなのにいつの間に抜いたのだろうか、と曖昧な記憶を探る。


「ほら、去年は春先にあった土砂崩れで大変だったでしょ。伝統だからってお祭りそのものは決行したんだけど小規模だったらしくて。その分今年は大規模にやるって聞いたから」

 一番線に向かって立てば、正面には川まで野原が広がっている。秋になれば一面薄野原となって見慣れた彼らでさえ思わず見入ってしまう光景になるのだが、初夏の今はただ草が生え放題の野原でしかない。いつもの景色だ、見どころなどありはしない。だと言うのに、何故かそんな景色に向かったままこちらを見もせずに、心做しか早口で喋る彼女を訝しげに彼は見つめた。

 視線に気がついたのか、ちらと目線だけを向けて慌てて正面に戻す。

 いよいよもって怪しげな様子に、

「和ちゃん、人混み嫌いじゃなかった?」

「そんなことないよ。お祭りは楽しそうじゃない」

「いや祭りは楽しいかも知れないけどさ……答えになってないよ。大規模にやるってんなら人出も多いだろ。洋介が細江の祭りに行きたがってたのにも嫌々ついてったくらいなのに、杉原?」

「洋介は落ち着きないから面倒見るのが大変だっただけだよ。別に人混みが嫌だったわけじゃ……」

「出不精なのに?」

「誰がデブよ!」

「いやそんなことは言ってない。て言うかごまかそうとしてるだろ。杉原の祭りに何があるわけ?」

「別に。ほら、たまには拓を連れてってあげたいな、と」

「いっこ違いで子供扱いか。まあ和ちゃんが行きたいってことなら別に構わないけど。俺は祭り好きだし」

 どうも変だ、と思いつつも口を割らなそうだと思った彼は問い詰めることを諦めた。そもそも、彼女と一緒に夏祭りに行けることは楽しみでしかない。

「ほんと?うん、行こ行こ!」

 駅舎を抜けてホームに立ってから初めて彼女が顔を向ける。風に靡いた肩までの黒髪が揺れて、薄っすらと額で光る汗が夏を感じさせた。思わず見入ってしまいそうになって今度は彼が慌ててそっぽを向く。

「人を子供扱いしておきながら、和ちゃんの方が子供みたいじゃんか」

「こういうのは童心に帰って楽しむ方が良いでしょ」

「……まあ、そうかな」

 蝉の声に混じって線路から車輪の音が響く。

 楽しげに踵を上げ下げしている彼女を見ながら、彼は今日の期末テストのことも頭から追いやって楽しみになっていた。






 子供の頃に自転車で来たことが一回か二回くらいはあったろうか。覚えてはいないけれど、全く見覚えがないという程ではない。

 その頃のように自転車で山道を越えるという訳にもいかなかったから、いつもの列車で二駅、乗り換えて四つ目の駅は彼らが使う駅と違い駅員に切符を渡して改札口を出る。そこはもう祭り一色だった。茜色の空に提灯が浮かび上がり、そこかしこから子供たちの歓声に混じって囃子が流れてくる。空気にもどこか浮ついた感じがあり、ロータリーと言えるかどうかわからない駅前広場を所狭しと囲む屋台から流れる匂いが、空腹でもないのに購買意欲を誘った。


 そんな賑やかな雰囲気の中、浴衣姿の彼女は不機嫌気味の彼をちらりと上目遣いで見上げ、

「拓、なんか機嫌悪い?」

「別に。いつも通りだって」

 言葉通り、彼の機嫌は悪くない。ただちょっと期待していたのと違ったから、我ながら案外と少女趣味だったのかも知れない、と自分の甘い空想にがっくりしていただけだ。二人だけで祭りを回るなんて、まるで少女漫画脳だと恥ずかしくなってしまう。


「ごめんね川越君。和と一緒のところお邪魔しちゃって」

「ああ、いえ気にしないでください先輩。和ちゃんと二人じゃいつも通りで詰まんないなと思ってたところだったんで」

「え、酷くない拓。自分だって珍しくカッコつけてるくせに。楽しみだったんでしょ」

「カッコつけてなんかないって」

「へー。夏休みに入ったと思ったらすぐ市内に買い物行ったくせに。服も靴も見たことないやつだけど?いつ買ったのかなー」

「う、うるさいな」

「お姉ちゃんにも内緒で買い物行くなんて珍しいよね。子供のくせに色気付いちゃってさ」

「年上ぶんな、バカ和。色気付いてなんていないっつの」

「バカ?お姉ちゃんに向かってバカとか、生意気な。昔はあんなに可愛くて、お姉ちゃんお姉ちゃん言って後を付け回してきたのになぁ」

「ストーカーみたいな言い方すんなって!大体、和ちゃんをそんな呼び方してたのなんて小二くらいまでだろうが」

「そうだっけ?」

 軽口をたたき合う二人に、傍で聞いていた少女は呆れたような羨ましいような、曖昧な笑みを浮かべながら口を挟む。

「ほんと仲良いよね、二人とも。幼馴染って憧れる」

 彼女の隣で笑う、去年も同じクラスだったという少女をもちろん彼は知っていた。

 毎夕校門の前で待ち合わせて居ると時折彼女と一緒に昇降口から出てくるし、校内でも移動教室や休み時間の際に二人でいるところを見かけたりすることも多かった。彼女と同様に部活動をしていないから、校門でエンカウントする確率は非常に高かったのだが、市内北側の新興住宅地に住んでいるらしく自転車通学であるため校門で顔を合わせるのみで、挨拶することは多かったが言葉を交わす機会はさほどなかった。


「先輩って中学からなんでしたっけ」

 少し茶色がかった背中まで届く髪を、ふわりとゆるく巻いている少女は同じ浴衣姿ながら都会の香りを感じる。何がどう、と言われると田舎生まれ田舎育ちで都会のことなんてテレビの中でしか知らない彼には説明しようがないのだけれども。

「うん、そう。一戸建てがお父さんの夢だったからね、転勤のタイミングでニュータウンに目をつけて買ったんだよ。大量に売り出すタイミングを外せないってことで買ったはいいんだけど、ちょうどお兄ちゃんが大学受験だったからね。引っ越したのは私が中三になってから。お兄ちゃん残して越してきたんだ」

 彼も彼女も昔ながらの一軒家だから、一戸建ての何が良いのかわからず顔を見合わせて首を傾げる。それが全く同じタイミングだったので、少女は声を立てて笑った。

「本当の姉弟みたいだね」

「日和はお兄さんなんだよね」

「……なんかそう言われると私が兄みたい」

 確かに今のは言い方が悪い。はしょり過ぎた、と思いつつ意味が通じているなら構わないと彼女は続けた。

「私は実の弟と、手のかかるニセの弟しかいないから、上がいるって羨ましいけどな」

「ニセって言うな」

「あ、自分のことだって理解してたんだ。私、拓のことだなんて一言も言ってないけど」

 ぐ、と言葉に詰まる。

 どうにも昔から彼女には言葉で勝てた記憶がない。


「そうだ川越君、和も。今日は電車だよね」

 やり込められている彼を楽しげに見ていた少女が、あ、と気づいたように声を掛ける。

 真っ直ぐ山を突っ切れば最短距離だが、薄暮の山道を自転車で走るような真似はしない。そもそも彼女は浴衣なのだし。

 そう頷くと、

「なら帰りは送って行くよ。お兄ちゃんが来ててさ、車出してくれるから」

「ほんと?助かるよ。浴衣って歩きづらいんだよね」

 彼女は嬉しそうだが、彼は正直なところ微妙な気持ちだった。

 車で帰れるのは助かる、けれど送ってくれる人が大学生の男であることが大問題だ。

 どんな人なのかは知らないけれども彼女も先輩もいるのだから、彼女を知らない男と二人きりにする訳ではない。家に着くまで多少の居心地の悪さくらいはあろうが大した時間でもなし、この後の祭りの話でもしていればあっという間だろう。

 だが、彼の知らない男の車に彼女が乗る。それが問題だ。

 もちろん彼も一緒に乗るのだけれど、そうじゃないのだ。自分に出来ないことをやる他の男を彼女に見せることが嫌なのだ。何かが起こるなんて考えられないけれど、嫌なものは嫌なのだ。

 そう思ってしまうこと自体が子供である証明のように思えて、できる限り表情に出さないよう努める。

「お父さんの車だけどね」

「そりゃそうでしょ。大学生って自分の車なんて持ってるもの?」

 内心イラつきながら、何とか表に出さないよう平静を装う彼をよそに進む会話になぜかほっとする。車を持っている程度できゃあきゃあ言うような彼女ではないことをわかっていても、どこかしら相手が「大人ではない」情報が出てくることに安堵してしまう。

「この辺の大学生なら持っててもおかしくない……かも?でも東京だとどうなんなんだろう、気にしたことないや。学部によってはキャンパスが遠いってお兄ちゃん言ってたけどな」

「キャンパス。まだ二年あるからイメージ湧かなかったけど、校舎じゃなくてキャンパスって言われると大学生っぽいね」

 それには彼も同意なのだが、それを彼女の口から聞くとますます焦りにも似た気持ちが迫ってくる。背伸びしても仕方ないのだし、まだ見もしない相手に嫉妬するなんて馬鹿げている。

 だから彼は会話を断ち切るように、

「どうでもいいから行こうよ。今日は祭りに来たんだろ、和ちゃん」

 強引に腕をとった。






 久しぶりの祭りは楽しかった。

 彼らの地元では丸餅のような石を曳いては各戸の前で打ち鳴らし、お菓子をもらって次の家へ移る伝統行事があるものの、屋台がぎっしり立ち並ぶ中を神輿が練り歩くような祭りはない。小学校の頃はそれが当たり前だったが、中学校に入り地元以外の友達から話を聞いて羨ましく思っていた。誘われて一、二度祭りに行ったことはあったが今年のような大規模なものではなかった。

「楽しかったね、拓」

 家まで送る、と言う大学生の言葉を遮るかのように地元駅を指定した彼のせいで、通学の時と同じように五分は歩かなければならなくなったけれど彼女は気にしていないようだった。昼間はあれほど暑かったのに、夜気は涼しいとまではいかなくとも汗ばむような湿度は感じない。だからだろうか、歩いて帰るのも良いと受け入れてくれた言葉に安堵する。

 だが、それとは別にやはり穏やかとは程遠い気分だった。

「祭りが?」

 だから言わなくても良いことをつい口にしてしまう。

 祭りは楽しかった。祭り自体は。その後の帰りの車が最悪だっただけで。

 しまった、と思うまでもなく彼女は一瞬だけ「何を当たり前のことを」と言いたげな顔をしたが、すぐに彼の言葉の意味を理解してにんまりと口端を上げる。

「おやおやぁ。拓はお姉ちゃんを取られちゃうのが嫌なのかな?」

「別に。ただ、和ちゃんも案外ミーハーなんだと思っただけだよ」

「ミーハーって。別にアイドルにきゃあきゃあ言ってるわけじゃないでしょ」

「似たようなもんじゃんか、連絡先交換なんてしてさ。自分がモテたとでも思ってるんだろ。言っとくけどあの手の男は誰にでも同じようなことしてんだからな」

「同じようなことって?」

「だから……ちょっと可愛いとすぐに手を」

 そこまで言って、はっと気づく。

 慌てて彼女を見ると、横目でにやにやとこちらを見ている。

「可愛い」

「……どんな女でも平均的ならすぐに手を出す猿だってことだよ」

「可愛い?」

「い……一般論だよ、一般論」

「そっか、拓は私が可愛いと思ってるんだ」

 駅前の土がむき出しになった小道から国道に出る。

 途端に足元がからころと鳴り、道端の虫の音と妙に間隔の開いた街灯がジージーと絶え間なく響かせる音と混ざり合った。

「だいたい、拓だって日和と交換してたでしょ」

「和ちゃんの失敗話を教えてくれるって言うから。社交辞令だろ多分」

「ふーん、どうかなぁ。日和って上にお兄さんとお姉さんしかいないから、弟が欲しいって言ってたし。案外本気かも」

 彼女のからかう目つきから視線を反らす。

 何故か、あの大学生と連絡先をやり取りしていたことよりも不快な思いが募って、彼はそれから彼女と目を合わせることもなく田舎道を歩いた。


 彼女との夏祭りというだけなら楽しかったはずなのに、認めたくない自分の矮小さばかりを突きつけられたような不快感が、どこまでも残る夜だった。

 たぶんきっと、車の中で鳴ったポケベルの着信音もそのひとつで。

 親ですら持っていないそれを、大学生が持っているということが自分たちとは違う世界───それは大学生という大人であることとか、東京という都会であることとか、そういったことを見せびらかされていると感じたからだ。あの大学生にその気があったのかどうかは関係ない。ただ彼がそう感じたという事実だけが、この嫌な思いの根源なのだ。


 ポケベルの音を頭から消したくて口を開きかけ、結局何も言わずにつぐんでしまう。

 叢で泣く虫の音が、やけに耳につく夏の夜だった。

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