雪融けを待つプラットホームで

皆川 純

1991年、春。

 山から降りてくるかのように見える列車はいつも二両編成で、木々を背にした無人駅へがたごととやってくる。朝7時45分に乗らなければ間に合わないから、彼は必ずクラスで一番乗りだ。

 別段、それが嫌だと思ったことがないのは朝に強いからだとか気持ちの良い空気が好きだとか、そんな殊勝なことではない。もっと即物的で下世話な気持ちからだ。いや、高校生らしいと言えばそうなのかも知れないが。


 好きな人と一緒に登校できるから。


 まったくもって下らない理由で同じ高校を選んだのだけれども、何駅か先の高校はそれでもこの辺りでは最も近いものだから、誰もが彼の志望校選択を不思議には思わなかったことは幸いだったろう。

 それはもちろん、幼い頃から一緒だった彼女も同様で。

 彼としては彼女にはどうして同じ高校を選んだのかは気づいて欲しかったと思う反面、バレずに良かったと思う気持ちもあって複雑な心境ではあったのだけれど。

 一足先にその高校へ進学していた彼女は彼の高校合格を自分のことのように喜び、一人きりの通学電車に話し相手ができるとはしゃいでいた。高校の最寄り駅まで二十一分間、車窓に流れる景色は彼らの住む山間の景色と何ら代わり映えもないものだから、わずか一年間とは言え飽き飽きしていたのだろう。

 その二十一分はけれど、彼にとってはこれからの二年間を浮き立つ気持ちにさせる時間となるはずであり、わくわくしながら届いた真新しいブレザーの制服に袖を通したことを思い出した。




 雪深い地域だから、入学式に桜が満開なんてテレビで見るような光景にはならなかったけれど、一年ぶりに彼女と同じ時間を過ごしながら学校へ向かい、久しぶりにお姉さんぶることができることに張り切ったのか、校門からすぐ見える昇降口を指差しながら案内してくる彼女に苦笑いしながら高校生活のスタートを切った。

 友達も出来たけれど、部活に入らなかった彼がその言い訳にした列車の本数の少なさは、やはりただの言い訳で。もちろんそれは一面の事実ではあったけれど、彼女と同じ列車に並んで腰掛けて帰るためであったことは当然だ。




 桃色に染まった車窓が葉桜になる頃には、すっかり慣れた高校生活の話や再来年に同じ高校に入学するであろう彼女の弟のことなど、他愛もない会話を楽しんでいた。低学年と高学年にしか分かれていない小学校からずっと一緒なのだし、帰宅してからだって五分も歩けば会える距離ではあったけれど、彼らの住む町唯一の公共交通機関でありながらほとんど乗ったことのない列車での二十一分、彼女と過ごす普通の高校生活に浸れるその時間は湧き立つような穏やかなような、不思議で楽しい時間だったのだ。


 リーディングの小テストを忘れていて焦った。

 購買で初めて焼きそばパン競争に勝利した。

 パックのいちごミルクが売り切れてた。

 来週から体育がマラソンで憂鬱。

 クラスの友達に彼氏なのかと尋ねられた。


 毎日朝夕交わしている会話なのに話題が尽きないのは、幼馴染で共通の話題ばかりだからというだけではないだろう。

 沢山の言葉を交わしている中で、最後の話題に何か焦りにも似た感情に突き動かされて彼自身思ってもいない衝動と言葉が喉元まで迫り上がってきたが、開け放たれた窓から入ってきた葉を額に貼り付けた彼を笑う彼女の笑顔に、うやむやになった。そのことに安堵したのがどうしてなのか、今もわからない。

 むう、とむくれる彼を、制服をしっかり着こなした彼女は懐かしい瞳でみやりながら頬をつねり、また笑った。

 彼の抗議は到着を告げる車掌の声に掻き消されてしまったけれども、誰もいないホームに降り立つ頃には、その抗議が笑われたことに対してなのかつねられたことに対してなのか、彼にもわからなくなっていた。だから彼は、揺らめいた心に感じた痛みを忘れることにする。弟扱いされたことに対してではない、と。


 使われなくなった二番線の名残を越えて、木造の小さな駅舎を抜ける。

 立て付けの悪い扉はこの季節開け放されていて、子供の頃に秘密基地めいた高揚を感じさせてくれた待合に入る。薄暗いそこを、高校生になった彼なら十歩もかからず通り抜けてしまう。

 締め切られた窓口、誰も書かなくなった伝言板、時間を確認して利用するから誰も使わない木のベンチ。四畳半程度の広さしかない駅舎の待合室は、ホーム側に窓があるのに何故か薄暗い。窓口はもちろん閉ざされており、彼はここが空いている時を知らない。赤い切符入れだけが置かれている誰もいない駅舎なんてわざわざ通らずとも狭い国道へは出られるのだが、何となくこの雰囲気が好きだった。

 毎日敢えて駅舎を通る彼に、彼女は笑いながらも付き合ってくれている。

 そんな小さなことが嬉しくて、さっき感じた痛みを忘れてしまったかのように笑声を木々に響かせながら、こんな日がいつまでも続くことを信じて疑わず駅舎を出ていった。

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