弐・華瑠の秘密
夕食の後、リリは自室の窓から外をぼんやりと眺めていた。街の灯りの向こうに、寝そべった牛の背中のような裏山の稜線が見える。夜空に目を向ければ、満月には至らない中途半端に満ちた月が青白い光を放っていた。
満月ならウィスキーを片手に、鼻歌を歌いながら眺める人もいただろう。だが、今夜は誰一人月に関心を示さず、家々のカーテンは閉め切られていた。
ふと、リリは石畳をローファーが叩く音を聴いた。音のした方へ眼を向けると、細い路地で影が揺れる。
月明かりに浮かんだ顔を見た瞬間、リリはその影の主に気付いた。
「華瑠?」
どうして彼女が、ランプも下げずに夜道を歩いているのだろう?
月明かりが差し込む通りと違って、路地は脚元も見えないほど真っ暗だ。リリは華瑠のことが心配になって、彼女を目で追う。
華瑠の方は、リリが上から見ていることに気付く様子もなく、せかせかと速足で路地を進む。リリは彼女を見失わないうちに引き留めようと思った。だが、今支度をして外に出ようとすれば、母に止められるのは必至だ。
それならばと、リリはベッドの足にシーツを結んで作ったロープをくくりつけて、それを窓から下に垂らした。少し引っ張って十分な強度があることを確かめると、リリはシーツを掴んでゆっくりと壁を降りていく。
地面に足がついた時、華瑠は路地を曲がろうとしているところだった。リリは足音を立てないように小走りで彼女を追う。
しかし、リリがいくら走っても、華瑠の背中は遠ざかるばかりだった。呼び止めようとしても、息が詰まって声が出ない。真冬の夜のはずなのに、嫌な汗が背中を湿らせる。
やがて、華瑠は黒い裏山に吸い込まれていった。
*
参道の入り口まで来て、リリは立ち止まる。鬱蒼と茂る竹林が月明かりを遮り、山頂の祠へ続く石段が見えない。吹き抜ける夜風に竹の葉が揺れ、囁き声のような音を立てる。
ランプを持たずにこの中に分け入るのは、流石に気が引けた。
だが、大切な友だちが、華瑠がこの闇の先にいるのだ。パンと頬を叩いて気合いを入れると、リリは石段を駆け上がった。
リリは殆ど逃げるように走る。意気込んで山に入ったのは良いが、やはり怖いものは怖い。
どこまでも深い闇の中に、一体どんな化け物が潜んでいるのか……想像しただけでも背筋が凍り、石段を蹴る脚はどんどん速くなっていく。
パッと、急に目の前に光が差し、リリは目を細める。山頂の開けた場所に出たのだ。
だんだんとリリの目が月明かりに慣れていき、辺りの様子が見えてくる。何か、白く大きな岩のようなものがあるらしい。その輪郭がはっきりと像を結んだ時、リリはハッと息を呑んだ。
月明かりに照らされて、リリの前には見たこともない生き物がとぐろを巻いていた。一見すると大きな蛇のように見えるが、硬い鱗に覆われた胴体からは、四本の短い脚が突き出ている。馬のように長い頭には枝角が生え、紫色のタテガミが夜風になびく。
紫龍だ……リリは直観的にその生き物が何なのかを悟った。今日、華瑠が読んでいた本の挿絵とそっくりな生き物が、ゆっくりと息をしている。その吐息が顔をかすめ、蓮の花に似た香りがリリの分食うに満ちる。
「これが私の、本当の姿だよ……」
龍の口が動き、良く知っている少女の声でそう言った。華瑠の声だった。全身の毛が逆立ち、リリは思わず後退る。
状況が理解できなかった。伝説上の存在である紫龍を見ていることも、その口から華瑠の声が出たことも、とても現実とは思えない。夢でも見ているのではないかと疑ったが、辺りに漂う蓮の花のような香りは、妙に生々しかった。
「怖い?」
紫龍に尋ねられて、リリは首を横に振る。だが、内心は恐怖と驚きで震え出しそうだった。紫龍――華瑠もそれを感じとったらしく、悲しそうに下を向く。
「怖いよね……友だちがいきなりこんな怪物に変身しちゃうなんて……」
リリは慌てて「そんなことない!」と返す。それでも、華瑠は顔を上げなかった。
「いつかこんな日が来るんじゃないかって、思ってた。でも、もっと先だろうと思ってた……」
一つ一つ言葉を絞り出すたびに、蓮の花のような香り――華瑠の匂いが龍の口から漏れ、濃くなっていく。その香りを嗅ぐうちに、リリの心は落ち着いていった。
「何があったの?」
静かに、囁くようにリリは問いかける。華瑠は長い鼻を地面に向けたまま、何も答えようとしない。
自然と、リリの足が巨大な爬虫類に向かって歩き出す。こんな姿をしていても、彼女は間違いなく華瑠だ。何か証拠がある訳でもなく、リリはそう思った。
「私に聴かせて? 華瑠のこと?」
手を伸ばし、リリは華瑠の頬に触れる。その瞬間、電撃のようなものが身体に走り、頭の中に膨大な映像が流れ込んできた。情報の濁流にリリはめまいを覚え、視界が真っ黒に塗りつぶされる。
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