第六膳 初めてのハンバーグ(1)

 紅子が消えてから一週間経った金曜日。

 アパートの斜め前にあるラーメン屋の灯りが消える頃、玄関のドアをほとほとと叩く音がした。

 サンダルを履くのももどかしく、つんのめるようにドアを開ける。

 そこには、セーラー服姿の紅子がいた。


「いらっしゃい」


 痛いほどの鼓動を抑え、微笑む。

 紅子は俯いたまま動かない。寒さに震える小さな両手で何かの包みを握りしめ、中に入ろうとしないので、頭に手を置いてぽんと軽く叩いた。


「寒かったでしょう。どうぞ中に入って」

 

 何か言いたげにもじもじとしている紅子をダイニングの椅子に座らせ、まずは体を温めるテ・タレコンデンスミルク入り紅茶を出すことにした。

 これは作る時に紅茶が飛び散るリスクが高いので、調理台の上で用意する。

 まず濃い目に淹れた紅茶を厚手のグラスに注ぎ、コンデンスミルクを混ぜる。

 次に空のグラスをもう一つ用意し、その中めがけて高い位置から紅茶を注ぐ。

 糸を引くように腕を動かし注ぎ入れると、グラスの中で紅茶がふわりと泡だった。


「わっ、こぼれますっ」


 背後で紅子が立ち上がった音がした。紅茶を交互に高い位置から注ぐのを何度か繰り返していると、そのたびに紅子が息を飲んでいるのが気配で分かる。

 そうしているうちに、ふわふわの泡を揺らし、コンデンスミルクの甘い香りを漂わせたテ・タレが完成した。


「まずはこれで温まろうか」


 わたしが差し出したグラスを少し熱そうに両手で持って、俯く。

 訊きたいこと、話したいことは山ほどあるが、彼女が口を開くまで、向かいに座って見守る。


 どれだけの時間が経っただろう。紅子が顔を上げ、口を開いた。


「先日は急にいなくなってしまい、申し訳ないことでございます。言い訳になってしまうのですが、私はあの時、自分の意志でいなくなったわけではないのです」


 頷く。あの日、窓やドアの鍵は閉まっていたし、仕事中特に物音はしていなかった。


「そうなんだね。わたしもあの時、紅子さんがどこかに消えたように感じた。でも自分の意志でないとすると、どうやっていなくなったんだろう。あの後、ちゃんと家には帰れた?」


 紅子は小さく首を縦に振ると、グラスを持つ指先に力を入れた。

 まずは落ち着いてもらわなければ。わたしがテ・タレを勧めると、両手でごくりと飲んだ後、ほろりとほどけるような笑顔を見せた。


「わあ、甘あい」


 以前、牛乳のにおいが苦手だと言っていたが、これは大丈夫なようだ。幼い子供のように無邪気な笑顔を浮かべながら、あっという間に飲み干した。


「ご馳走様でした。おいしゅうございました。……あの、あの後、家には戻れました。いつもそうなのです。毎週金曜日、家族が眠り、私が眠気を覚えると、次の瞬間にはこの町に来ていて、夜が明ける前になると、何故か家に戻っているのです」

「えっとそれは、毎週金曜日の夜に、紅子さんの家とあの駅前の間で瞬間移動を繰り返している、っていうこと?」


 傍から聞いたら、どんな会話だと思われるだろう。わたしだってこんな会話を、ごく当たり前のようにしている自分がおかしいと思う。

 だが、今まで何度も紅子と会い、話し、食卓を囲むうちに、どこかで覚悟を決めていたのかもしれない。


 今、自分と紅子は、常識を超えた世界に置かれているのだということを。

 だからわたしは、続く紅子の言葉をどこかで予測し、そして受け入れていた。


 紅子が口を開く。


「瞬間移動。そうですね。ただ、私が移動をしているのは、場所だけではありません。私は、烈様が生活していらっしゃるこの時代より、ずっと昔からやって来ているのです」

 



 遠くから救急車のサイレンの音が聞こえる。

 不自然な沈黙が流れる部屋の中を、シーリングライトの安っぽい光がちりちりと満たしている。


 紅子の言葉を聞いた時、驚きも、混乱も、恐れも、ほとんどなかった。

 そうだ。紅子がいなくなった時も、悲しみや寂しさは覚えたが、驚きはあまりなかった気がする。


「そっか。紅子さんの通っている学校は、女学校だった頃から制服が変わらないんだね」


 沈黙の果てに出てきた言葉は、そんなどうでもいいことだった。


「えっ」

「なんだろう。紅子さんと出逢ってから結構早い時期に、もしかしたらそうじゃないかなって思っていたんだよね。でもそんなこと訊けないじゃない。だから今、すっきりしている」


 紅子はわたしが驚いたり変な目で見たりすることを予測していたのだろう。不思議そうな目でわたしを見ている。


「そんな……。このお話をお伝えしたら、烈様にどのように思われるだろう、と、ずっと案じておりました。それなのに」

「うん。わたしも、なんでこんなにあっさり受け入れているのか分からない。多分、今は頭の中の処理がうまくできていないだけで、後からじわじわ驚くんじゃないかな」


 紅子は納得がいかないのか、なんともいえない表情をして空のグラスを弄っている。


「それにしても、どうして週一で時間を飛び越えるような事になっちゃったんだろうね」

「そこが、もう、これこそ信じていただけないかもしれないのですが」


 そう前置きをしたものの、タイムトラベルという事態をあっさり受け入れられたからか、あまり躊躇なく言葉を続けた。


「私が自分の置かれている環境に深く悩んでいた時、どこからともなく声がしたのです。姿は見えず、声も男性のものか女性のものか分からないのですが、確かに聞こえました。その声が、『これから毎週金曜日の夜、時間を飛び越える旅に出なさい。そこで出会った人は私の魂を救い、私はその人の魂を救う』と言った……のです」


 消え入るような語尾と共に言葉を切り、グラスの底に張り付いた泡を飲もうとし、失敗した。


「声、か。それって神様みたいなものかな」

「分かりません。私の心の中では『神様』と呼んでいますが」

「で、その神様が言うには、時間を飛び越えて出会った人は、私……って、紅子さんの事だね……の魂を救って、紅子さんはその人の魂を救う、と」


 分かったような、分からないような。

 タイムトラベルが出たのだから、この際「神様」という存在も信じることにしよう。しかし、神様の言葉や紅子の状況からすると、わたしが「紅子の魂を救う」ことになる。

 申し訳ないが、わたしは食事を振舞っただけだ。そんな大それたことはしていない。


 これはもっとじっくりと時間をかけて訊かねば、と思ったが、それは難しいということに気がついた。

 苦し気な表情を浮かべた紅子がお腹を抱える。

 するとお腹の奥底から、ぐうぐうという悲痛な叫びが湧きあがってきたのだ。




 今夜のメニューは決めていない。紅子が確実に来るか分からなかったので、応用の利く食材をいくつか買ってフリージングしただけの状態だ。


 わたしは紅子を寝室兼仕事部屋に連れて行った。

 そこには、こぢんまりとした部屋に不釣り合いな、大きな本棚がある。

 収められた本の大半は料理に関するものだ。中学生の頃からこつこつ集めた、わたしの宝物。

 写真を見て、材料を見て、作り方を見て、どんな料理が出来上がるんだろう? どんな味がするんだろう? と想像するのが楽しかったのだ。


「今日の夕食は何がいいかな。この中から選んでみて」 


 幾つかの本を抜き出し、手渡す。

 紅子はおそらく空腹を忘れて、次々にページをめくっては熱心に眺めはじめた。


「なにか食べたいものはあった?」


 すると一番年季の入った一冊を開いた。偶然かもしれないが、それはわたしが初めて買った一冊だった。


「ハンバーグ……えーと、昔風に言うとハンバーグステーキ、か。いいね。これは作ったことあるよ。すごくおいしかった。それに今、家にある食材で作れるしね」


 そう。この本のレシピはいろいろと作ってみた。どれも写真通りに作れて、すごく優しい味がしたのを覚えている。わたしが料理の楽しさを知ったのは、まさにこの本からだったのだ。


「あのさ、もしよければ、自分で作ってみるのはどうかな」

「えっ、自分で、ですか」


 紅子はぽかんとした表情を見せた。それはもう、背後に「ぽかーん」という文字が見えそうなほどに。


「このようなハイカラなものを、私が作れるでしょうか」

「この本の通りに作ればちゃんと美味しくできるんだよ。それに」


 紅子の額に人差し指をそっと当て、微笑む。


「作り方を覚えることで、紅子さんだけじゃなく、ハンバーグステーキの作り方も時代を超えるってことでしょ。面白くない?」


 どうやらその言葉が効いたらしい。紅子は頷くと、決意の表情も凛々しくお気に入りのエプロンを巻いたのだった。

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