残虐王は 死神さえも 凌辱す

9 消せぬ傷跡

　スイテアが思い切りリオネンデを突き飛ばして立ち上がる。スイテアの肩を抱いていたリオネンデの腕が遠ざかり、向こうによろける。弾みで大皿が横滑りに動き、綺麗に盛られた料理が乱れた。

「あはは、おまえは判り易いな。だが、皿をひっくり返すな。あぁあ、ごちゃごちゃになった」

「そんな料理など！　皿から落ちればすぐにでも、代わりの物を用意させるのでしょう！？」

　笑いを引っ込めたリオネンデが寂しげな顔でスイテアを見上げる。

「どうだろう？　料理を用意する女たちの苦労を知っているし、そもそもこの食材は、誰かが丹精（たんせい）込めて育て、危険を顧（かえり）みず狩ったものだ。皿から落ちただけで捨てるわけにはいかなさそうだ」

　グッと言葉に詰まったスイテアが

「だったら！　床に落ちたものを王は口にすると？」

叫ぶように言えば、リオネンデが頷く。

「うん、それもなさそうに思える。だから、皿をひっくり返すような真似はするな」

返す言葉も気力も失ったスイテアに、リオネンデがニッコリと笑む。

「さっきよりは元気になったな」

　いいから座れ、と言われれば、すっかり毒気を抜かれたスイテアが素直にリオネンデの隣に座った。そのスイテアをリオネンデが抱き寄せる。

「いいか、よく聞くんだ」

　耳元で囁（ささや）きかける。

「リューデントを以前から知っていると誰かに知られれば、おまえが危険に曝（さら）される。俺に逆らう者と見られるのだ。今のおまえの反応を見て、実はヒヤリとした。おまえが大きな声で、リューデントの仇（かたき）とでも叫びはしないかとな」

　そう言われればそうだ。スイテアが俄（にわ）かに緊張する。そもそもリオネンデに殺されないだけでも不思議なのだ。

「判ったな？　リューデントと言う名は忘れろ ―― それから、おまえは今日、王家の一員となった。これが何を意味するか、判るか？」

　リオネンデはスイテアの返事を待っていたようだが、答える様子がないと見て取ると、

「おまえが俺を殺しても、王家内部の諍（いさか）いとなり、誰もおまえを罰せない ―― 判ったな？　そう言う事だ」

と、更に声を小さくして言った。

　リオネンデがスイテアを放し、

「さぁ、食え。おまえが食わねば片付けの女が困る。さっさと食ってしまえ」

と、皿をスイテアに押しやる。そして自分も瓜を手に取ると、齧（かじ）り始める。

　スイテアが恐る恐る皿に盛られた葡萄（ぶどう）に手を伸ばす。

「なぜ……」

葡萄を口に入れる前にスイテアが小声で言った。

「なぜ、わたしを生かしておくのです？」

食べかけの瓜を眺めながら、リオネンデが答える。

「さぁな。あの男が愛した娘だからじゃないか？」

　あの男 ―― 間違いなくリューデントの事だ。

「あのかたは……リオネンデ様を優しいと仰（おっしゃ）っていました」

「―― この話は終わりだ」

突然リオネンデが立ち上がる。

「もう召し上がらないのですか？」

「おまえは好きなだけ食べろ」

そう言うと、後宮の入り口へ向かい、レナリムと何か相談しているようだ。やがてレナリムが頭を下げて後宮に退（しりぞ）く。

　戻ってきたリオネンデは

「俺は少し眠る。食べ終わったらレナリムに言って片付けさせろ。それと、正午にジャッシフが来る予定だ。来たら起こせ。それまでおまえは好きにしているといい」

と寝台に横になってしまった。

　本当に眠っているのだろうか？　皿に盛られた料理を口に運びながら、スイテアはリオネンデの気配を窺（うかが）う。

　『俺を殺しても、誰もおまえを罰せない』あの言葉は真実なのか？

　スイテアの視線が、寝台の下に向かう。リオネンデが隠した剣があそこにある。壁に掛けられた剣には手が届かないが、あれなら容易（たやす）く手が届く。でも――

　リオネンデに持たされた剣の重さを思い出す。

（リオネンデの言う通り、今のわたしにリオネンデを殺すのは無理だ）

葡萄を口に放り込みながら、スイテアは思う。

（それにしても、何を企んでいる？　自分を殺そうとする女を生かし、侍（はべ）らせるだけならまだしも、武器を与えると言う。自分を殺すための武器を、だ。それに……）

　『我ら兄弟の願い』と言った。我ら兄弟とは、自分とリューデントを指すのは明白だ。

（リューズ様からそんな話は聞いてない。わたしに話していないだけなのだろうか？）

　スイテアが瓜に手を伸ばす。齧ると青臭い匂いが広がっていく。

　食べなさい。咽喉が乾いただろ？　瓜は水分が多い ―― リューデントは瓜が好きだった。夏の日差しが照り付ける王宮の庭、人目に付かないよう、手入れのいき届いていないところを選んで歩いた。この瓜は水っぽいだけ、こちらは甘い。それはだめだよ、若すぎる、苦くて食べられない……

「うっ……」

　うめき声に驚いて、スイテアがリオネンデを見るとリオネンデは顔を顰（しか）めて左腕を右の手で掴（つか）んでいる。左を下に寝返りを打ったようだ。掴んでいるのは火傷の痕だ。４年も前の傷跡が、今も傷むのだろうか？

　見るともなく見ていると、リオネンデが目を開けた。そして再び目を閉じると仰向けになる。そして、

「なにを見ている？　俺の隙（すき）を窺（うかが）っていたか？」

と、どうでもよさそうに言う。

「……火傷の痕が痛むのですか？」

「 ―― いつでも痛むわけではない。だが、どうしても引き攣（つ）るし、何かがべったり貼りついているように感じる。普段から思い通りには動かないしな。それに明日は雨が降るんだろうね。先ほどからシクシク痛む」

「雨が降ると痛むのですか？」

「うん、覚えておけ。どうせ俺を襲うなら雨の日がおまえには有利だ。執拗（しつこ）く左を狙って来い。おまえが右利きなら狙いやすい ―― 俺の利き手は右だ」

「薬はないのですか？」

「火傷を治す薬はない。あまりに痛みが酷いときはサシーニャがくれた軟膏を使う ―― もう、話は終わりだ。俺は眠い。それと、食べ終わったならレムナムを呼べ。自分で片付けたりするなよ。おまえは『身分』を持った」

　リオネンデは右の掌（てのひら）を自分の目のあたりに乗せて、動かなくなった。それでもしばらく見ていると、その右手もズルリと落ちて、どうやら本当に眠ってしまったようだ。

　レナリムに片づけを頼むと、すぐに数人の女が後宮から出てきて皿を下げる。そして次には、何人かで衝立（ついたて）を運んでくる。さらに、薄い絹織物や、ゆったりとした座り心地のよさそうな長椅子や、その長椅子に合いそうなテーブルが運び込まれる。梯子（はしご）まである。

「なにが始まるの？」

　スイテアの問いに

「後宮に、リオネンデ様の寝所を新たに設（もう）けるまでの一時しのぎですよ」

とレムナムが答える。

「本来ここは王の執務室なのです。ジャッシフ様やサシーニャ様が断りもなく入ってくるのはそのため。本来、王の寝所は後宮の内部にあるのですが、リオネンデ様が面倒がって、ここに寝台を入れてしまったのです」

　最初の日、ジャッシフが座っていた椅子やテーブル、リオネンデが地図を見ていた大きなテーブル、そんなものと寝台を衝立が隔てる。そして衝立と寝台の間には、長椅子と合わせのテーブルが置かれた。

　模様替えの気配に気付いたリオネンデは、寝台に横たわったまま、肘（ひじ）を立てた上に頭を乗せて眺めている。

　立て掛けられた梯子に、女が昇って行こうとしたとき、

「待て」

とリオネンデが体を起こした。

「レナリム、この梯子は何のために？」

「寝台に天蓋（てんがい）を付けるために用意いたしました」

「うーーん、それはどうしても必要か？」

「寝台の中の様子が丸見えなのは困りものです」

「では、俺が取り付けよう。女が梯子を昇るのは危なっかしい」

　するとレナリムがクスリと笑う。

「奥ではいつもしている作業です。むしろリオネンデ様こそ、梯子に昇って作業など、されたことはないでしょう？」

「いや、それはそうだが……後宮では梯子を昇るようなことが度々あるのか？」

「えぇ、毎日のように。お任せください。早くしないとジャッシフ様がおいでになります」

　リオネンデは寝台に腰かけて、梯子を昇る女を眺めていたが、急に目を逸らせる。下から見上げていて、女の足が見えたようだ。そして長椅子に座るスイテアに気付き、長椅子に移動する。

「おまえも梯子に昇ったりしたか？」

　スイテアの隣に腰かけてリオネンデが問う。

「木の上のほうに実った林檎や梨を取る時には――」

「なるほど。存外、女とは逞（たくま）しいものだな」

　作業が終わると梯子が片付けられ、レムナムを残して女たちが退出する。

「王の新たな寝所は３日ほどで用意できます。それまでは暴れて天蓋を引き落とすことなどなきようお気をつけくださいませ」

ニッコリ笑んでレムナムも後宮に退いた。

「暴れて？」

　ついスイテアが口にする。立ち上がったリオネンデが寝台に近づいて天蓋を大きく広げ、止め帯で括（くく）りつけて開いたままにする。

「レムナムが言うには俺は寝相が悪いらしい。いつだか、寝台に姿がないと騒いで探したそうだが、その時は寝台の足元に丸まって寝ていたそうだ。寝具に埋もれて判らなかったらしい」

「ご自分では寝相が悪いと自覚がなかった？」

「母の寝所に隣接する部屋に住まわされていた、子どもの頃の話だ。うん、寝ていたそうだ、は可笑しいな、人ごとになっている。寝ていた、だ」

　リオネンデが何かいい訳をしたようにスイテアは感じていた。