3   湯殿の間

 いったいこの男は、わたしをどうするつもりなのだろう。踊り子の口元に葡萄ぶどうを運ぶリオネンデをにらみ付けながら、踊り子 ―― スイテアは思う。やっとつかんだチャンスを棒に振った。だが、そばにいる限り、再び機会が訪れないとも限らない。


 なんとしても、この男の息の根を止める。復讐してやる。そう決意して4年の月日が流れた。


 4年前のあの日、この男はわたしの大事な人を2人も殺した。2人の無念をわたしが晴らさず誰が晴らす?


 リオネンデはうらみと憎しみに燃えるスイテアの顔を眺めていたが、やがて敷物に寝ころんだ。大皿はすでに空になっている。


「おまえ、どこからこの宮殿に忍び込んだ?」

 スイテアは答えない。すぐそこに、無防備に横たわる男に向ける刃を持たないことを嘆き、身動きを封じられて首を絞めることさえできない事を悔やむだけだ。こんな事なら広間ではおとなしく、誘惑するだけにしておけばよかった。今こそ、男に小刀を向ける好機なのに。


「おまえ、4年の間、どこにいた?」

「……」

 思わずギクリとスイテアの体が動く。今のリオネンデの言葉は何を意味する? 顔色を変えてしまったことは、嫌でも判る。リオネンデがそれを見逃さない事も……


 そこに『湯あみの準備が整いました』とレナリムが告げる。うむ、とリオネンデはスイテアのひざしばひもくと立ち上がり、スイテアをかかえて立ち上がらせる。


「わたしをどうするつもりだ?」

「うるさい。そんな大声でなくても聞こえる」

 ニヤリとリオネンデが笑む。

「おまえの体を王が清めてやろうというのだ。おとなしく従え。ついでにその身体、存分に味わわせて貰おう」

「なにを、なにを!」

「暴れるな。暴れれば痛い思いをするのはおまえだ。俺の肉を味わったのだ、俺がおまえを味わったところで、文句を言われるものでもない ――さらにおまえの下の口に俺の肉を味わわせてやる。だがその前に、湯あみだ。おまえ、汗臭いぞ」


 暴れて悪態をつく女を無理やり引っ張って現れた王に、後宮の女たちは驚いて、息をひそめて様子をうかがう。それでも王が向かう先では女たちによって御簾みすが開かれ、王の歩みを邪魔することはない。


 湯殿ゆどのの間では湯あみする王の世話をせんと、数人の女が控えていた。後宮に仕える女たちが同時に湯あみできそうなほど広い湯船に、湯がなみなみとたたえられ、湯気がもうもうと立ち込める。


 その広い湯船にいきなり放りこまれ、スイテアはやっとのことで、水面に顔をあげた。水深はスイテアのへその上ほどある。もう少しでおぼれるところだった。


 リオネンデは、と見ると、衣類を女たちが脱がせ、下帯だけの姿になったところだ。

「もうよい、みな下がれ。呼ぶまで誰も来るな」

リオネンデの命に、かしずく女たちが湯殿の間から消えた。


 鍛え上げられた身体、端正な顔立ち。その姿は、獅子王と呼ばれても名前負けをすることはないだろう。


(あの火傷のあとは……)

 スイテアはつい、リオネンデの左肩から二の腕へ広がる火傷の痕に目を向ける。

(4年前のあの日、自ら放った火で負った火傷とはあれか)

自業自得だ、スイテアは心の中で悪態をついた。


 おもむろに湯に入り己に近づくリオネンデ、後ずさりしたい衝動にやっとのことでスイテアがえる。負けるものか、負けてなるものか。

「フン、観念したか? おとなしくなったな」

そんなスイテアに腕を伸ばすとリオネンデはスイテアを縛る紐を解いた。紐はリオネンデの手を離れ、プカプカと水面を漂った


「さぁ、どうする? おまえに俺が殺せるか?」

「おのれっ!」

 殺す! 殺してやるっ! スイテアの復讐心が再び燃え上がる。力任せにリオネンデを突き飛ばすと、思いもよらずリオネンデは後ろに倒れ、そのまま水中に沈み込む。ならば!


 スイテアが沈み込むリオネンデを押さえつけ、そのまま溺死させようとする。が、リオネンデに抵抗する様子がない。いぶかったスイテアが思わずリオネンデの顔を見る。


(リューズ!)

 湯の中のリオネンデの髪がゆらゆらと水の動きに沿って揺れる。そして穏やかな眼差しでスイテアを見詰めている。


 あの瞳、あの瞳をわたしは知っている ―― リューズ様の髪、リューズ様の頬、リューズ様の眉、リューズ様の鼻、リューズ様の唇、そして眼差し。忘れ得ぬすべて―― あふれ出す涙にスイテアが両手を自分の顔にあてる。


 押さえつけるものを失ったリオネンデが水面に上がってきた。

「どうした、もう終わりか?」

あぁ、リューズ様の声!


 泣き崩れ、足元がおぼつかなくなったスイテアの体をリオネンデが支える。そしてその手でスイテアの衣装を剥ぎ取っていく。されるがままのスイテアを、リオネンデは持ち上げて、湯船の端に腰かけさせた。


「なにを?」

 リオネンデの動きに力なくスイテアが抵抗する。が、リオネンデは許さない。スイテアの足を押し広げ、覗き込むと内腿に口づけ、さらにその奥に舌をわせた。

(リューズ様っ!)


 スイテアの体を何かが走り抜け、たまらず倒れそうになる。その身体を立ち上がったリオネンデが抱き止め、唇を重ね、舌を忍び込ませてくる。そして指がスイテアをいじり始める。


(リューズ様の唇。リューズ様の舌。そしてリューズ様の指……)

 スイテアの意識が遠い昔へと引き戻される ――


 戦況はもはや決していた。村のあちこちに放たれた火は人々をあぶり出し焼き殺し、グランデジア国の勝利は確定している。


 スイテアの母は自分の身を、やかたを襲った兵士に差し出し、そのすきをついて娘を逃がした。娘はまだ11になったばかりだった。だけど、どこへ逃げればいい? 髪を切り、男の服を着せられても、捕まれば女と知れる。女と知られる前に無残に切り殺されるかもしれない。どうせなら、まだその方がましだ。


 やぶから藪へと身をひそませ、目についた天幕てんまくに潜り込んだ。敵の天幕の中ならば、捜索されることはない。しばらくはここに隠れ、敵が陣を払うのを待とう。逃げ延びる好機を見つけ出せるかもしれない。


「リューデント様、お戻りください」

 息をらしていると、天幕の外で声がした。

「国王がお呼びなのです。王太子と言えど、国王の命には逆らえませんぞ」

「王太子は血の匂いに酔うたと伝えよ」


 天幕の中に二人の人物が入ってくる。

「しかし……」

王太子を追ってきた臣下も、リューデントの言い分ももっともと思ってしまう。初陣ういじんもまだなのに後方に控えよと連れてこられ、今度は攻め込んだ村の長の斬首に立ち会えと言われる。まだ13の子どもには荷が重すぎる。


「なんだったら、僕など廃してリオネンデを王太子にすればいいんだ」

「リューデント様、王はあなたを世継ぎにしたいと仰せです」

 そう言いながら御付きの者は『仕方ない、何とか王を納得させましょう』と天幕を出て行った。


 遠ざかる気配を暫くうかがっていたリューデントだったが、やがて天幕の中を見渡し始めた。泣きたかった。泣きだすのを我慢していた。どこなら外に泣き声が漏れないか、どこなら急に誰かが来た時、涙を隠しやすいだろうか?


 天幕の入り口から一番遠い、物入れの横、ここだとリューデントは決めて、そこにしゃがみ込む。こらえていた嗚咽おえつが口かられ始める。初めて人が殺されるのを見、逃げ惑う人々の叫びを耳にした。心は打ち震え、恐ろしさに身が縮む。


 物入れの陰に隠れていたスイテアが目を見開く。いきなり目の前に誰かが座り、体の側面を見せた。そして、忍びやかな嗚咽が聞こえてくる。泣いているのは誰? ここは戦勝国の天幕、なのに王太子と呼ばれた少年が泣いている。


 微かに感じた気配にリューデントが嗚咽を止める。覗き込むと目を見開いた少女がいた。慌てて逃げ出そうとする少女に、口元で人差し指を立て

「静かに……見つかればひどい目に会わせられる」

と、小さな声で言った。僕が助けてあげる。もう、人が苦しんだり、殺されるのを見たくない……


 リューデントはスイテアを物入れに隠し、王宮に運んだ。そして母親である王妃に託した。13だったリューデントはその頃はまだ、王妃の間と間続きの部屋にいた。


 折に触れ、スイテアに気を配り、話し相手をスイテアにさせた。そして女の子を授からなかった王妃は我が娘のようにスイテアを可愛がってくれた。


 自分の両親を殺した国の王妃と王子……スイテアの心は複雑だったが、他に行くあてもなく、王妃と王子の優しさはスイテアを安心させた。


 いくさはもう終わったのだ。故郷はもうない。ならばここで生きていくしかない。それが命をけて娘を守った母への恩返しだとスイテアは思った。


「王になるのは僕ではなく、リオネンデにすればいいのに」

 王妃の庭で、リューデントがスイテアに言った。

「リオネンデは僕と違って、平然と打ち首の様子を見ていたそうだ」

「そんな、恐ろしい……」

「ごめん、打ち首の話などするべきじゃなかったね」

怯えて縮こまるスイテアの背をリューデントが撫でる。


「リオネンデは僕と違って猛々しいんだ。でも、僕はリオネンデが本当は優しいヤツだと知っている」

「リューデント様より?」

「リューズでいいよ ―― それにリオネンデはバイガスラ国王、僕たちの母上の兄君に気に入られている」

「リューズ様は国王になるのがお嫌なのですね」

「うん、国王はいろいろ制約が多い。責任も重い。できれば僕は気ままに暮らしたい」

そう言ってリューデントは笑った。


「僕だろうがリオネンデだろうが、どちらもそう変わりはしないしね」

「リオネンデ様は王妃様の間にあまりお顔をお見せにならない。スイテアはリオネンデ様にお会いしたことがありません」

「会えば驚くよ。僕と全く同じだ。ただ一つだけ違うのは、この二の腕の印だけだ」

「印?」

 リューデントの二の腕には鳳凰ほうおうの形をしたあざがあった。


「あ……同じものがわたしにも」

「この印は、世界を制する者に現れるって言い伝えがあるらしいんだ。だから父は次期国王を僕にしたがっている ―― 同じもの?」


「えぇ、内股に同じ痣があるんです」

「へぇ……見てみたいな」

 躊躇ためらいながらもスイテアは内腿をあらわにし、鳳凰に見える形の痣をリューデントに見せた。


「本当だ、同じだね」

ひょっとしたら僕とスイテアの運命は重なっているのかもしれないね、リューデントはそう言って笑った。


 15になったリューデントが王妃の間から出される。そうなるとスイテアは、もうリューデントと会う事はできない。それがどれほど苦しいか思い知ったスイテアだった。だがどのみち、リューデントと結ばれることはない。自分は王妃の侍女なのだから。


 それがある日、王妃の庭にリューデントが忍び込む。リューデントが王妃の間から出されて、1年ほどが経っていた。


 会いたかったとスイテアを抱き締める。ここには王子と言えど入ってはなりません、言葉にするものの、スイテアは拒めない。その日からスイテアは人目を盗んで、リューデントと愛し合うようになる。それがどれほど幸せな日々だったか事か……


 それがあの日、4年前のあの日、すべてが奪われることになる。

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