第182話 救出

 ミューイ・シミアンは中天を少し過ぎた陽の光を手でさえぎりながら空を見上げた。そして深い溜息ためいきを吐き出した。

 遺跡の中をあんなにも苦労して命がけで進んだのに、正しい道さえ選んでいればこんなにすんなりと出入りできたのだ。

 肉体的には回復したが、精神的な疲れがどっと出た。


「でも、風が気持ちいい」


 風が運んでくる青草の匂いも、世界に生命があふれていることを教えてくれる。


「ミューイ、キヲツケテ」


 キューカの注意喚起にミューイは足を止めた。

 何に気をつけなければならないのか、彼女には心当たりがある。辺りを見渡すが、それらしき影は見あたらない。


「いるの?」


「イル。カクレテイル。オンパデ、タンチデキル」


 ここはまだ聖域で安全のはず。ミューイは目を閉じて集中した。

 音波を飛ばすイメージを膨らませる。ただ飛ばすだけじゃ駄目だ。減衰させず、反響させる。

 全方位について平面的に障害物のイメージが掴めた。だが、障害物の向こう側は見えない。


「キューカ、力を貸して」


 キューカのサポートを借りて、さらに高度な魔法の使い方をする。今度は二次元的ではなく三次元的に音波走査する。さらに、障害物の向こう側で音波を操作し、音波に音波を跳ね返らせて死角も音波走査する。


「見つけた。あの瓦礫がれきの影に隠れているわ!」


 見つかったのを察知したのか、そこから大型のイーターが姿を現した。

 それはやはりハリグマだった。だが、どこか弱っている様子だ。先に誰かが戦って負傷させたのだろうか。


 先刻とは状況がまるで変わった。ハリグマは手負いで、ミューイは魔導師となっている。

 しかし、ミューイは先刻以上に緊張を強いられた。先ほどの音波走査でもう一つ探知したものがあった。

 ハリグマからは少し離れているが、物陰に小さいものが隠れている。二足歩行の生物。おそらく人間の子供だ。聖域の外にいる。しかもミューイとの距離よりもハリグマとの距離のほうが近い。


「ああ、なんてことなの」


 ミューイが頭を抱え、キューカがそれを見上げる。

 キューカはミューイの考えを察知したようで、言葉による警鐘けいしょうを鳴らす。


「ハリグマ、アタマイイ」


 キューカの言いたいことは直感的に分かった。

 小さい子供を先に襲うか、人質に取るかもしれないということだ。


 ミューイは走った。自分の身が危険にさらされることになることなど考えていなかった。とにかく見つけてしまったものは救わなければならない。

 だが、一瞬遅れてハリグマも四足で走りはじめた。向かう先はミューイと同じ。小さい子供が隠れている岩の方。


「逃げて!」


 そう叫んではみたものの、逃げられるならとっくに逃げているはず。恐怖で身体が動かないのだ。

 これはミューイがどうにかするしかない。


「音弾!」


 ミューイはイメージした音の砲弾を手から射出した。

 音速の砲弾はハリグマの頭部に直撃する。ただし、その砲弾はあくまで空気の振動であり、実体はない。

 着弾した音弾はハリグマの頭部に振動を伝えると同時に、聴覚に不快な振動を与えた。


 ハリグマはひるんだ。一度動きを止めたが、頭を振って不快感を散らす。先ほどの音弾が魔法と理解しているのか、ミューイをにらみつけた。

 しかしミューイが聖域内にいる以上、ハリグマの標的は変わらない。


 ミューイは何度か音弾を発射する。それはことごとくハリグマに命中するが、耐性がついてきて、だんだんと怯んでいる時間が短くなっていく。

 ハリグマが標的を間合いに捉えるのとミューイがそこへ辿り着くのはほぼ同時だった。

 大岩の陰に隠れていたのはフードを被った子供だった。顔は見えないが、その小ささから幼いことだけは分かる。


「ガァアアアアアッ!」


 ハリグマが太い腕を振り上げた。鋭い爪が陽の光を反射し、殺意を伝えてくる。それが振り下ろされるのと、ミューイが子供に飛びついたのはほぼ同時だった。

 宙にミューイの髪とブラウスの生地が舞った。

 子供を抱きかかえたまま肩から地面を滑ったミューイの背中には、三本のひっかき傷がついていた。

 かすり傷だが、これまでろくに怪我をしたことのなかったミューイにとっては鮮烈な痛みだった。


 ハリグマがのっそりと近づいてきて二人に影を落とす。

 音弾では駄目だ。撃退すらできない。

 どうすれば、どうすれば……。

 深海に沈みながらもがくように、焦りの中でミューイはまとまらない思考を一所懸命に束ねた。

 ハリグマが両腕を振り上げている。完全にトドメを刺しにきている。


「ガァアアアアッ!」


「グゴァアアアアアウウッ!!」


 ハリグマの雄叫びに被せるようにとどろ咆哮ほうこう。これもまたハリグマのような雄叫び。

 けっこう近い。本人の姿は見えないが、飛んできた声には明確な殺意が汲み取れる。

 ミューイに向かって振り上げられた腕は下ろされ、ハリグマは四足で一目散に森の方へと駆けていった。


「ありがとう、キューカ」


「サポート、シタダケ」


 殺意の咆哮はミューイが音の操作により生み出したものだった。キューカがミューイのイメージを拡大し、強烈な咆哮へと昇華させたのだ。


「どうにか撃退できたわね。もう大丈夫よ」


 ミューイが抱きかかえる子供の顔を覗き込む。

 そのとき、彼女は大変な驚愕をいられた。

 フードの下にある顔は人間ではなかった。動物でもない。ぬいぐるみだ。

 だが、ただのぬいぐるみではない。意思を持ち、動くことのできるぬいぐるみ。言葉は話せないようだが、怖かったと言わんばかりにミューイにしがみついた。


「うん、大丈夫よ。安心して」


 ミューイは戸惑いつつも、それが生きた子供のようにしか思えなくてそっと抱きしめた。


 ぬいぐるみが落ち着いてから、三人は王都の方へと向かった。

 王都までは歩いて半日はかかるだろう。移動だけで大仕事だ。しかも子供連れのような状態なのだ。

 ミューイは道中、改めてぬいぐるみを確認した。

 見た目はクマのぬいぐるみだ。

 茶色い布で作られた二頭身の姿で、芋みたいな両手両脚が丸い胴体にくっついている。

 目と鼻はボタン、口は糸で編まれている。

 布の生地きじは若干だが目が粗く、下地が見えている。下地は絹らしき綿密な生地でできていた。

 腕を握ると綿のように柔らかい。

 それにしてもリアルに動く。まるで人間の子供だ。だが動物がぬいぐるみの皮を被っているのではない。それは綿のような柔らかい腕や二頭身の二足歩行であることから明らかだ。

 可能性としては無定形のイーターが中に入っていることだが、キューカによると、このぬいぐるみはイーターではないらしい。生命ですらないという。まったく謎の存在だ。


「ホントウニ、ツレテイクカ?」


「うん。放ってはおけないもの」


 ミューイにはぬいぐるみの知性が人間に相当するものだと感じた。恐怖を感じてミューイに抱きついたり、ミューイの言葉を理解して歩いたりするのだ。もし心があるなら、生命と同じに扱うべきだ。


「決めた。私はあなたに名前をつけるわ。アナタの名前はヌイよ」


 フードを被ったぬいぐるみはミューイを見上げ、そしてコクリとうなずいた。

 表情は変化しないが、嬉しそうなことは十分に伝わってきた。


「さ、王都へ帰りましょう」


 ミューイも嬉しくなり、自然と足取りも軽くなった。

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