第174話 猶予

「仕切り直しね」


 その何気ないひと言は、紅い狂気が言うとたまらなく不安をかき立てられる。時間という概念が絡むからだろうか。彼女はときどき、未来の俺の質問を先取りして答えることがある。

 今回も『定規で重量は測れないでしょう?』という謎の言葉を発しているが、その回収はいまだになされていない。

 未来が見えているのか何なのか分からないが、時間に関する能力というのは極めて脅威だ。

 どこぞの大統領も未来視の能力を持っていたが、彼の場合は能力がそれ一つだけだったためなんとかなった。

 だがこいつは違う。こいつの能力は一つを取っても俺ですら歯が立たないチート級の代物なのだ。そんなとんでも能力をいくつも持っている。

 彼女の強さは完全に未知数だ。


「私があなたの心を読めることを利用して、グダグダとモノローグで時間稼ぎでもしているのかしら?」


 やはり人の心が読めるのか。

 推察事項にすぎなかったことが確定事項に変わった。

 できれば推察が間違いで、警戒も杞憂きゆうであればいいと願っていたが、その願いはむなしくも崩れ去った。


「そんなつもりはない。俺は考え込む性質なんだ。仕切り直しと言ったな。どこからだ?」


「私の能力を教えてあげる代わりに対価を支払うって話。私に名前をつけないの?」


 口にするまでもなく俺の答えが分かってしまう彼女は、口をゆがめて不機嫌そうにした。

 彼女にとって、あの邪魔者の存在はかなりでかいようだ。

 彼が言ったように、俺が紅い狂気に勝つためには彼に会いに行かなければならない。

 そう、神に。


「仕方ないわね。爪でもいいわよ。ゲス・エスト、あなたの右手の小指の爪を一枚もらおうかしら」


 狂酔シャイルの顔は、いまは無表情だ。爪を一枚だなんて恐ろしいことをサラッと言っておいて、ひどく事務的だ。

 紅い狂気にとって、これは特別なことではないのだ。


「俺の爪なんか、どうするつもりだ?」


「捨てるわ。あなたの爪なんかいらないもの。私が興味あるのは、あなたが情報を得るためにどこまで代償を支払うのかっていうことなの」


 狂っている。

 いや、そうか。こいつは狂っているんだ。

 いまさらながら再認識させられる。俺が何と対峙しているのか。どれほど恐ろしいものに敵対しているのか。


「……分かった。げばいいんだな? 右手の小指の爪、一枚だけでいいんだな!」


 俺は右手の甲を上にして、左手で右手の爪を掴んだ。

 左手の人差し指に力を入れるがうまくいかない。

 俺は右手の向きを変えた。手の甲を下に向け、指を折り曲げた。こうすれば左手の親指を右手の小指の爪にひっかけられる。


「ふふふ。苦戦しているみたいね。ねえ、気づいてる? うまくいかないのは、やり方が悪いんじゃないの。あなたの度胸が足りないだけなのよ。ふふっ、ははははっ!」


 狂酔シャイルの口は再び口角を上げていた。ピエロ顔負けの大仰おおぎょうな笑顔だ。

 彼女のポニーテールが解け、長い髪が風になびいた。彼女が宙に浮く。スカートや上着のすそが風にはためいている。

 彼女は能力として空を飛べるのだ。俺みたいに空気で包んで、空気を持ち上げることで浮いたのなら、服や髪が風になびいたりしない。


 俺は少し警戒したが、彼女は宙に浮いて何をするわけでもなかった。宇宙遊泳するように宙をゆっくり漂う。俺の覚悟の弱さを、ただ嘲笑あざわらっている。


 俺は自身の覚悟がこんなにも弱いものだったと知り、自分でも驚いている。

 いや、足りないのは覚悟というよりも勇気だ。爪を支払う決心はしている。

 俺は救いを求めて上空を見上げた。


「エア! 頼む!」


 上空で待機していたエアが、ゆっくりと降りてきて俺の隣に立った。

 エアは紅い狂気との距離が縮まったため完全に萎縮している。

 紅い狂気への恐怖を増やしてしまうことと、俺の爪を剥がすという嫌な思いをさせることを申し訳なく思いつつ、俺は再び右手の向きを変えた。手の甲を上に向け、エアに差し出した。


「ストップ。それは駄目よ。自分でやらなきゃ意味ないよ」


 紅い狂気の声に、俺もエアもビクッとなってそちらに視線を向けた。

 怒っているかと思ったが、まったくそんなことはなかった。むしろ笑っていた。嘲笑ちょうしょうだった。

 エアに爪を剥いでもらったところで、紅い狂気の情報が得られないだけ。爪の剥ぎ損だ。自分でやるしかない。


「すまない、エア。下がってくれ」


 エアは暁寮生たちのいる方へ、足早に後退した。ダースの横を通りすぎてもすぐには止まらなかったため、ダースが自身の危機感の不足を感じて不安そうな顔をした。


 俺は紅い狂気の方を向いたまま、手に視線を落とした。

 左手を使うのは俺には無理だ。だから空気の操作で爪を剥ぐことにした。

 空気の操作なら高精度で爪を掴めるし、自分の指よりはるかに強い力を加えられる。一瞬で剥ぎ取れる。


 俺は右手全体を空気で固定し、小指とその爪の間に空気を差し込むイメージをする。

 そして、差し込んだ空気を上向きに、一気に……。


「ふふふ。まぁだ?」


 なかなか爪が剥げない。空気の操作に力が入らない。

 妨害されている? いや、違う。俺の心がブレーキをかけているのだ。だからエアを頼ったのだが、エアを頼れないのだから、自分でアクセルを踏むしかない。

 だが俺のチキンハートがどうしてもブレーキをかけてしまう。それは指を動かすのも魔法を使うのも同じなのだ。俺の意志が弱いから、一線を越える一歩を踏み出せない。

 用心深く慎重な俺は、こういう思いきった行動には不向きだ。


「あはははは! みっともない。あれだけ人にマウントを取ってきた自称最強さんは、こんな簡単なこともできないのね」


「ああ、そのとおりだよ。だが、これは簡単なことじゃない。躊躇ちゅうちょなくやってのける人もいるだろうが、そんなのはごく少数だし、俺はそっち側の人間じゃない。あんたならできるのか? いや、愚問だったな。余計なことを聞いた」


「もちろん、できるわよ。私なら指を全部噛み千切って咀嚼そしゃくして飲み込むくらいのことまでやるわ。そうなると、満足できなくて人の指まで食べちゃうと思うけれどね。やってみせてあげようか?」


 想像してしまった。精神的にほぼノックアウト状態。本当に余計なことを聞いた。


 狂酔シャイルの口は半開きだ。冷え冷えとした視線が俺の心臓をえぐる。俺の弱さに呆れていることがありありと伝わってくる。

 これは紅い狂気とシャイル、どっちの表情だろう。あるいは、どっちかだけではないかもしれない。

 俺の絶望を見透かす狂酔シャイルの姿は、俺にシャイルを助けることなんてできないという現実を叩きつけているようだ。


「はぁ……。それにしても腹立たしいわね。アイツのせいで未来が変わってしまったわ」


「どう変わったんだよ。それも爪が対価なら教えなくていいけど」


「ふふふ、あきらめたのね」


 俺はもう右手を降ろしていた。

 右手だから余計に怖かった。俺は極端な右利きで、左手の力が弱い。左手で剥がそうとすれば、中途半端になって苦しむかもしれない。それが何より怖かった。

 空気でやることに切り替えても、どうしても左手のイメージが拭いきれなかった。

 それを見越しての右手指定だったのかは俺にも分からないが、とにかく右手だったことは失敗する可能性を高めていた。

 紅い狂気は初めから分かっていたのかもしれない。


「ああ、諦めたよ。俺は十分に狂気に苦しめられた挙句、情報も得られなかった。狙いどおりだろ?」


「私には狙いもかけひきもないわよ。ただ遊んだだけ。もしアイツが邪魔しなかったら、あなたは私に名前をつけていたわ。それがアタリの名前かどうかは私にも分からないけれど。そして私はあなたに私の能力を教えた。それを理解しきれなかったあなたは私のことを火の発生型魔導師かと聞くのよ。そこで私が言うの。『そんなわけないでしょう。あなたのモノサシで私は測れないわ。定規で重量は測れないって言ったでしょう?』ってね」


「なるほど。名前をもらい損ねた上に、未来視で張った伏線を潰されたわけか」


「ふふふ。そうなのよ。でもね、あなたは私に名前をつけるわ。いまじゃないけれど、必ずつける。何て名前をつけるのかは、やっぱり私にも分からないのだけれどね。せいぜいアタリを引かないよう、私の名前をじっくりと考えておくことね」


「いまじゃない? 俺たちに未来があるのか? 俺たちを見逃すとでもいうのか?」


「ええ、そうよ。当たり前じゃない。だって、あなた、弱いんだもの。能力だけの話じゃない。心が、精神が、決意が、何もかもが弱い。弱すぎる。だから見逃す以外ないじゃない。釣った魚だって、稚魚は逃がして成魚だけを確保するでしょう? あなたたちには私と戦う準備を整えて自信をつけてもらわないといけないの。私と戦うために仲間を集めたり修行したりしたいんでしょう? 少しでもいいから勝てるかもって思ってくれなくちゃ、後悔してもらえないじゃないの。もっとも、地獄が始まったら後悔や絶望を抱く暇もないくらい振りきれた狂気が待っているのだけれど」


 こいつにとって俺たちは本当に稚魚だ。稚魚は稚魚でも雑魚の稚魚だ。俺たちが何をしようと、魚が岩の上で跳ねるようなあがきでしかないと思っている。

 いや、実際にそのレベルの力量差があるのだろう。俺たちからは紅い狂気は計り知れないが、紅い狂気からはとっくに俺たちの底が知れているのだ。


「じゃあ……」


 人の心が読める紅い狂気は、俺が質問をする前に回答をよこしてきた。


「現状維持なら私が手を出すことはない、と思った? それはあまりにも悪手だわ。考えるまでもないわよね」


 現状維持では、紅い狂気に勝てる可能性はゼロ。ほぼゼロなんて甘い話じゃない。ゼロなのだ。

 可能性という概念において、ゼロと断言することはよっぽどのことだが、いまから紅い狂気と戦ったとして、何億、何兆、それ以上のどんな試行回数を重ねたところで絶対に勝てない。

 太陽に生身の人間が触れる可能性と置き換えてもいい。もしも道具を使っていいのなら、可能性はほぼゼロでも完全なゼロではなくなる。

 戦うための準備をして後悔するよりも、戦う中でいっさいの希望もないことのほうが大きなディスアドバンテージのはずだ。


「そうだな。だがそれは興味本位の『もしも』の話だ。どっちにしろおまえから逃げる選択肢はない。シャイルを助けなければならないからな」


「ええ、知っていたわ」


「だろうな」


「その『だろうな』は嘘。言われて気づいたわね」


「…………」


「私の能力の話だけれど、アイツが知っているからアイツから聞き出すといいわ。会いに行くんでしょう?」


 雑魚は雑魚でも、成魚にするために餌までかれる始末。

 いまの俺にはプライドなんてものは欠片もない。正直なところ、いますぐにでも逃げ出したい。

 この精神状態も見透かされているのだろうが、ほかのみんなの士気を下げないために、俺は消え入りそうな心のかがり火に酸素を送って強がりを口にする。


「俺も一つだけ教えておいてやる。俺はゲスだ。後悔するぞ」


 俺は笑ってみせたが、鏡を見なくてもひきつっていることは分かった。

 幸い、後ろの仲間からは俺の顔は見えない。


「ふふふ、それは楽しみね。待ちきれないわ」


 余計なことを言ったかもしれない。

 風を意図的に生み出したのか、狂酔シャイルの髪が、ブラウスが、スカートが強くはためいた。

 彼女の笑みに背筋が凍りつく。悪寒が背中から体内に浸透して心臓にまとわりつき、そして絞めあげてくる。

 これは錯覚か? もしかしたら、本当に潰されかけているんじゃないか?


 ゴホッ!


 不意に咳が出たが、口を押さえた手には血がベットリ付いていた。


「でも安心して。あなたたちの準備が整うまでは待ってあげるから。ただ、急いだほうがいいわよ。その間、私はシャイルとともに狂気をむさぼる旅をするのだから」


 狂酔シャイルは高笑いをあげると、一瞬で姿を消した。瞬きはしていなかったが、突然パッと消えた。空気に溶けるようでもなく、ワープホールに入るわけでもなく、ただ消えた。時間が飛んだように。


 後から指摘されて気づくのだが、俺の髪は真っ白になっていた。

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