第103話 工業区域⑦

 上空から帝国全土を見下ろしたとき、北西の広い一帯がスモッグに覆われていて地上の様子を見ることができなかった。そここそが工業区域で、区域全体にスモッグが充満している。

 俺が商業区域から東の農業・畜産区域へ飛んだときには、帝国内にそんな状態の場所はなかった。

 つまり、一時的に環境が変化しているということだ。

 それが魔法により意図して作られた状況なのか、設備による環境汚染によるものかは一見して分からない。

 ともかく、見るからに健康に悪そうだった。


「マーリン、あそこに降りるぞ。空気で保護しておくから、普通に呼吸しても大丈夫だ」


 俺は自分とマーリンを球状の空気の膜で覆って地上へと降下した。


 スモッグを風で吹き飛ばそうとしても無駄だった。吹き飛ばすための風もスモッグになっている。風で大気を浄化するなら工業区域外から空気を持ってこなければならない。


「しばらく歩くぞ」


 俺はマーリンを連れて視界の悪い世界を進んだ。空間把握モードの範囲を広げていき、工業区域内の地図を脳内に描いていく。

 そうする中で、一人の男がこちらへ向かってくるのが分かった。

 あちらもこちらの動きを把握しているのだろう。おそらくこの空間をスモッグで満たしたのはそいつの仕業だ。

 こちらの場所を把握しているとしたら、敵は操作型の魔導師だ。そして俺のように空間を把握しているとすると、その手段はこのスモッグにある。

 魔法は煙か微粒子といったところだろう。


 そして、二人は邂逅かいこうするべくして邂逅した。


「あなたはゲス・エストさんですね?」


「あんたが工業区域の五護臣、モック工場長だな?」


「ええ、そうです」


 スーツと同じ漆黒色のオールバックの下で、糸目が開かれる。

 かすかな怒気。俺がモック工場長の質問を無視し、俺の質問に彼が答えてもなお俺は返事をしなかったからか。ムッとして当然だろう。


「工業区域へようこそ。いかなる御用向きですかな?」


 五護臣には大臣から緊急回線でリッヒ家を処刑せよとの達しが出ている。

 もしリーズが無事だとしたら、彼女が潜伏しているであろう工業区域の五護臣は倒しておかなければならない。

 もしリーズがすでに彼に手を下されていたら、俺が彼を極刑に処さなければならない。

 前者であるか後者であるかを知ることは重要だが、俺は敵である彼に直接問うことはしない。敵なのだから、その言葉は信用するに値しない。


 だが幸いなことに、いまの俺には最も信用に足る真実がある。


「マーリン、教えてくれ。リーズは無事か?」


「そー」


 それが聞ければ十分だ。極刑には処さないにしても、俺はこいつを倒す。

 俺の殺気を汲み取ったか、モック工場長は元々細い目をさらに細めた。


「あなたがゲス・エストならば、私とあなたが事を構える必要はないと思いますよ」


「なるほどな。だが、事を構えてもいいわけだろ?」


 モック工場長には貫禄がある。強者の風格。

 俺はこいつと戦いたい。

 おそらく彼は、皇室からの命令を受けてなお、リーズを手にかけていない。

 それもまだ見つけていないからではなく、見つけた上で見逃したか、保護しているかのどちらかだろう。

 人格者だ。

 そんな人物と腕比べをするのであれば、この機を逃して後にくることはあるまい。


「噂に違わぬ戦闘狂、ですか。飛び出た剥き出しの杭はつちで打って寝かしつけなければ危険というもの。幸いなことに、ここはホームの工業区域で道具には困らない」


 道具とはスモッグのことか。

 すでに先手は打たれているわけだ。


「打ってみな。打てるもんならな!」


 俺はマーリンを端に避難させてから、巨大な空気の拳でモック工場長へと殴りかかった。

 直径一メートルくらいはある。かわせるはずがない。

 だが、空気の拳はモック工場長を押し潰す寸前で止まった。


「私にはあなたの魔法が見えている。そんなに大きな範囲で空気を固めたら空気中に漂う微粒子を含んでしまう。私の魔法は煙だが、その実態は空気中を漂う微粒子なのです」


 工場長の眼前にスモッグが密集し、それが俺へと飛んできた。

 俺は空気の壁を作り、それを防ぐ。


「うぐっ」


 苦しい。何かが喉に詰まった。


 防いだつもりだった。実際に鼠色に濁った空気が俺の作った壁の前で停滞している。

 だが、その空気の壁を微量の微粒子が貫通してきているのだ。微粒子が小さすぎて、固めた空気の隙間を通り抜けている。

 リーン戦のときのような極大の集中力で空気を分子レベルで固定しなければ防げない。それも広範囲に渡って、精緻せいちにだ。


「降参するなら、あなたの呼吸を取り戻して差し上げますよ」


 このままでは窒息する。

 敵を窒息させるのは俺の専売特許だったはずだが、まさか自分がやられることになるとは。


「余計なお世話だ。自力で取り出す!」


 しゃべれば余計に苦しくなる。もう喋らないほうがよさそうだ。

 そんな中、モック工場長は追撃として、今度は俺の目を煙で襲撃した。

 俺は目を開けていられなくなった。


 だんだん苦しく、どんどん辛くなってきた。だが、こういうときこそ冷静にならなければならない。

 ひとまず空気による空間把握を取り戻す。そして俺は上空へと飛んだ。高く、高く、雲を抜け、よいの空へと舞い上がった。

 さすがにモック工場長のスモッグはここにはない。

 俺の喉に詰まった微粒子へのリンクは切っていないだろうが、空間が把握できなければ動かすこともできまい。


 俺は空気を操作して気道に詰まったちりを押し込んだ。

 空間把握モードを体内に展開させつつ、肺の中で塵を掴み、細く伸ばして気道を通し外へと排出した。


「ゴホッ、ゴホッ!」


 危なかった。冷静な思考を可能とする限界まできていたが、どうにか酸素を取り戻した。


 モック工場長の煙の操作型魔法、なかなか厄介だ。

 操作型の魔法というのは、互いにぶつかり合った場合に固体、液体、気体の順に空間を侵攻する優先度が高い。

 例えば空気と岩の操作がぶつかった場合は空気が岩に押し負ける。

 ただし、同じ想像力・集中力であればの話だ。俺ならどんな固体が相手でも互角以上にり合える自信がある。

 しかし、固体微粒子となると厄介だ。俺の操作する空気の合間を縫って侵攻してくる。

 空気は範囲で操作するので、逆に微粒子の合間を縫って空気で攻撃するとなると、やはり分子レベルの制御で空気を操作しなければならなくなる。

 モック工場長に勝つためには、ここで準備を万端に整えてから突撃する必要がある。


 呼吸を整えた俺は、見渡す限りの空気にリンクを張った。


「最初からこうすべきだったな」


 リンクを張った空気をいっせいに動かす。

 重い。実際に重量を感じているわけではないが、広範囲へのリンクをいっせいに制御すると、それ相応の想像力と集中力が必要になるわけで、つまり脳が疲れるのだ。

 だが、実はそれが心地良くもある。

 きっと俺は脳細胞が活性化して、いまよりも成長する。


 せっかくの大技だ。名前でもつけるとしよう。

 名前をつけ、名前を呼べば、技の安定度が高まる気がする。次に同じ技を出すときにイメージしやすくなる。何より、勝利が近づく。


「この技の名は……」


 俺はリンクを張った空気とともに急降下した。

 工業区域の敷地よりも広い範囲の雲がどこかへ吹き飛ばされた。

 グングン降下する。

 地上が見えた。

 チクチクと抵抗を感じる。微粒子が空気を貫通して飛んでくる。俺は目を閉じ、空間把握モードにより地上の光景を脳内に映した。

 モック工場長は大技を待機している様子ではない。ただ俺を警戒しているようだった。

 だが、そんな警戒は無意味だ。俺に対して警戒するならば、大技の一つでもぶつける準備をしておくべきだ。だから一方的にお見舞いされるのだ。


「エア・メテオ!」


 俺が地上に降り立った瞬間、天空から吹き降ろした激烈な風が工業区域の空気をすべて吹き飛ばした。

 空気が清浄なものへとすげ替わった。

 木の一本でも生えていたらへし折っていただろうが、ここには鋼鉄やコンクリートの塊ばかりが羅列されている。


 マーリンは俺の空気に保護されている。

 モック工場長は吹き飛ばされたが、叩きつけられたコンクリートの建物の壁を背にして塵を正面に集めて風を防いでいる。

 しかしその塵すら少しずつ削り取られるように吹き飛ばされていく。


 俺は近くの建物の壁を空気の斧で破壊し、得た瓦礫がれきを強風に乗せた。瓦礫はモック工場長へと飛んでいく。

 瓦礫はモック工場長の正面の灰色のよどみに受けとめられ威力を殺されたが、瓦礫を受けとめた塵のほうも大量に飛散した。


「さすがにエグゾースト・バーストほどの攻撃は風がやむ前に準備できないが、いまの状況ではこれで十分だろう。トドメだ、モック工場長。エア・ガン!」


 俺は親指を握りこむようにして人差し指をモック工場長へ向けた。

 人差し指の伸びる方角をモック工場長へと定め、右ひじを左手で支えて安定させる。

 そして、放つ。


 空気の弾丸は塵の壁を突き破り、モック工場長の腹へと直撃した。

 弾丸は大きめ。これを小さく速くすれば本物の銃のように肉体なんか容易に貫通する威力を持たせられるが、モック工場長を殺す気はないので、いわゆる手加減をしたのだ。


「がはぁっ! うっく……」


 風は収まった。工場区域の天気は快晴。

 モック工場長が壁に背をもたせかけたまま、重力に負けてずり落ち、尻を地に着けたところで陽も完全に落ちた。

 モック工場長は腹を抑えて動かない。

 俺はゆっくり彼に近づいた。

 彼の意識はまだ失われていなかった。


「いちおう訊く。リーズたちはどこだ?」


「じ……む……うぅ……」


「事務所、か?」


 モック工場長は黙ってうなずいた。もはや俺を見上げる力も残っていないようだ。


 俺が彼から無理矢理聞きだしたみたいな形になったが、おそらく最初に訊けば案内すらしてくれたかもしれなかった。


「エスト、後悔してる?」


 エアが姿を現さずに問いかけてきた。また小言か? あのときみたいに。


「黙っていろ。自覚はあるんだ」


 今回も一線を越えていた。

 俺はゲスを自称してはいるが、ちゃんとした行動理念があり、それについてはたびたび明言してきた。

 俺はよこしまなる心を表に出す者に制裁を加える。


 弱者に興味はなく強者に対して強い戦闘意欲が沸くとはいえ、今回の戦闘は自分の決めた行動理念から外れたものだった。


「ゲス……エスト……」


 俺がマーリンを連れて事務所へ向かうために立ち去ろうとしたとき、モック工場長は苦しそうに俺を呼びとめた。

 オールバックが崩れ、別人のようになっている。何か言っているようだったが、聞き取れなかった。

 その内容はエアが届けてくれた。


「頼むから設備は壊さないでくれ、と言っているよ」


 俺はきびすを返し、モック工場長の横に立った。

 そして、彼を見下ろしながら、言葉を落とした。


「モック工場長、悪かったな。少しやりすぎた」


 モック工場長がふっと笑った。

 目を閉じたまま開かないが、死んでいるわけでも寝ているわけでもない。単に安静にしているのだ。


 俺はリーズたちを連れ帰るため、事務所へと向かって歩きはじめた。

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