第101話 リオン城⑨

 リオン城・皇帝の間には、ただ一人俺だけが残された。

 近衛騎士団は第二皇妃が追い払ったし、その第二皇妃ジャック・ジャックと第三皇妃サキーユはドクター・シータに捕食されて消えてしまった。

 皇帝は第二皇妃に背後から刺し殺された。

 リーン・リッヒと大臣は床に伏したまま意識がない。

 部屋には天井のほか、窓と床と入り口側の壁に大きな穴が開いている。俺一人がただその空間に立っていた。


「さて、マーリンを探すか。いや、大臣を拷問したほうが早いな」


 俺はわざとそう独り言をつぶやいた。

 予想どおり、大臣はすでに目覚めていた。俺が退出するまでずっと狸寝入りをしているつもりだったのだろう。おずおずと起き上がると、床に尻を着けたまま後退りして壁に背をぶつけた。


「寄るな! マーリンがどうなってもいいのか?」


「いまのおまえに何ができるってんだ?」


 俺がにじり寄ると、首が曲がったままの大臣は慌てて両手を前に突き出し、俺に止まれと警告する。

 彼の表情にはまだ自分が優位であることを信じる気配が感じられる。


「これを見ろ。私に手を出せばマーリンを殺す」


 大臣がふところから半円柱状の装置を取り出して床に横向きに置き、スイッチを押した。すると装置の上方にスクリーンが出現した。

 先ほどの指輪の投影は立体的だったが、こちらの映像は平面だ。


「マーリン……」


 スクリーンには両手を頭上で縛られ裸で吊るされた少女が映し出された。

 気を失っているようだ。

 少女の横には黒いローブをまとった人影が立っており、その手には褐色のムチが握られている。

 改めて少女の体を見ると、にじむ血と青いアザが全身に及んでおり、もはや赤と青の迷彩服かと思えるほどの凄惨せいさんな有様であった。


「ゲス・エスト、よく聞け。向こうからもこちらが見える。貴様が私に手を出せば黒いローブを着た私の部下がマーリンを殺す。マーリンを殺されたくなければ貴様は私の言うことに従うしか――」


 スクリーンの向こう側で黒いローブが引き裂かれ、中の人間の姿があらわになった。

 中年の男だ。

 男が宙に浮き、上下逆さまになり、脚が左右に開く。

 そして、小気味のいい音がした。

 けたたましい悲鳴が聞こえたが、それは一瞬で聞こえなくなった。うるさいので真空で包み声を消したのだ。

 宙に逆さに浮いていた男はそのまま地上に落下した。


「な、な、な……。貴様がやったのか、ゲス・エスト……」


「見えているからな。操れない道理はない。それよりも、あれはおまえの指示か? あんな小さな少女によくもあれほどのひどいことができるな。実行犯は先に処したが、主犯はもっと罪が重いぞ」


 ふつふつと沸き起こる俺の怒りが、皇帝の間の窓をしだいに激しく震わせ、しまいにはすべて割った。

 大臣は息を呑んだ。震えている。

 マジックイーターの幹部とは思えない無様な有様だ。かと思えば、強気な言葉を投げてよこす。


「マーリンはおまえのことをいろいろと教えてくれたよ。しょせん、貴様はあの子にとってヤドカリの殻、拾い物の拠り所でしかないのだ。マーリンのために怒っているフリはよせ。貴様もマーリンの能力が欲しいだけだろう」


 もう脅しのための切り札を失っていてのこの言い草。

 窮地きゅうちおちいったことがなくて血迷ったか? それともこいつのプライドは天より高く地より固いのか?

 俺への恐怖で震えているくせに。


「あの傷はあらがったから付けられたものだろう? 俺の情報を漏らすまいと、どれほど拷問に耐えたのか。ああ、かわいそうに、マーリン。許せない。許さない。大臣、貴様は極刑では済まさない。獄刑に処す!」


「待て! 違う。いまのは言わされたんだ! 何者かに、誰かの魔術で言わされただけだ!」


 なんともマヌケな言い訳だが、妥当そうな理由はそれくらいしか思い当たらない。

 だが、それが真実だとして、これほど無意味な言い訳もない。


「おまえが思っていることを、か?」


 俺の腹の中を、燃え盛る魚が泳ぎまわっている。

 水面から飛び出して飛ぶ鳥に火を点ける機会をいまかいまかとうかがっている。

 熱い。暑い。熱い。暑い。熱い。


しゃべる! 何でも喋るから!」


「喋りたければ喋れ。喋っても許さん。貴様は苦しまなければならない」


 俺は黒いオーラを噴出させた。オーラが部屋に充満して大臣を覆う。

 これで大臣は魔術を使えないし、俺以外の何者も大臣に干渉することができない。

 口封じで楽に殺されることなど認めない。


「一つだけ質問する。おまえ、間接的なものも含めて何人を殺した?」


「……分からない」


「だろうな」


 それは予想の範疇はんちゅうだ。我ながらナンセンスな質問をしたものだ。

 怒りで冷静さを失っている自覚があるが、この感情を抑え込む気はさらさらない。

 ラノベの主人公のように、自分が手を下さなくともご都合主義で悪者が別の悪者に殺されたり事故で死んだり怪物に食べられたりなんて展開は認めない。

 俺は己の手で確実に刑を執行する。


「大臣、俺をここまで怒らせたのはおまえが初めてだ。後悔が追いつかない苦しみを味わえ」


 大臣が宙に浮く。

 大臣を浮かせている空気は上半身のみを包んでいる。下半身は自由だ。自由ということは抵抗を受けないということ。踏ん張りが利かない状態。

 そんな中で、大臣に大きな痛みを少しずつ与えていく。

 まずは人差し指をじる。中指、薬指、小指。左手から右手。


「ぐああああ! やめろっ、やめろぉおおおっ!」


「後悔しているか、大臣?」


「している! 後悔している!」


「じゃあもっと後悔しろ」


「ぐえあああっ!」


 ひねる部位はだんだんと大きくなっていく。左右の手首、腕、肘、肩。


「いぎあああああっ! やめっ、やめてくれぇえええ……」


「反省しているか?」


「反省している!」


「せいぜい次で活かすことだな」


「あがああああっ!」


 足首、ふくらはぎ、膝、大腿、腰、腹。


「どうだ、痛いか?」


「ぐ……うぐ……痛い、なんて……ものじゃ……。殺せ……殺して、くれ……」


「殺してほしければ土下座して懇願してみせろ」


 そんなことはもう不可能だということは分かりきっている。

 もはや大臣は涙と血でぐちゃぐちゃな顔をわずかばかりに動かすことしかできない。体力的に首を動かす力も残っていない。ほかの部位は完全に機能を失っている。


「ゲス、め……」


「これがゲスだと? おまえにはとうてい及ばない。俺のおこないはゲスのひと言では済まされないほど残虐非道なものだという自覚がある。だが、おまえにとってはゲスのひと言で片付く程度の仕打ちだったわけだ。刑が足りないようだなぁ!」


 大臣の顔に細く尖った風が走る。

 ひたいから鼻の横を通って右ほおの裏へ、あご下から口を縦断して鼻を縦断して片目を縦断して頭頂部へ、端から端へ、ときに旋回し、カーブし、直進し、風は走り抜けた。

 数秒後、大臣の顔から線状の血が滲み、あふれ、顔を覆い尽くす。


 きり状に固めた空気が錐揉みしながら大臣の両目と両耳に侵入し、光と音を永久に奪う。

 そして最後に、空気を固めて作った手を口の中に押し込み、全二十八の歯をすべて引き抜き、大臣の顔上にポロポロと落下させた。


「獄刑完了だ。大臣、ここからは自由だ。死にたければ勝手に死ね。死ねるものならな」


 もはや鼓膜を持たない大臣に、俺は空気を震わせ骨振動によって大臣に言葉を伝えた。

 元々少なかった頭髪は、色だけは若々しい黒だったのに、いつのまにか真っ白に染まり上がっていた。

 かすかなうめきが聞こえるが、もはや彼の意思を拾うことは不可能のように思えた。


「エスト、やりすぎ」


 エアの声。

 姿は現さなかった。


「終わった後に言うおまえも大概だろ」


 少し八つ当たり気味に言う。

 自覚はあるのだ。俺のおこないも十分に人間の所業を逸脱している。刑とは名ばかりの復讐。ダークヒーローでも何でもない。

 鬼と自称すれば鬼に失礼と言えるほどに、俺は一線を越えるどころか道を完全に踏み外している。


 俺がエアに強く当たったのは初めてだ。

 エアがどんな反応をするか気になって少し待っていたら、背筋に何か強烈な憎悪が走った。



 ――ふふふ、足りない。ぜんぜん足りない。



「貴様……」


 聞き覚えのある声だ。これはエアの声ではない。

 とっさに周りを見渡すが、どこにもいない。

 エアの声は耳から入ってくるが、こいつの声は脳内に直接響いてくる。



 ――あなたは終始、とっても論理的だった。大切なものを汚されたから怒るのは当然。復讐することも真っ当。至極論理的でつまらないことしかしていなかった。でも、最後はほんの少しだけ狂気に触れていたわ。苦しみを与えられる保証がないのに追撃を加えたわね。復讐の域を超え、好奇心に任せて不要なことをした。ありがとう。その調子で狂気を育てなさい。



「そう言われて俺が従うと思うのか? 俺のことをぜんぜん分かっていないようだな。天邪鬼あまのじゃくな俺には逆効果だ。貴様のささやきは単なる愚行。ナンセンス。墓穴を掘って残念だったな」


 そんな強気な言葉を返す俺だが、全身の毛穴から血飛沫ちしぶきのように汗が噴き出している。

 さっきまでの自分に対して抱いた憎悪、嫌悪、そういった感情をすべて塗りつぶすほどの恐怖が俺を包み込んでいた。

 まるで心臓を、背骨を、眼球を揉みしだかれているような感覚。胃や腸をつつかれているような感覚。

 いままさにそれを感じているにもかかわらず、想像を絶している。

 これを恐怖と言っていいのかすら分からない。

 言葉にならない何かが俺を襲う。



 ――いいのよ。私はあなた以上にあなたのことを知っている。次の機会にはあなたは葛藤する。その葛藤が大事なの。自覚ある凶行は自制観念を崩壊させ、狂気の音色を響かせる。反骨精神が旺盛おうせいなほど、高く大きく不協和音は響く。ただ一つの心配は、私が成熟する前にあなたが自滅すること。ゲス・エスト、いまのあなたは一人ではないのよ。ねえ、エア。



 エアは返事をしない。彼女も俺のように得体の知れない感覚に襲われているのだろうか。

 この後、俺が何かを言っても悪魔のような何者かの返事は返ってこないと直感した。


「エア、大丈夫か? おまえは休んでいろ。マーリンの居場所はさっきの映像で空気を操作したときに掴んだ。俺が迎えに行く」


 俺がそう言って一歩を踏み出したとき、突如として何かが俺の全身を駆け巡った。

 それは疲労感。戦闘によるものではない。いや、戦闘における消耗もだいぶあったが、これはまったく異質のものだ。

 精神的なストレス。

 先ほどの狂気の権化ごんげとの対話において、相手が存在するだけで感じる激烈な圧力に俺は耐えていた。

 その疲労が血管に入り込んだ毒のように一瞬で全身へと回ったようだ。


 体を支える力を失った俺は、砂塵を被った大理石の床が眼前に近づく光景を眺めながら、その結末を目撃する前に意識を失った。

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