第98話 軍事区域⑥

 ロイン大将は空中に浮いているからといって慢心はしていない。ドクター・シータから飛び道具で攻撃されることを想定して防御用の剣を残しておいた。

 ドクター・シータを追いかけなかった残り半数の剣たちはロイン大将の前にすばやく移動して束になった。

 それは盾だ。エッジに切れ味のある盾だ。

 盾はドクター・シータの蹴りを完全に防いだ。剣たちだけで衝撃を受けきり、ロイン大将へ流れたダメージはない。


 しかし、ドクター・シータもそれは想定内のようで、蹴りに攻撃でなく助走としての役割を持たせた。剣でできた中空の壁を蹴り、ドクター・シータはさらに高く跳んだ。

 そしてロイン大将めがけて口から黄色い液体を飛ばす。


 ルーレは経験上、イーターが攻撃のために吐く体液は二種類だと知っている。

 一つは粘着性の高い唾、もう一つは何でも溶かす酸。


 ロイン大将は盾にしていた剣を屋根にした。屋根瓦のように、雨が一方向に流れるよう剣の腹を重ねる。

 降り注いだ液体は剣の屋根を伝って地上へと流れ落ちる。粘性の低さからして酸だ。相手や武器の動きを奪う粘着質な唾ではない。


 滞空状態のドクター・シータは彼を追跡していた剣に串刺しになるかと思われたが、剣は彼をかすめて通りすぎてしまった。

 屋根を作ったためにドクター・シータはロイン大将の視界から外れていた。あの素早いモンスターを見失うことは極めて危険だ。

 しかし、酸の雨を防ぐには仕方のないことだ。


 ロイン大将からはドクター・シータは見えないが、ルーレには見えている。

 ドクター・シータは自在に変形できる腕を薄く広げ、ムササビのように体全体が空気抵抗を受ける状態になっていた。

 羽ばたくように動かし、落下より早いスピードで地上へと戻る。着地の振動が音と砂をき散らすが、ルーレの視界が奪われるほどではない。


「さすがだよ、軍事殿。だが、貴様の魔法では雨に濡れないなんて芸当は不可能だね」


 ドクター・シータは自らの着地のために使った平たい腕を、今度は団扇うちわのように使った。腕を左右に力強く振って強風を起こす。

 ロイン大将は即座に攻撃用の剣を呼び戻して壁を作った。

 風に乗った溶解液の飛沫がロイン大将の軍服を焦がして穴を開けたが、彼自身が生きているという意味では防御は間に合った。


「終わりだよ、軍事殿。いや、始まりか。これから貴様を味わうのだからな」


 ドクター・シータの背中から六本の白い腕が生えた。それがいっせいにロイン大将へと伸び、上下左右前後の六方位からの同時攻撃を繰り出す。

 酸の雨を上と前方から防いでいるロイン大将は身動きも取れないし、剣を動かすこともできない。


 ルーレは直感した。これが決着の一手になると。

 そして、これはドクター・シータの勝ちだ。


「――ッ!?」


 おそらく、ルーレの直感は外れてはいなかった。


 ドクター・シータの六本の腕は、ロイン大将に触れる直前で止まっていた。


「どうした、学研?」


 ロイン大将のその言葉には、挑発の抑揚は含まれていなかった。

 純粋なる疑問。

 彼はおそらく諦めてはいなかっただろうが、覚悟はしていた。敗北し、捕食されることを。


 ドクター・シータは苛立いらだちをあらわにした。これまで常に優位を確信してきた彼だから、これは初めて見せる表情だ。


「くそっ、何者かが俺を支配しようとしている。何者だ? メターモではないな。体が言うことを聞かないわけではない。命令されて強制的に目的を遂行させられるかのような感覚。魔術か? 逆らえん。軍事殿、命拾いしたな。私は魔術師の召喚に応じてリオン城へと向かうが、いずれ貴様の魔法を奪いに戻ってくる。先にほかの魔導師を食って魔法を吸収できなかったら、そのときは戻ってこないだろうから、せいぜいそうなるよう祈ることだ。ウィッヒヒヒ!」


 ドクター・シータはロイン大将が追ってこられないように、上空へ向けて酸性の体液を吹き上げた。

 今度はさっきよりも広範囲だ。ルーレにも届くほどに。

 ルーレは氷の東屋あずまやを創造し、酸の雨に備えた。

 ロイン大将も黄色い雨を凌ぐことに精一杯で身動きが取れなかった。


 ドクター・シータだけが悠々ゆうゆうと酸の雨の中を走った。

 速い。

 薄く広げた腕で羽ばたきながら跳べば、彼は数歩で軍事区域を抜けるだろう。帝国を横断するにしても、おそらく五分もかからない。


 ルーレは氷越しに、とてつもない怪物が帝国の中心方向へと向かっていくのを見送った。


 雨がやんだ後、ロイン大将はどうするだろうか。ドクター・シータを追いかけるだろうか。

 それともルーレを見つけ出し、リッヒ家の抹殺命令を遂行するだろうか。そうだとしたら、一刻も早くこの場を離れなければならないが、いまはまだ動けない。動けるようになるのは酸の雨がやんだとき。

 しかし、そのときにはロイン大将も開放される。


 そして、雨はやんだ。


 ルーレはロイン大将を警戒した。さっきの派手な氷魔法で位置はバレているはずだ。

 さあ、彼はどう動くか。


「ナクス少将、いるか?」


 ロイン大将が声を張りあげた。低いのによく通る声だ。


「ここにおります!」


 ナクス少将はロイン大将がここへ出てきたときの出入り口から姿を現した。


「緊急事態である。演習場が汚染された。これから全兵をもって除染作業を開始する。また、化学班はただちに汚染物質の分析を進めよ」


「了解しました。ロイン大将は学研殿をお追いになられるのですか?」


「……いや、いまの私が行けば彼女の邪魔になるだけだ」


「彼女って近衛騎士団団長のことですか?」


「リッヒ家の皇帝家の忠誠はあなどれんぞ、ナクス少将。あれは陛下の命令に背いてでも陛下をお守りするほど忠義を尽くす一族だ。それに、私はしばらくは戦えん。酸の蒸気を吸いすぎた。目眩めまいや吐き気といった中毒症状が出はじめている。休ませてくれ……」


 空中で静止していたロイン大将が、フラッとよろめいたかと思ったら、そのまま頭から落下する。


「大将!」


 彼は無事だった。氷の滑り台が彼を建物の中へと導いたため、地面への激突は免れたし、酸の水溜りへのダイブもまぬがれた。


「ルーレ殿、ロイン大将を助けてくださってありがとうございます」


 ナクス少将はルーレに向かって敬礼した。

 ルーレは氷の東屋の下で苦笑した。


「リッヒ家は誇り高き一族です。あの場面で彼を助けないわけがありません。それで、次はあなたが私を殺しに来るのですか?」


「いいえ。その命令を受けたのはロイン大将です。私はその命令を受けておりません。上官の任務を許可なく引き継ぐことは、独断の暴走と見なされます。それに、私はロイン大将の救護と除染作業の指揮をらなければなりませんので。では失礼します」


 ルーレは胸を撫で下ろした。

 氷の東屋を出て、酸の水溜りを踏まないように移動した。テキトーに座れる場所を探して腰を落ち着ける。


「ドクター・シータは強かったけれど、リーンがいれば問題ないわね」


 同じリッヒ家の人間。ルーレは自分もリーンくらい強くなれるはずだ、ならなければならない、そういう思いを膝に乗せて抱きかかえた。

 リーンを信頼して、いまは休もうと決めた。自分もかなり消耗している。

 ロイン大将も強かった。自分はまだまだだ。


 強くならなければ。リッヒ家の名に恥じぬように。

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