第88話 軍事区域①

 ――軍事区域。


 禿げた大地に無数の靴音が重なりあっている。気合の入った号令の後、破裂音が嵐のように降り注ぐ。

 ここは帝国北方に位置する軍事区域の中でもさらに北に位置する軍事演習場。いまは軍事訓練の真っ最中である。


 窓の向こうに苛烈かれつな訓練をこなす兵士たちをのぞみながら、ルーレ・リッヒは帝国軍の将官たちとのにらみ合いを繰り広げていた。


「緊急査察とは穏やかではありませんな。我々も暇ではありませんのでね。納得のいく理由説明をお願いします」


 帝国軍のトップはこのロイン・リオン大将である。

 階級の紋章がついた緑の帽子の下で、垂れ目が鋭く光っている。十分な手入れがなされた口ひげは彼のシンボルだ。

 その精悍せいかんな小顔には、まるで軍隊をひとところに濃縮したかのような覇気が感じられる。


 ロイン・リオン大将は、リオンという姓から分かるように皇帝家の血筋の者だが、あくまで彼の権力は帝国軍大将としてのものに留まるし、仮に皇帝が崩御ほうぎょあそばされたとしても、訳あって皇帝家を離れた彼が皇位継承することはない。


 ここはロイン大将の執務室である。

 部屋の中には客人をもてなすためのテーブルやソファーといった応接空間が設置されている。彼のデスクの背後には大きな窓があり、そこから演習場を一望できる。

 演習場と隣接しているというと危険な場所のように思えるが、この部屋はリオン城よりも頑丈に作られているため、物理的な意味では帝国内で最も安全な場所といえる。

 もちろん、窓についてもガラス発生型魔導師が創造した特別製で、世界で最も強度の高い窓となっている。


 その大窓とロイン大将のデスクを背にソファーに座っているのは三名。中央にロイン大将、その右にカーナ中将、左にはナクス少将が腰を沈めている。


「査察となると、いまおこなっている演習を中断せねばならん。そうすると本日の予定が終わらなくなってしまう」


「後日には回せないのですか?」


「予定はずっと詰まっている。一日の遅れはずっと尾を引き、月の予定が未達、さらには年の予定が未達となってしまうのだ。一日分でも未達は未達。世界最強の軍隊たる帝国軍にはあってはならぬことなのだ」


「そのようなスケジュールは破綻はたんが目に見えています。スケジュールについても精査する必要があるでしょうね。拝見できますか?」


 ロイン大将は因縁をつけられて渋い顔をしたが、リッヒ家の査察は皇帝家に準ずる権限を有するため、帝国軍のトップであっても従わざるを得ない。


「スケジュールだけならばいますぐお見せできるでしょう。カーナ中将、私が承認した帝国軍日割スケジュールは持っているかね? 私が持っているものはいろいろと書き込みしていて汚いのでね」


 ロイン大将が視線を飛ばした先にいる男、カーナ中将はロイン大将よりもふた回りほど若い。

 彼は頬骨ほおぼねに特徴がある。日の光を求める向日葵ひまわりのように上方へ突き出した頬骨が、そのしたたかそうな目を落ちくぼんでいるように見せている。

 さらに鷲鼻わしばなも手伝って、夜な夜な秘薬を調合している老魔女のような顔つきをしていた。


 カーナ中将はロイン大将の質問を受け、前傾してロイン大将の向こう側にいるナクス少将へと声をかけた。


「ナクス少将、私がロイン大将に承認いただいた帝国軍日割スケジュールはあるか?」


 ナクス少将はカーナ中将よりもさらにひと回り若い。童顔のせいで新兵とも見間違われそうだ。

 だが若いことに変わりはなく、その若さで少将にまで登り詰めた彼がどれほど優秀かは想像に難くない。

 そんなナクス少将も前傾してカーナ中将へと問いを返した。


「カーナ中将、スケジュールは私が保管しておりますが、お持ちするのは写しでよろしいのでしょうか? それとも原本のほうがよろしいでしょうか?」


 前傾していたカーナ中将は背をふかふかの背もたれに戻し、大柄のロイン大将を見上げた。


「ロイン大将、スケジュールは原本と写しのどちらがよろしいでしょうか?」


「原本だ」


 カーナ中将は再び前傾した。


「原本だそうだ」


「承知しました。いまお持ちします」


 ナクス少将は素早くソファーから立ち上がり、駆け足で部屋を出ていった。

 そして彼が戻ってくるまでの間に聞こえた演習のかけ声と爆音の嵐は、一セットだけだった。それだけナクス少将が戻ってくるまでが早かったということだ。


「お持ちしました」


 カーナ中将にスケジュールの原本を手渡すと、ナクス少将はソファーの後ろを回って自分の席に腰を戻した。


「ロイン大将、こちらがスケジュールの原本になります」


 カーナ中将はナクス少将から受け取った紙をそのままロイン大将に差し出した。

 ロイン大将は一度紙に目を落としてから、それをルーレ・リッヒの前に置いた。


「拝見します」


 ルーレ・リッヒは一枚の紙を拾い上げ、さっと目を通した。

 ルーレがちらと視線を上げると、ナクス少将が緊張の面持おももちで彼女を見つめていた。ロイン大将はどっしりと構えている。カーナ中将は指の逆剥さかむけの手入れをしていた。


 ルーレは最終的にロイン大将と目を合わせた。


「いかがかな?」


「無駄はないようです。しかし、これを一年に詰め込む必要性も感じません。帝国軍は世界でも最強の軍事力を誇っています。仮に兵を半数に減らしたとしても、世界と戦争して勝てるくらいの力があります」


「リッヒ家ならば承知しているだろうが、いまの帝国に他国と争う気はない。想定している敵はイーターだ」


「イーター……? 一匹や二匹のネームドイーターが相手でも世界戦争ほどの戦力は必要ないでしょう。まさか、未開の大陸へでも侵攻するおつもりですか?」


「さすがにそれはないさ。ルーレ殿、イーターをあなどってはならんよ。ネームドイーターにしても強さはピンからキリまであるのだ。実際、かつてアークドラゴンが来襲した際には我が帝国軍では歯が立たなかった。あなたの従姉いとこのリーン・リッヒ殿が追い払ってくれなければ、帝国は壊滅していたかもしれない」


 ルーレ・リッヒはやはり納得がいかなかった。ロイン大将は口が回る。

 実際にネームドオブネームドイーターを想定いているのかは定かではないし、もしアークドラゴンのような超強力なイーターが現れれば、どんなに訓練していても一国の軍隊程度ではやはり歯が立たないだろう。


「そういえば何も出さずに失礼したね。カーナ中将、お茶の用意を頼めるかね?」


「了解しました。ナクス少将、茶の手配をしろ」


 ロイン大将から指示を受けたカーナ中将は、前傾姿勢になり、ソファーの他端にいるナクス少将にむけて声を荒げた。


「承知しました。すぐに手配いたします」


 ナクス少将はすっくと立ち上がり、駆け足で扉から出ていった。

 彼はすぐに戻ってきた。彼は紙切れを持っていた。ソファーを後ろから周りこみ、カーナ中将の隣で姿勢を低くする。


「カーナ中将、メニュー表をお持ちいたしました。紅茶、コーヒー、ミルク、それぞれアイスとホットで準備できます。何にいたしましょう」


 カーナ中将はメニュー表を受け取り、それをロイン大将に手渡した。


「ロイン大将、聞いてのとおりです。何にしましょう?」


 ロイン大将はスケジュール表と同じくルーレ・リッヒの前にメニュー表を置いた。


「希望はあるかね?」


「アイスティーをいただきます」


「承知した。カーナ中将、ルーレ・リッヒ殿にアイスティーと、私にホットコーヒーだ」


「了解しました。ナクス少将、アイスティーとホットコーヒーとミルクティーだ」


「ミルクティー? カーナ中将、お言葉ですが、うちにある紅茶とミルクの相性は悪いので、それはおやめになったほうがよろしいかと……」


「なんだと? だったら、そうだな、うーん……」


 ルーレ・リッヒは見かねて咳払いをした。


「やっぱり私はドリンクは結構です。それよりも話の続きを……」


 そこまで言って、ルーレは言葉を続けるのをやめた。ロイン大将が手を前に出して静止してきたからだ。

 ロイン大将が大きな咳払いを一つ吐き出した。


「カーナ中将、私は君に指示を出しているのだよ。君が持ってくるべきではないかね?」


「それは失礼しました。すぐに……」


「いや、もういい。君は座っていなさい。どうせ茶をれたこともないのだろう? ならばナクス少将に頼んだほうがいい。ナクス少将、アイスティー、ホットコーヒー、ホットミルクを一つずつだ。君はホットミルクが好きだったね? ああ、あと、ミルクティーだ。カーナ中将に最高のミルクティーをご馳走してやりたまえ」


「は! 承知しました! すぐにお持ちします!」


 ナクス少将は駆け足で部屋を出ていった。


 カーナ中将とロイン大将の視線はかち合っていた。

 カーナ中将の目は細められていた。にらんではいないが、しわの一つでも増やせば睨みになるくらい微妙な視線を上官に向けていた。

 対するロイン大将の目は怖かった。蛇が蛙を睨むような視線だ。

 その緊迫した空気に臆することなく、ルーレ・リッヒは声を挟んだ。


「スケジュールに関する吟味ぎんみはまだ不十分ですが、先に申し上げたいことがあります。中将という階級は帝国軍に必要ないのでは? このような人間の高給を税金でまかなうというのは、監査員としてはもちろんのこと、いち国民としても腹立たしいものです」


「ルーレ殿、あなたは監査員なのだから、遠まわしな言い回しは混乱を招く。はっきりと言いたまえよ。カーナ君が無能だから中将から降ろしたほうがいいのではないかと。変な遠慮で中将という階級をなくされては困る」


 カーナ中将が優秀ならロイン大将も茶汲みなどさせようとはしなかっただろう。

 この場にいる全員の表情が険しい。中でもカーナ中将は顔を真っ赤にして握った拳を震わせている。眉間みけんにコメカミに手の甲にあらゆるところに血管を浮き上がらせて、ついには自分自身が立ち上がった。


「おぉのぉれぇえええ!」


 カーナ中将がロイン大将に向かって手をかざし、怨嗟えんさのうなり声を送り込んだ。するとロイン大将が鋼鉄の大蛇へと変貌へんぼうした。鱗、目、牙、舌、すべてが鋼鉄でできていて、その巨体は部屋の半分を埋めるくらいの体積を有している。

 カーナ中将によってイーターに変貌させられたロイン大将は自我をなくしたか、ルーレに向かって噛みつきにかかった。


「ぬうっ!」


 ルーレは氷で大きなつちを創造し、大蛇の横顔を叩いた。

 蛇の顔はわずかに向きを変えただけで、氷槌ひょうついによる打撃の衝撃はほとんどルーレの手に返ってきた。


 ルーレは氷槌を捨てて蛇の顔から距離を取った。

 ひとまず使い慣れている氷の細剣を創造するが、この敵が相手では威嚇いかくにすらならない。剣はルーレが自分の心を落ち着けるお守りでしかなかった。


 ルーレがどうしたものかとひたいに汗を浮かべて思案していたところ、鋼鉄のうねりの向こう側から低いうめきが聞こえてきた。

 蛇の胴のうごめきの隙間から垣間見えたのは、鋭く尖った鋼鉄の尻尾がカーナ中将を背中から貫いている光景だった。


「どういうことだ……。カーナ中将の魔法は人をイーターに変えるだけで、それを操ることまではできないということか?」


「そうではない」


 その声はロイン大将のものだ。

 ルーレはカーナ中将が貫かれて魔法が解けたのかと考えたが、そうではなかった。


「なにっ!?」


「リッヒ家の者ともあろうものが、ずいぶんと鈍感なものだな。これが魔法だとしたら何の魔法だというのだ。まずは魔術を疑うべきではないのか? 私には君が氷の魔人に見えていたが、すぐに幻覚だと分かったぞ」


「なるほど。しかし、ロイン大将はカーナ中将がどんな魔術を使うのか知っていたのでは?」


「いいや、彼は自身の能力を隠していた。中将になったのも大臣の推薦、というか押しつけで無理矢理ねじ込まれたのだ。それゆえに魔術師である可能性が高いと踏んでいた点では、たしかに私のほうが情報量として優位であったことは認めるがね」


 幻覚が解けて、真実の光景がルーレの目に映った。宙に凹んだ鉄板が静止していて、カーナ中将の腹には背中側から剣が突き刺さっていた。

 鉄板は壁の一部が剥がされたもので、剣は壁に飾りとして掛けてあったものだ。


「大臣はカーナ中将を使って帝国軍を乗っ取り、マジックイーターの戦力として取り込もうとしていたわけですか」


「そのようだ。もっとも、大臣は人選を誤ったようだがな」


 ロイン大将とルーレ・リッヒの視線を受けとめながら、カーナ中将は苦しそうに笑った。一歩、二歩と前進することで、宙に静止した剣を自分の体から引き抜こうとしている。三歩目でカーナ中将の体は剣から解き放たれるが、腹と口から大量の血を吹き出してその場に倒れた。

 だが彼はまだ笑っていた。


「ついカッとなっちまった。やっちまったなぁ……。どうせおまえたちは殺し合うことになるのになぁ」


 そこまで言って、カーナ中将は事切れた。

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