第86話 学研区域④

「ククク、あんたもまずそうだな」


「も? って、おまえ、まさか!」


 ドクター・シータを挟むイーターの皮膚がブクブクと泡立ちはじめた。ドームは開け放たれ、イーターは収縮していく。そしてドクター・シータをどんどん包み込んでいく。


「どういうことです……?」


 セクレ・ターリは衝撃的な光景に呆然としていた。

 彼女の独り言のような質問に、当然ながらドクター・シータが応じるはずがなかった。彼にはそんな余裕はない。まとわりつく粘液を振り払おうと暴れている。

 しかし彼の胴体はガッチリとイーターの体に挟まれていて、もはやなすすべはなかった。

 浮いていた書類たちは、魔法による支えを失って床に散らばっていた。


「最初のセクレ・ターリには貴様が変身していたのか! だとしてもなぜ溶解液で溶けなかった!」


「ククク。オレっち液体型だからな。酸がチクチクして痛かったけれど、我慢したぜ。後から合流した中和液ってのもオレっちが弾いた。食事に来た試作〇一〇号ちゃんを逆に溶かして食ってやったぜ。なんかパワーがみなぎると思ったら、合成液とやらのおかげで食った奴の能力を吸収していたんだな。ついでに美味そうな奴がいたんで、そいつも食ってやったぜ。ハハッ」


「〇〇二号か!」


 ドクター・シータは完全に飲み込まれた。

 イーターは一度スライム状に形を崩して、ウネウネとうごめいた。砂鉄が磁石でもてあそばれるように、いろんな方向へ伸びたり凹んだりしている。


 セクレ・ターリは逃げるならいまのうちと思い、入り口の鍵がどうにか開錠しないかと扉を調べた。

 しかし、内側からはどうしようもなかった。リモコンはドクター・シータごとイーターに飲み込まれたし、自動扉なので取っ手すらついていない。

 部屋の反対側の、試作〇一〇号が出てきた出入り口も、見る限り行き止まりだった。イーターの入ったボックスがリモコンで入れ替わる仕組みらしい。

 やはりリモコンがないとどうしようもない。お手上げだった。


「仕方ないですね」


 あの巨大イーターがドクター・シータを吸収しおわった後、おそらくセクレ・ターリも食われるだろう。

 もし最後まであがくとしたら何ができるか。

 今日ここで起こったことを記録として残す。それを生徒会長か誰かが見てイーター討伐のかてとなれば幸いなことだ。

 セクレは床に散らばった書類をかき集めた。


 セクレ・ターリの魔法は不透明液体の操作型の魔法だ。だから乾いてしまったインクは操作の対象外となる。

 だが、そのインクの部分に手汗程度でもいいので少しでも水分を与えると、それは彼女の操作対象となる。

 それは彼女が魔導師としてかなりレベルが高いからこそできる芸当で、不透明液体が大量にある場所であれば、彼女の強さは四天魔の末席に匹敵するほどである。

 しかし、いかんせん不透明液体が大量にある環境というのがそうそうないために、彼女の才覚は日の目を見ていない。

 それでも生徒会長は彼女の素質を見抜いており、だからこそマーリン奪還作戦にも単身にて役割を与えたのだ。


 セクレは乾いた書類を再びでまわし、黒い文字に汗を染み込ませた。

 あとはインクを操作して文字の形状と配置を変えるだけ。


「グォオオオオオンッ……」


 イーターの強烈な咆哮ほうこうに驚いて、セクレは手にした書類を落としてしまった。

 書類はまた床に散らばったが、いまなら魔法で浮かせて手元に集められる。

 だが、悠長にそんなことをしている場合ではなかった。

 イーターはドクター・シータを完全に消化してしまったらしく、元の巨大な白ゴリラ姿に戻っていた。

 ただ、最初と違って目と口がある。アルビノらしく真っ赤な目だ。それから、牙はないが歯はギザギザで、肉を噛み切ることに特化していた。

 赤い目がセクレを捉えた瞬間、腕や肩、胸、腰など全身に切れ目が入り、白いうろこ状の皮膚がぱっくりと割れた。

 それら全てが目だった。無数の赤い目がセクレを凝視する。


「…………」


 セクレは心臓がキュッと握り締められたような圧迫感を覚えた。

 声が出なかった。


「セクレ・ターリ……」


 しゃべった。イーターが、はっきりと喋った。モザイクがかかったような耳障みみざわりな声だ。


「あなた……、何者なのです? 私のことも食べるです?」


 体中の赤い目が閉じて次に開いたときにはすべて口に変わっていた。

 その口がニヤリと笑う。


「オレっちはメターモ。あんたのことは食べないよ。食べたらエストの旦那に殺される。いや、バレないかな。バレないよなぁ、たぶん。食っていいか?」


「駄目です。私の魔法で必ず証拠を残すです」


「ハハッ、冗談さぁ。オレっちはエストの旦那が送り込んだ刺客。旦那はあんたじゃドクターには勝てないだろうと踏んで、オレっちを送り込んでいたのさぁ。オレっちは液体型イーターだから、あんたの姿に変身してここを訪れたのさ……ヒック」


 メターモはのっしのっしとセクレに近づいてくる。

 数多の口の一つがよだれを垂らしていた。

 セクレは身構えた。自分を油断させて食べようとしているのではないかと警戒した。


「液体型、ね……。あなた、不透明ですね」


「オレっちのことは操れねーぜぇ。だっていまは液体じゃないからなぁ。見てのとおり、人間と同じく血と肉と骨と皮でできているんだからなぁ。ヒック。……ヒッ、イック」


 しゃっくりだろうか。これはどういうことだろうか。妙な喋り方だが、これがメターモの通常の喋り方なのか。それとも、さっきの食事で人間でいう飲酒みたいな作用が働いて酔ってしまったのか。


「あれぇ……おかしいなぁ……。意識が、飛ぶ、ぞぉ……。イッ……ク……。食べちまったら、悪いけど、旦那に、一緒に、謝って、く……れぇ……。ウィック」


 セクレ・ターリはいよいよ身の危険を感じて後退あとずさりするが、背後はすでに壁だ。開かない扉が壁となっている。

 魔法で書類を手元に集めるが、あまりにも強い焦燥感しょうそうかんが彼女の思考をさまたげた。何をすればいいのか分からない。何もできない。


「ウィッヒ……」


 メターモの肩とひじからニョキッと突起物が生えたと思ったら、次の瞬間にはそれが触手となり弾丸のような速度で飛んできた。

 セクレは思わず目を閉じたが、触手が速すぎて目を閉じる前にその動きの結末を目撃してしまった。

 そっと目を開き、記憶と光景を照合する。

 触手は書類を掴み、引き上げていた。


「ウィッヒ。これは、大事なものなのでねぇ」


「……あなた、まさか、ドクター・シータなのです?」


 セクレは自分の震える声を聞いて、自分の精神状態を再認識した。状況は最悪。イーターがメターモにしろ、ドクター・シータにしろ、自分は終わりだ。


 白い巨大なゴリラの体がウネウネと脈打ちはじめ、変形した。現れたのは、まぎれもなく最初のドクター・シータの姿だった。


「ウィッヒヒ、いかにも。食われたのは私だが、勝ったのは私だ。メターモめ、試作〇〇二号を食ってしまったのが運の尽きだったな。あれはいずれ私の器となるべく研究していたイーターだったのだ。いわば素体。私の遺伝子で作った私のためのイーターだったのだよ。意識を完全に私に明け渡すよう作ってあった。予定はだいぶ早まったが、結果オーライというやつだ。ついでにメターモの変身能力もいただいた。いまは変身によって元の自分の姿を再現しているのだよ。ウィッヒヒヒ」


 饒舌じょうぜつだ。イーターの意識は完全に元のドクター・シータのものになっている。ほかの意識が競合している様子はない。メターモは消滅したと考えていいだろう。


「私を始末するです?」


「どうしようかねぇ。私がメターモに成りすましてゲス・エストに不意打ちを食らわせるのも一興だが、その場合は貴様を始末せねばならんね。だが、奴はしゃくに触る男だ。『不意打ちでもしなければ俺に勝てないのか』などとほざきそうだから、正々堂々と正面からぶっ潰して悔しがる顔を見てやりたいものだ。そしてじっくりじわじわと吸収してやるのだ。ウィッヒ、ウィッヒヒヒ!」


 ドクター・シータは扉に手を掲げた。

 扉のロックが解け、自動的に開いた。


「どういうことです? 私を逃がして、それを追いかける遊びでもするですか?」


「貴様なんぞに興味はない。貴様は伝令だ。私の戦線布告をゲス・エストに伝えるのだ。『今日このとき、ドクター・シータが最強の生物となった。貴様の挑戦を受けてやるから、かかってこい』とな。ちゃんと奴のほうが挑戦者であることが伝わるように言うのだぞ。いいな?」


「わ、分かったです……」


「地上へは一人で出ろ。私はこれから残りの試作をすべて摂取する。いまの私は怪力と変身能力のほかに、食べた相手を吸収してその能力を自分のものとすることができるのだ。私はこれからますます強力になっていく。ゲス・エストめ、さっさと来ないとどんどん差が開いていくぞ。ウィッヒヒヒヒィ!」


 一人で乗るエレベーターは心許こころもとなかった。装飾なしの金属板が、触ってもいないのに冷たく感じる。

 もちろん、この密室にドクター・シータと二人きりになるのはもっとごめんだ。


 セクレ・ターリは地上一階に戻り、研究所を出て日の光を浴びた。それでも心が落ち着かなかった。


「はあ、とんでもないことになったです……」


 人類最高峰の頭脳を持ち、ネームド級イーターのパワー&タフネスボディ、さらには捕食した生物の能力を自分のものにしてしまう怪物。とんでもないモンスターが誕生してしまった。この事態の責任のほぼすべてゲス・エストにあるはずだ。だが、一割くらいは自分にもあるだろうか。いや、ないはずだ。そう信じたい。いっそのこと、メターモに食われていたほうが楽だったかもしれない。

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