第83話 商業区域⑤

 エストが去った数時間後のこと、商業区域にて。


「さあ、開けてちょうだい!」


「し、しかし……」


「さっさと開けな!」


 黒いオーラをまとった初老女性の気迫に押され、宿の受付の男は仕方なく鍵穴に鍵を差し込んだ。

 刹那せつな、鍵穴から強烈な風が噴き出し、受付の男を吹き飛ばした。煉瓦れんがを突き破り、二階の高さから投げ出された。


「鍵も飛んでいっちゃったよ」


 大柄の男の背中にしばりつけられた少年が手足をだらんと垂れて溜息ためいきをついた。

 誰も驚かない。予期していたのだ。

 あの狡猾こうかつな少年が防御策を講じていないはずがないと。


「私に任せなさい」


 大柄の男が扉の前に立った。

 密度の薄い白髪の男は初老ながらも腕っ節には自信があるらしく、扉に体当たりをかました。腕っ節といっても、彼の腕はもはや動かないのだが。


 ――ドシン。


 扉は留め具が外れて床に倒れた。

 三人はそのまま部屋の中へと侵入する。


 部屋には三人の少女が川の字になって寝ていた。男の影が三人の顔に覆いかぶさったとき、いちばん手前で眠っていた少女が目を覚ました。


「――ッ!」


 思わず息を呑んだ。悲鳴をあげることすら忘れていた。声が出ない。

 それはおそらく魔術のたぐいではなく、あまりの恐怖に身体が声の出し方を忘れてしまったのだ。

 彼女の目の前にあったのは、見覚えのある顔だった。全身を巡る血が恐怖を運んでいる。

 少女は奥に眠る二人を叩いて起こそうとするが、二人には起きる気配がない。


「無駄だよ、サンディア・グレインさん。二人は魔術で寝ているからね。君のこともさっき触ったから眠らせられるんだけど、さすがに起きたばっかりだと催眠への耐性が高いね」


「いい気味さね。眠っていたほうが苦しまずに済んだかもしれないねぇ」


 唯一起きているサンディアは、横たわったままのハーティ・スタックとイル・マリルを背中にかばっているが、敵に相対する彼女の瞳は焦点が合っていなかった。

 強烈な睡魔が五感を鈍らせ、思考をも鈍らせているのだ。


「ねえ、ママ、もういい? もうやってもいい?」


 パーパ・パパ・アグリの背中に縛りつけられた状態でおんぶされている少年、フルー・フル・アグリが大きな声で呼びかけた。

 マンマ・ママ・アグリはニタニタと笑いながら強くうなずいた。


「いいよ、やっちまいな!」


 少年のふところから透明なビンが滑り出てきて空中を浮遊する。

 ビンの中には透明な液体が入っており、ビンの動きに合わせて液体の表面が波打っている。


「ふふふ。お姉ちゃん、これが何だか分かる?」


 サンディアは首を振った。まだ声が出ない。

 全身を血のように巡る恐怖にはとげがあって、血管を針で突くように全身に痛みを生んだ。


 おやつを待てない子供のように、マンマがこらえきれなくなって答えを口にする。


「これは殺虫液だよ。イーター規格のね。まあ、ようは激烈な酸ってわけさね。人間の皮膚なんか一瞬で蒸発しちまうよ。神経が焼かれる痛み、噴き出す血、けたたましい悲鳴。楽しみだねぇ」


 フルーがビンを凝視している。宙に浮遊するビンのガラス蓋が、これまた勝手に開く。

 フルーが魔導師なのだ。魔術師は魔導師にはなれない。だからフルーが魔導師だと分かるのだ。

 マンマとパーパは魔術師だが、その子供は魔術師にはならない。魔術師は精霊が人と成った者だが、人と成ったからには、彼らはもう精霊ではなく人なのであり、その子供は人なのだ。

 だから人としてフルーは精霊と契約して魔導師になれるのだ。


 ビンが傾けられる。

 透明な液体が一粒、ポツっと垂れた。木床に落ちたが、そこで一粒の液体がグチュグチュと音を立てて暴れ出す。そしてものの数秒のうちに拳大の穴ができあがった。


 サンディアは動けなかった。寝たまま起きられない二人をまもらなければならず、逃げるわけにはいかなかった。

 それに、パーパの魔術で強烈な睡魔に襲われているため、正常な判断もできないし、思うように身体が動かない。おまけに足がすくんでしまっている。


「実験っ、実験っ、蛙より面白い反応見せてよね、お姉ちゃん!」


 ガラスの操作型魔導師・フルーによって、ビンが宙を滑るように移動し、サンディアの頭上へと運ばれる。

 そして、ビンが傾けられる。


 サンディアにはどうすることもできなかった。身体が動かなかった。もはやなぜ動かないのかも分からない。ただただ恐怖に侵されていた。

 一粒の涙がほおを伝う。流れ星のように。


「助けて……」


 やっと出た声は、かすれてほとんど誰にも聞こえないような小さなものだった。


 無情にもビンは傾けられ、透明な液体がサンディアに影を落とし、そして距離を縮める。


 液体と影の距離はゼロになった。場所はサンディアの頬。


「はーっはっは、どうさね、どうさね!」


「ギェアエアアアアアアあいいいいっ!!」


 甲高かんだかい悲鳴。マンドラゴラを連想させる奇声。どれほどの苦痛がこれほどの悲鳴を生み出すのか。

 それを耳元で食らったパーパはよろけて尻餅を着いた。


 悲鳴の主はフルーだった。


 ビンの中が空になっても、サンディアの頬に落ちていた薄い影は消えなかった。

 影が濃度を増し、漆黒へと変貌へんぼうし、サンディアの頬の上を移動する。

 漆黒の影は首を伝い、肩を伝い、腕を伝い、指を伝い、ベッド、そして、木床へと降りた。


「フルー、大丈夫か! どうなっている、どうしてこんなことに……」


「痛いよ痛いよ痛いよぉおおお! 大丈夫じゃない! 痛い痛いぃ……」


 フルーは頭部、ひたい目蓋まぶたと順に肉が溶けて溶岩のように流れ落ちていく。目も鼻もふさがり、そして口も塞がり声が出せずうめくだけとなった。


「ああ、なんてこと、なんてこと! あたしのかわいい坊や!」


 肉の溶解が止まり、フルーの顔は凹凸の激しいのっぺらぼうとなった。

 彼の苦しみは溶解の痛みだけではない。呼吸ができない苦しみも加わり、フルーは動かない腕でのどをかきむしろうともがいている。


「自業自得だね。おまえはそれを人にやろうとしたんだ。でもよかったじゃないか。幸いなことに、実験結果を身をもって知ることができたんだからね」


 先ほど床に下りた影が盛り上がり、人の形になった。そして影が霧散し、その人影の正体があらわになった。


「貴様は、ダース・ホーク! 貴様が、貴様がぁああああ!」


 マンマがダースへと飛びかかる。いまの彼女は腕が動かないため、肩から突っ込む。

 だが、彼女の体はバタリと床に倒れた。彼女の足が床にもれたのだ。


「実を言うとね、僕は世界を監視しているんだ。影を通してね。僕はそこで何を見てもできるだけ干渉しないようにしている。僕の個人的な感情で干渉することは理不尽なことだからね。でも、僕の監視のせいで魔術師にも同じ光景が覗かれてハーティとイルがおまえたちの恨みをかってしまったらしいからね。責任があるから、今回ばかりは助けるよ」


 顔をゆがめて聞いていたパーパがダースをにらみ上げる。

 彼はフルーを背負っていて自由に動けない。それでも彼の瞳には隙あらばダースに触れて催眠の魔術発動条件を満たそうとしている気配があった。


「フルーが溶解液をかけたのはサンディア・グレインだ。それを助けるのは理不尽ではないのか?」


 パーパのその言葉に、無表情だったダースの口元がわずかに歪んだ。わずかに気分を害したのではない。我慢していた感情が漏れたのだ。

 ダースがグイッとパーパの顔に自分の顔を近づける。接触を恐れていない。

 反対にパーパが恐怖した。蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。迂闊うかつに動けないし、冷静だとしても身体が硬直している。


「例外はあるよ。おまえたちだって孫のためなら何でもするだろう? 僕だってね、最愛の女性を守るためなら何でもするよ」


 パーパは息を呑んだ。恐怖の色に染まった彼の瞳には自らの終焉が見えているかもしれない。

 怒らせてはいけない人間を怒らせてしまった。額に大粒の汗を浮かべ、あごを震わせて歯をカチカチと鳴らした。


「パーパ・パパ・アグリ、マンマ・ママ・アグリ、それとバカ餓鬼。おまえたちは未開の大陸に行ったことがあるかい?」


「未開の大陸だぁ? そんなところ、行ったことあるわけないさね。あそこはネームド・オブ・ネームド級のイーターがゴロゴロといる所。一度行ったら生きて帰れるわけがないじゃないさね!」


「僕は行ったことあるよ。すぐに逃げ帰ったけどね。おまえたちも行っておいでよ。片道切符でね。それが相応のむくいというものだ」


 ダースが言いおわらないうちに、三人は自分の影に沈みはじめていた。

 沈まないようにどこかに捕まろうとしても、影は必ずつきまとう。その影に飲み込まれるのだ。どんなにもがいてもあらがうことはできない。空を飛べるわけでもなければ、絶対に抗えない。


 フルーは相変わらず喉をかきむしろうとしてうなりつづけているが、パーパとマンマはそれを尻目にダースをにらみ、思いつく限りの罵声ばせいを浴びせつづけた。


 三人が完全に飲み込まれて影が消えたとき、ダースの後ろから弱々しい声がそよ風のように流れてくる。


「ダース……」


「怖い思いをさせてしまったね。すまない。帝国内では表立って動けないんだ。でも君たちを連れ帰ることくらいはできる。帰ろう」


「うん。ありがとう」


 ダースが心苦しそうな面持おももちで振り返ると、彼の最愛の人は涙を流していた。しかし、優しく微笑ほほえんでいた。

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